Archive for category ジャーナリズム

Date: 6月 3rd, 2022
Cate: 4343, JBL, ジャーナリズム

40年目の4343(オーディオの殿堂・その3)

今回、三浦孝仁氏に4343について書いてもらおう、と決めたのは、
誰なのだろうか。

編集会議で、この機種はこの人に、というふうに決めていったのだろうか。
それとも編集長が一人で決めたことなのだろうか。

どちらにしても4343については、最悪の選択と言い切ってしまう。
それに4343は1ページの掲載だった。

なんだろう、4343の扱いの雑さは。

「オーディオの殿堂」巻頭の座談会の見出しには、
読者が選んだこと、読者の思い、そんなことが書いてあった。

1970年代後半、そのころのステレオサウンドの読者の想いは無視なのか。
そういえば、223号には「読者の思い」とあった。「読者の想い」ではなかった。

そういうところのズレから生れてきたことなのだろうか。

「オーディオの殿堂」での4343の三浦孝仁氏は最悪の選択なのだが、
すべての機種について、そうなのではない。

4343以外に関してはパラッと眺めただけなのだが、
EMTの927Dstとトーレンスのリファレンス、
この二機種を黛 健司氏に担当させているのは、いい選択である。

どちらか片方だけではなく、二機種とも黛 健司氏であるから、いい。
こういう選択もできるのに、4343に関しては違う。
だから、雑な扱いをしている、といいたくなる。

4343とは関係ないのだが、
特集をパラッと眺めただけなので、私が見落しているのかもしれないが、
和田博巳氏が登場されていなかった。

あれっ? と思い、Kindle UnlimitedでHiViのベストバイの号を見てみた。
そこにも和田博巳は登場されていない。

体調を崩されているのだろうか。

Date: 6月 3rd, 2022
Cate: 4343, JBL, ジャーナリズム

40年目の4343(オーディオの殿堂・その2)

昨晩、友人が教えてくれた。
ステレオサウンド 223号の特集「オーディオの殿堂」で、
4343を担当しているのは三浦孝仁氏だ、と。

105機種が、オーディオの殿堂入りを果たしている、とのこと。
それぞれのモデルについて、誰かが担当しているわけなのだが、
まさか4343のことを三浦孝仁氏に書かせるとは、
ステレオサウンド編集部は「名作4343を現代に甦らせる」をどう捉えているのだろうか、
と詰問したくなる。

あの記事で無様に変容してしまった4343を、
ステレオサウンド編集部は、4343だと認めているのか。
そうだとしたら、呆れるとはるかにとおりこして、すごい、としかいいようがない。

でも認めているのだろう。
だからこそ三浦孝仁氏に4343を担当させたのだろう。

他に適任がいないというのならば、わからなくもないが、
黛 健司氏がいるにもかかわらず三浦孝仁氏である。

それでも、4343についてどういうことを書いているのか、
肝心なのはその内容である。
それが素晴らしければ、それでいい、とも思っているのだが、
残念なことに、当り障りない内容でしかなかった。

今日、三浦孝仁氏の4343のところだけ立読みしてきた。
素晴らしければ、ひさしぶりにステレオサウンドを買おう、ぐらいには思っていたのだが、
失望ではなく、やっぱりな……、というのが、私の本音だ。

失望はこちらが期待するから起ることなのだが、
期待もしていなければ失望はないわけで、やっぱりな……、ということになる。

Date: 6月 2nd, 2022
Cate: 4343, JBL, ジャーナリズム

40年目の4343(オーディオの殿堂・その1)

その8)を書いたのは、2015年2月。
ひさしぶりに書こうと思ったのは、今日がステレオサウンド 223号の発売日だからだ。

223号の特集は、「オーディオの殿堂」。
今日は一歩も外出していないので、
「オーディオの殿堂」で、どんなモデルが選ばれているのかはまったく知らないが、
それでもJBLの4343は、きっと殿堂入りしているはずだ。

