オーディオの想像力の欠如が生むもの(その75)
オーディオの想像力の欠如した者は、《オーディオで伝える》ことができるのだろうか。
《オーディオでしか伝えられない》ことを持っているからこそのオーディオマニアなのに……。
オーディオの想像力の欠如した者は、《オーディオで伝える》ことができるのだろうか。
《オーディオでしか伝えられない》ことを持っているからこそのオーディオマニアなのに……。
オーディオの想像力の欠如した者は、過去と直向きになれそうにない。
直向きになれる者の背中にだけ未来がある。
オーディオの想像力の欠如した者は、「遠い」という感覚をもてないのだろう。
オーディオの想像力の欠如した者の「想像力」とは、ゲスの勘ぐりでしかない。
ソーシャルメディアは、今年もそのことを顕にした。
もう十年以上前のことだが、
ステレオサウンドの新製品紹介記事で、
あるオーディオ評論家が整流コンデンサーと書いていた。
電源部を構成する部品のなかで、コンデンサーの役割は整流ではなく、
平滑である。
整流するのは整流管であったり、整流ダイオードであったりする。
つまり平滑コンデンサーであり、整流コンデンサーなる部品は存在しない。
そのオーディオ評論家は、整流コンデンサーなる部品を発明したのだろうか。
技術的なことにまったくうとい書き手が、そんなことを書いていたら、
ここで取り上げたりはしないのだが、
そのオーディオ評論家は技術的なこともけっこう書いている人だ。
その人の技術レベルがどの程度なのかは、わかる人にはわかる。
今回、またこのことを取り上げているのは、
ソーシャルメディアでまた整流コンデンサーと書いている人がいたからだ。
しかも、その人はメーカーのエンジニアである。
いまは、そんな時代になってしまっているのか。
だとしたら、整流コンデンサーと書いてしまったオーディオ評論家、
そしてそれを見逃して、誌面にのせてしまった編集者に対して、
あれこれいうのは、もう酷なことなのかもしれない。
書き上がった原稿を最初に読む人は誰だろうか。
編集者の場合が多いように思うが、書く人によって、少し違ってくる。
家族が最初の読者だ、ということがある。
黒田先生は書き上げた原稿を、編集者に渡す前に奥さまに読んでもらう──、
黒田先生から、そう聞いている。
黒田先生だけではなく、他にもそういう方はいるとは思うけれど、
それでも編集者が最初の読者であることが多いのではないのか。
編集者が最初の読者。
このことを書き手はどれだけ意識しているのだろうか。
そのことを意識しすぎた原稿は、その原稿が掲載される雑誌の読み手からすれば、
つまんないと感じることが多いのではないだろうか。
ボツになった原稿に、原稿料は支払われないだろう。
ボツにならなくても、編集者に気に入られない原稿を書いていれば、
そのうち仕事の依頼が来なくなるかもしれない。
ここで問題となるのは、考えたいのは編集者が気に入る原稿とは、
どういう原稿なのか、である。
別項でJBLの新製品SA750のことを書いている。
今年の1月にSA750が、JBL創立75周年記念モデルとして限定発売されると発表された時は、
ここまであれこれ書くことになるとは思っていなかった。
まだ書きたいことは残っている。
どこまで書いていくのか、まだ決めていないが、
書いていけば書きたいことがさらに出てくるようにも感じている。
同時に、この項のテーマも思い出していた。
オーディオ評論家は読者の代表なのか──。
ここ十年くらいのステレオサウンドを見ていると、
オーディオ評論家は読者の代表ではない、といえる。
オーディオ評論家か読者の代表であるべきかどうか。
そのことも含めて、ここでは書いていく予定でいるが、
その前に、現状はどうなのか、といえば、上に書いているように、
読者の代表とは、私は感じていない。
自分が使っているオーディオ機器、
いいと思っているオーディオ機器を、
オーディオ雑誌で褒めてくれるオーディオ評論家は読者の代表だ、と、
そんなふうに短絡的に思える人はそれでいいけれど、
読者の代表かどうかは、そういうことで決るものではない。
(その19)で、ステレオサウンド 50号での座談会、
そのなかでの瀬川先生の発番を引用している。
ここでまたくり返すが、《熱っぽく読んでもらう》ことの大事さである。
いまのステレオサウンドの読者は《熱っぽく読んで》いるのだろうか。
私は、ある時期まで《熱っぽく読んで》いた。
誰よりも《熱っぽく読んで》いた自負がある。
いまはまったくそんなふうに読めなくなってしまった。
いろんな理由が浮んでくる。
その一つが、オーディオ評論家が読者の代表ではなくなったからだろう。
オーディオの想像力の欠如した者のオーディオは、
バラストのないオーディオなのかもしれない。
オーディオの想像力の欠如した聴き手は、
顰みに倣いがちだから、鳴らし手へと変れないのだろう。
オーディオの想像力の欠如した耳では、
聴き手としての冒険、鳴らし手としての冒険も無理である。
オーディオの想像力の欠如した者は、音という結果を、
「答」とは思っていないのだろう。
まして、「答」とは覚悟なのだとは、まったく思っていないはずだ。
編集者の悪意とは、その編集者が自覚的なときもあれば、まったくそうでないときもある。
これまで書いてきたステレオサウンド 87号でのKHさんの場合、
自覚的ではないにしろ、直接的でもないにしろ、
マッキントッシュのXRT18という特定のスピーカーを、
ほかのブランドの、ほかのスピーカーよりもよく鳴らしたい、という気持は、
無自覚で間接的な悪意、
それも反転しての皮肉な事象になってしまったように、いまはおもう。
公平に扱う、という気持をどこかに置き忘れてしまった。
ただそれだけのことであるのだろう。
でも、このことは本人がどう思っていようと、編集者の悪意である。
(もっともKHさん本人は否定されるだろうが……。)
KHさんのそれにくらべて、いまのステレオサウンド編集部の黛 健司氏の扱いには、
陰湿っぽい悪意を、私は感じとっている。
別項「オーディオ評論をどう読むか」の(その8)と(その9)で指摘したように、
いまのステレオサウンド編集部(編集長といったほうがいいのか)の黛 健司氏の扱いは、
はっきりとおかしさを感じる。
悪意か、それに近いものを感じている。
編集部は、そんなことはない、と否定するはずだ。
だが私を含めて一部の読者は、そうは思っていない。
私一人ならば、私がステレオサウンドに対して悪意をもって読んでいるから──、
という指摘もされよう。
けれど実際はそうではない。
一ヵ月ほど前の「オーディオ評論をどう読むか」を公開したあと、
そんなふうに感じています、という声が数人からあった。
オーディオの想像力の欠如した耳は、感心できる音、感激できる音どまりだ。
そこから先、感動できる音、感謝できる音、感服できる音にはたどり着けない。
オーディオの想像力の欠如のままでは、
High Fidelity ReproductionとHigh Fidelity Play backとを、
一緒くたに考えてしまうのかもしれない。
オーディオの想像力の欠如とは、
原音再生という考えを捨て去れない、ということだ。