オーディオの「美」(コメントへの返信・その4)
上野晃一様のコメントは、16日にもあった。
そこに、オーディオ評論の「美」とある。
いますぐというわけではないが、オーディオ評論の「美」もテーマになる。
何か書いていける予感がした。
オーディオ評論の「美」は、オーディオの「美」のひとつでもあるかもしれない。
上野晃一様のコメントは、16日にもあった。
そこに、オーディオ評論の「美」とある。
いますぐというわけではないが、オーディオ評論の「美」もテーマになる。
何か書いていける予感がした。
オーディオ評論の「美」は、オーディオの「美」のひとつでもあるかもしれない。
オーディオ評論家とオーディオ雑誌の編集者。
一般的にはオーディオ評論家の方が編集者よりもオーディオのプロフェッショナルであるように思われている。
当事者たちもそう思っているのかもしれない。
けれど本来はどちらがオーディオのプロフェッショナルとして上ということではなくて、
同等にオーディオ・エンジニアリングに長けていて、
その上でオーディオ評論家とオーディオ雑誌の編集者とでは役割が違うだけのはずだ。
だが実際には……。
この人(たち)は、オーディオのプロフェッショナルなのだろうか、
オーディオ・エンジニアリングに長けているのだろうか。
私はオーディオ評論家、オーディオ雑誌の編集者はオーディオ業界の中心にいると考える。
オーディオ評論家とオーディオ雑誌の編集者がオーディオ業界の主人公というわけではなく、
あくまでも業界の中心にいると見ている。
だから、くり返すが、彼らはオーディオ・エンジニアリングに長けていなければならない。
オーディオのプロフェッショナルとして、である。
つまり圧倒的であってほしいのだ。
圧倒的といえるほど長けている人たちがオーディオ業界の中心にいれば、
彼らに接しているオーディオ業界の人たちも感化・触発・挑発されていくのではないのか。
私がグールドの演奏が残酷だという話をした知人も、オーディオ業界にいた人だった。
彼はいまも自身のことをオーディオのプロフェッショナルと自認・自称している。
私は自称であれ他称であれ、オーディオのプロフェッショナルを名乗っている人に対しては、
はっきりというようにしている。
オーディオマニアの中には、キャリアの短い人やシステムの総額がそれほどでない人を、
オーディオの素人という人もいる。
誰かをオーディオの素人というのであれば、
その人はオーディオの玄人(プロフェッショナル)といっているのと同じである。
認めるところは認める。
けれど、あまりにもいいかげんなことを言っている人(オーディオのプロフェッショナルであるべき人)には、
「あまりにたやすく他者の異論を一蹴する」と思われてしまうことでも書いていく。
オーディオ業界がよくなれば、オーディオの世界はより広くより深く楽しく素晴らしくなっていくはずだ。
なのに、いまのオーディオ業界にははっきりと欠けている「もの」がある。
あるスピーカーの輸入商社の社長に、こんなことを話したことがある。
そのスピーカーは振動板にチタンを採用していた。
そのスピーカーに私は惚れ込んでいた。いまも惚れ込んでいる。
それで「振動板、カーボンもいいはず」と話した。
動作原理からいってカーボンでも動作するはずだし、
チタンとカーボン、どちらが優れているかは現実に製品化されなければなんともいえないものの、
カーボンにはカーボンならではの素材のよさがあるのだから、
チタン採用とはまた違うよさを、そのスピーカーから抽き出してくれるはず、という確信があった。
だが返ってきたのは「カーボンなんてありえない」だった。
どうもカーボンでは動作しないと判断しての即答だった。
それ以上、この件については話さなかった。
その一年後くらいして、そのメーカーからカーボンを採用したヴァージョンが登場した。
チタンがいいのかカーボンがいいのか、それは聴く人に委ねられているわけだが、
やはりカーボンで出してきたな、と思ったけれど、そのことを蒸し返す気はなかった。
オーディオ・エンジニアリングに長けている、長けていようとする人ならば、
そのスピーカーでのカーボンの可能性に気づいて当然である。
以前、「気になっている(その3)」で書いたが、
オーディオ業界に属している人は、オーディオのプロフェッショナルであるべきだ。
けれど、そのスピーカーの輸入元の人は残念ながら違っていた。
カーボンの可能性に気がつかないから、というわけではない。
誰しも気づかないことはある。
だがそれを誰かから指摘されたときに、その人がオーディオのプロフェッショナルであるならば、
すぐに気づかなければならない。
そのスピーカーの輸入商社の社長は、オーディオ業界にいるわけだから、
オーディオ評論家、オーディオ雑誌の編集者といった、
オーディオのプロフェッショナルであるべき人たちと仕事で日常的に接している。
ここで彼らがオーディオのプロフェッショナルであったならば、
輸入商社の社長もオーディオのプロフェッショナルとなっていたようにも思える。
この項の(その4)へ、上野晃一様のコメントがあった。
グールドの演奏が残酷であると感じたことを、ある人に話した、と書いた。
ここのところは、ある人を否定することにもつながるから、それ以上のことは書かなかった。
言葉足らずなのかはわかっていた。
言葉たらずなのだから、上野様のコメントにあるように、
そういう受けとめ方をされるかも、と思っていたけれど、それはそれでいいかな、と思い、
あえて言葉足らずのままにしておいた。
知人の「あたりまえじゃないですか」の後には、