4343に関しては、殿堂入りしているかどうかではなく、
4343について、誰が担当しているのかに興味がある。

私がステレオサウンドの編集者だったら、
黛 健司氏に依頼する。

間違っても三浦孝仁氏には依頼しない。

十数年前のステレオサウンドに、「名作4343を現代に甦らせる」という連載があった。
佐伯多門氏が担当された記事である。
別項で触れているから、ここでこの記事について、どう思ったのかはくり返さないが、
「名作4343を現代に甦らせる」の最後、
無様になってしまった4343の試聴記を担当したのが、三浦孝仁氏であるからだ。

この人は、4343というスピーカーシステムをまったく理解していない──、
私はそう感じた。いまもそう思っているからだ。

Date: 4月 26th, 2022
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その78)

オーディオの想像力の欠如した者は、音による自画像を描けない──、
描けないのは確かなのだが、結果として描かれているのかもしれない。

Date: 2月 1st, 2022
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その13)

ここでもまたくり返すが、
アンプやスピーカーの試聴が受動的試聴に対し、
組合せの試聴は能動的試聴であり、その組合せをつくる人の思考の可視化なのだが、
残念なことに、いまのオーディオ雑誌に掲載される組合せの記事で、
能動的試聴の結果、と感じられることは、もうなくなってしまった。

組合せの試聴においても、
受動的試聴で聴いていると感じることばかりになっている。
オーディオ評論家を名乗っている人たちは、
能動的試聴と受動的試聴の違いに気づいていないのか。

ここまでは、これまで書いてきたことのくり返し(まとめ)なのだが、
耳に近い(遠い)、心に近い(遠い)という観点からいえば、
受動的試聴は、耳に近い(遠い)の聴き方であって、
能動的試聴は、心に近い(遠い)の聴き方である。

Date: 1月 21st, 2022
Cate: ジャーナリズム

ステレオ 2022年2月号

いま書店に並んでいるステレオの2月号の特集は「ECMとオーディオ」である。
ステレオサウンドも、70号にて同じ企画をやっている。
ステレオサウンドではECMだけでなく、ブルーノートも同じようにとりあげている。

それから四十年。
ステレオが2月号で「ECMとオーディオ」を特集していることは、昨年末に知っていた。
どういう感じでやるのか、楽しみでもあった。

今日、書店でパラパラと立読みしてきた。
はっきりいって、ステレオサウンドの四十年前の同じ企画よりも、おもしろい。

音楽之友社だからできる記事だな、とも思っていた。
とにかく特集のボリュウムとしても、
月刊誌ではなかなかここまでできないほどある。

読み応えを感じる特集である。
残念なことに、いまのステレオサウンドには期待できない、とも思った。

今年も11月が過ぎると「2022年をふりかえって」というテーマで書くだろうが、
そこでも今回のステレオの「ECMとオーディオ」については触れることになろう。

まだ1月なのはわかっているが、
それでも今年一年、それぞれのオーディオ雑誌でいろんな記事が載る。
その中で、一番といえる、と思っている。

こういうレベルの記事を、ステレオが年に数回載せてくれれば、
ずいぶん変っていくことだろう、と期待している。

Date: 1月 19th, 2022
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その77)

オーディオの想像力の欠如した者は、上書きしかできないのだろう──、
と少し前に書いたばかりだ。
汚れをじっとみつめることができない者が上書きに流れていくのだろう。

Date: 1月 12th, 2022
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その76)

オーディオの想像力の欠如した者は、上書きしかできないのだろう。
上書きしかできない者は「心に近い」音を求めることは無理なのかもしれない。

Date: 12月 24th, 2021
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その75)

オーディオの想像力の欠如した者は、《オーディオで伝える》ことができるのだろうか。
《オーディオでしか伝えられない》ことを持っているからこそのオーディオマニアなのに……。

Date: 12月 14th, 2021
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その74)

オーディオの想像力の欠如した者は、過去と直向きになれそうにない。
直向きになれる者の背中にだけ未来がある。

Date: 12月 7th, 2021
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その73)

