Archive for category ジャーナリズム

Date: 12月 24th, 2021
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その75)

オーディオの想像力の欠如した者は、《オーディオで伝える》ことができるのだろうか。
《オーディオでしか伝えられない》ことを持っているからこそのオーディオマニアなのに……。

Date: 12月 14th, 2021
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その74)

オーディオの想像力の欠如した者は、過去と直向きになれそうにない。
直向きになれる者の背中にだけ未来がある。

Date: 12月 7th, 2021
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その73)

オーディオの想像力の欠如した者は、「遠い」という感覚をもてないのだろう。

Date: 11月 30th, 2021
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その72)

オーディオの想像力の欠如した者の「想像力」とは、ゲスの勘ぐりでしかない。
ソーシャルメディアは、今年もそのことを顕にした。

Date: 11月 21st, 2021
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(技術用語の乱れ・その5)

もう十年以上前のことだが、
ステレオサウンドの新製品紹介記事で、
あるオーディオ評論家が整流コンデンサーと書いていた。

電源部を構成する部品のなかで、コンデンサーの役割は整流ではなく、
平滑である。
整流するのは整流管であったり、整流ダイオードであったりする。

つまり平滑コンデンサーであり、整流コンデンサーなる部品は存在しない。
そのオーディオ評論家は、整流コンデンサーなる部品を発明したのだろうか。

技術的なことにまったくうとい書き手が、そんなことを書いていたら、
ここで取り上げたりはしないのだが、
そのオーディオ評論家は技術的なこともけっこう書いている人だ。

その人の技術レベルがどの程度なのかは、わかる人にはわかる。
今回、またこのことを取り上げているのは、
ソーシャルメディアでまた整流コンデンサーと書いている人がいたからだ。

しかも、その人はメーカーのエンジニアである。
いまは、そんな時代になってしまっているのか。
だとしたら、整流コンデンサーと書いてしまったオーディオ評論家、
そしてそれを見逃して、誌面にのせてしまった編集者に対して、
あれこれいうのは、もう酷なことなのかもしれない。

Date: 11月 13th, 2021
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その21)

書き上がった原稿を最初に読む人は誰だろうか。
編集者の場合が多いように思うが、書く人によって、少し違ってくる。

家族が最初の読者だ、ということがある。
黒田先生は書き上げた原稿を、編集者に渡す前に奥さまに読んでもらう──、
黒田先生から、そう聞いている。

黒田先生だけではなく、他にもそういう方はいるとは思うけれど、
それでも編集者が最初の読者であることが多いのではないのか。

編集者が最初の読者。
このことを書き手はどれだけ意識しているのだろうか。

そのことを意識しすぎた原稿は、その原稿が掲載される雑誌の読み手からすれば、
つまんないと感じることが多いのではないだろうか。

ボツになった原稿に、原稿料は支払われないだろう。
ボツにならなくても、編集者に気に入られない原稿を書いていれば、
そのうち仕事の依頼が来なくなるかもしれない。

ここで問題となるのは、考えたいのは編集者が気に入る原稿とは、
どういう原稿なのか、である。

Date: 10月 18th, 2021
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その20)

別項でJBLの新製品SA750のことを書いている。
今年の1月にSA750が、JBL創立75周年記念モデルとして限定発売されると発表された時は、
ここまであれこれ書くことになるとは思っていなかった。

まだ書きたいことは残っている。
どこまで書いていくのか、まだ決めていないが、
書いていけば書きたいことがさらに出てくるようにも感じている。

同時に、この項のテーマも思い出していた。
オーディオ評論家は読者の代表なのか──。

ここ十年くらいのステレオサウンドを見ていると、
オーディオ評論家は読者の代表ではない、といえる。

オーディオ評論家か読者の代表であるべきかどうか。
そのことも含めて、ここでは書いていく予定でいるが、
その前に、現状はどうなのか、といえば、上に書いているように、
読者の代表とは、私は感じていない。

自分が使っているオーディオ機器、
いいと思っているオーディオ機器を、
オーディオ雑誌で褒めてくれるオーディオ評論家は読者の代表だ、と、
そんなふうに短絡的に思える人はそれでいいけれど、
読者の代表かどうかは、そういうことで決るものではない。

その19)で、ステレオサウンド 50号での座談会、
そのなかでの瀬川先生の発番を引用している。

ここでまたくり返すが、《熱っぽく読んでもらう》ことの大事さである。
いまのステレオサウンドの読者は《熱っぽく読んで》いるのだろうか。

私は、ある時期まで《熱っぽく読んで》いた。
誰よりも《熱っぽく読んで》いた自負がある。

いまはまったくそんなふうに読めなくなってしまった。
いろんな理由が浮んでくる。

その一つが、オーディオ評論家が読者の代表ではなくなったからだろう。

Date: 9月 19th, 2021
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その71)

オーディオの想像力の欠如した者のオーディオは、
バラストのないオーディオなのかもしれない。

Date: 9月 10th, 2021
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その70)

オーディオの想像力の欠如した聴き手は、
顰みに倣いがちだから、鳴らし手へと変れないのだろう。

Date: 5月 21st, 2021
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その69)

オーディオの想像力の欠如した耳では、
聴き手としての冒険、鳴らし手としての冒険も無理である。

Date: 5月 17th, 2021
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その68)

オーディオの想像力の欠如した者は、音という結果を、
「答」とは思っていないのだろう。
まして、「答」とは覚悟なのだとは、まったく思っていないはずだ。

Date: 4月 18th, 2021
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その24)

編集者の悪意とは、その編集者が自覚的なときもあれば、まったくそうでないときもある。

これまで書いてきたステレオサウンド 87号でのKHさんの場合、
自覚的ではないにしろ、直接的でもないにしろ、
マッキントッシュのXRT18という特定のスピーカーを、
ほかのブランドの、ほかのスピーカーよりもよく鳴らしたい、という気持は、
無自覚で間接的な悪意、
それも反転しての皮肉な事象になってしまったように、いまはおもう。

公平に扱う、という気持をどこかに置き忘れてしまった。
ただそれだけのことであるのだろう。
でも、このことは本人がどう思っていようと、編集者の悪意である。
(もっともKHさん本人は否定されるだろうが……。)

KHさんのそれにくらべて、いまのステレオサウンド編集部の黛 健司氏の扱いには、
陰湿っぽい悪意を、私は感じとっている。

別項「オーディオ評論をどう読むか」の(その8)と(その9)で指摘したように、
いまのステレオサウンド編集部(編集長といったほうがいいのか)の黛 健司氏の扱いは、
はっきりとおかしさを感じる。

悪意か、それに近いものを感じている。

編集部は、そんなことはない、と否定するはずだ。
だが私を含めて一部の読者は、そうは思っていない。

私一人ならば、私がステレオサウンドに対して悪意をもって読んでいるから──、
という指摘もされよう。
けれど実際はそうではない。

一ヵ月ほど前の「オーディオ評論をどう読むか」を公開したあと、
そんなふうに感じています、という声が数人からあった。

Date: 4月 14th, 2021
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その67)

オーディオの想像力の欠如した耳は、感心できる音、感激できる音どまりだ。
そこから先、感動できる音、感謝できる音、感服できる音にはたどり着けない。

Date: 4月 4th, 2021
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その66)

オーディオの想像力の欠如のままでは、
High Fidelity ReproductionとHigh Fidelity Play backとを、
一緒くたに考えてしまうのかもしれない。

Date: 4月 3rd, 2021
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その65)

オーディオの想像力の欠如とは、
原音再生という考えを捨て去れない、ということだ。