「彼はプロなんですよ」という言葉が続いていた。
その人とのつきあいは長かった。
彼と話すことといえば、オーディオと音楽の話ばかりだったといってもいい。
それでも、彼に私がいいたかったことは伝わらなかった。
ここで知人との会話の逐一を書いたりはしない。
コメントには、
《グールドのピアノが残酷なのは「あたりまえ」です。
他者に冠絶するがゆえに、彼の人の演奏はかくも美しいのだから。》とある。
知人の「あたりまえ」とコメントにある「あたりまえ」は同じ意味で使われているとは、私には思えない。
知人と私の関係をほかの人は知らないのだから、
それに言葉たらずなのだから、そういうふうに受けとめられてもしかたない。
それでも、「あまりにたやすく他者の異論を一蹴」したのではない。
こんなことをここに書くことではないのだが、
「あまりにたやすく他者の異論を一蹴する」のは知人の方だとつねづね感じていた。
一蹴するのは、別にかまわない。
人の話を禄にきかずに知人はたやすく一蹴する。
そういうことがあって、昨日のブログであった。
コメントには「才能の隔絶による絶望を味わったことが、果たしておありでしょうか?」とある。
オーディオに関する限りはない、と答える。
なんという自惚れといわれても、オーディオに関しては「才能の隔絶による絶望」はまだ味わっていない。
これから先、味わうことになるかもしれない。先のことはわからない。
だからといって才能の差、違いを感じていないわけではない。
私よりも専門知識を持っている人はいる。けっこうな数の人がいる。
たとえばメーカーのエンジニア。
スピーカーのエンジニア、アンプのエンジニア、
そういった人たちのスピーカーに関する専門知識、アンプについての専門知識は私の敵うところではない。
けれど、オーディオの難しいのは、
スピーカーの専門知識をもった人がオーディオの専門家といえるかどうか、
アンプの専門知識をもった人がオーディオの専門家といえるかどうか。
スピーカー・エンジニアリング、アンプ・エンジニアリングが、
オーディオ・エンジニアリングと常に直結しているとはいえない。
だからこそオーディオ評論家の存在が求められるのだと考えてもいる。
そしてオーディオ評論家の活躍の場となるオーディオ雑誌の編集者も、
オーディオ・エンジニアリングに長けていなければならない、とも考えている。
もう30年ちかく前のことだ、20代半ばだったころ、グレン・グールドのピアノを聴いていて、
なんて残酷なんだろう……と感じた。
グールドの演奏を聴いていると、ピアノを弾ける、ということは、なんと素晴らしいことだと思える。
人生を最初からもう一度やり直せるのであれば、ピアノを弾けるようになりたい、とも思わせる。
けれど次の瞬間、なんと残酷なんだろう……、となっていた。
たとえピアノが弾けるようになるのに理想的な環境が与えられて、もう一度やり直したところで、
グレン・グールドのようには到底なれない。
一度だけではなく、二度三度やり直せたとしても、絶対に無理だ……。
圧倒的に隔絶したものを、グールドのピアノの音は感じさせていた。
だから、なんて残酷なんだろう……、と感じたのだろう。
この話を、ある人にしたことがある。
彼は「そんなのあたりまえじゃないですか」といった。
説明したけれど、彼の反応は同じだった。
それは彼の音楽の聴き方がそうなのであり、
同じようにグールドの演奏が素晴らしいとふたりともいっていても、違うだけのことだ。
そのときに、この人とは、「美」について真剣に語り合うことはないだろう、と予感した。
この予感は的中した。
2015年は未年(ひつじ年)である。
以前、美という漢字は、羊+大である。
形のよい大きな羊を表している、と書いた。
そういわれても、なかなか実感はわきにくい。
まず、なぜ羊なのか、と思う。
大きな羊は、人間が食べるものとしてではなく、
神に捧げられる生贄を意味している──。
神饌としての無欠の状態を「美」としている、ときけば、
美という字が羊+大であることへの疑問は消えていく。
となれば、美ということに対しての認識も変ってくる。
二年前に、「毎日書くということ(オーディオを語る、とは)」を書いた。
オーディオを語ることは難しい。
オーディオを語っているつもりでも、そこで語られているのは個々のオーディオ機器についてだったり、
そこで鳴っていた音の良し悪し、特徴だったするからだ。
そのことに気づかずに、オレはオーディオを語れる、と豪語する人もいるけれど、
そんな人が語っているのは、オーディオのことでは決してない。
オーディオを語る、とは、を意識すればするほど、難しくなっていく。
同じことがオーディオの「美」にもいえる。
音の美について語るのは難しい。
音を語ることが難しいことだし、そのうえに「美」を語っていくことの難しさが重なってくる。
それでも、まだオーディオの「美」を語るよりは、少しは難しさも和らぐように感じている。
ステレオサウンド 55号の原田勲氏の編集後記。
オーディオの〝美〟について多くの愛好家に示唆を与えつづけられた先生──、
五味先生のことをそう書かれている。
17歳のときにこれを読んだ。
たしかにそうだ、と「五味オーディオ教室」でオーディオにはいってきた私は思った。
だが、このときは、原田勲氏が「音の〝美〟」ではなく「オーディオの〝美〟」とされたことを、
深くは考えはしなかった。
けれど、いまは違う。
確かに五味先生はオーディオの「美」について、多くの示唆を与えつづけられていた。
いま強く実感している。
だからこそ、オーディオの「美」について書いていかねば、とおもう。