オーディオの想像力の欠如した者は、「遠い」という感覚をもてないのだろう。

Date: 11月 30th, 2021
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その72)

オーディオの想像力の欠如した者の「想像力」とは、ゲスの勘ぐりでしかない。
ソーシャルメディアは、今年もそのことを顕にした。

Date: 11月 21st, 2021
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(技術用語の乱れ・その5)

もう十年以上前のことだが、
ステレオサウンドの新製品紹介記事で、
あるオーディオ評論家が整流コンデンサーと書いていた。

電源部を構成する部品のなかで、コンデンサーの役割は整流ではなく、
平滑である。
整流するのは整流管であったり、整流ダイオードであったりする。

つまり平滑コンデンサーであり、整流コンデンサーなる部品は存在しない。
そのオーディオ評論家は、整流コンデンサーなる部品を発明したのだろうか。

技術的なことにまったくうとい書き手が、そんなことを書いていたら、
ここで取り上げたりはしないのだが、
そのオーディオ評論家は技術的なこともけっこう書いている人だ。

その人の技術レベルがどの程度なのかは、わかる人にはわかる。
今回、またこのことを取り上げているのは、
ソーシャルメディアでまた整流コンデンサーと書いている人がいたからだ。

しかも、その人はメーカーのエンジニアである。
いまは、そんな時代になってしまっているのか。
だとしたら、整流コンデンサーと書いてしまったオーディオ評論家、
そしてそれを見逃して、誌面にのせてしまった編集者に対して、
あれこれいうのは、もう酷なことなのかもしれない。

Date: 11月 13th, 2021
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その21)

書き上がった原稿を最初に読む人は誰だろうか。
編集者の場合が多いように思うが、書く人によって、少し違ってくる。

家族が最初の読者だ、ということがある。
黒田先生は書き上げた原稿を、編集者に渡す前に奥さまに読んでもらう──、
黒田先生から、そう聞いている。

黒田先生だけではなく、他にもそういう方はいるとは思うけれど、
それでも編集者が最初の読者であることが多いのではないのか。

編集者が最初の読者。
このことを書き手はどれだけ意識しているのだろうか。

そのことを意識しすぎた原稿は、その原稿が掲載される雑誌の読み手からすれば、
つまんないと感じることが多いのではないだろうか。

ボツになった原稿に、原稿料は支払われないだろう。
ボツにならなくても、編集者に気に入られない原稿を書いていれば、
そのうち仕事の依頼が来なくなるかもしれない。

ここで問題となるのは、考えたいのは編集者が気に入る原稿とは、
どういう原稿なのか、である。

Date: 10月 18th, 2021
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その20)

別項でJBLの新製品SA750のことを書いている。
今年の1月にSA750が、JBL創立75周年記念モデルとして限定発売されると発表された時は、
ここまであれこれ書くことになるとは思っていなかった。

まだ書きたいことは残っている。
どこまで書いていくのか、まだ決めていないが、
書いていけば書きたいことがさらに出てくるようにも感じている。

同時に、この項のテーマも思い出していた。
オーディオ評論家は読者の代表なのか──。

ここ十年くらいのステレオサウンドを見ていると、
オーディオ評論家は読者の代表ではない、といえる。

オーディオ評論家か読者の代表であるべきかどうか。
そのことも含めて、ここでは書いていく予定でいるが、
その前に、現状はどうなのか、といえば、上に書いているように、
読者の代表とは、私は感じていない。

自分が使っているオーディオ機器、
いいと思っているオーディオ機器を、
オーディオ雑誌で褒めてくれるオーディオ評論家は読者の代表だ、と、
そんなふうに短絡的に思える人はそれでいいけれど、
読者の代表かどうかは、そういうことで決るものではない。

その19)で、ステレオサウンド 50号での座談会、
そのなかでの瀬川先生の発番を引用している。

ここでまたくり返すが、《熱っぽく読んでもらう》ことの大事さである。
いまのステレオサウンドの読者は《熱っぽく読んで》いるのだろうか。

私は、ある時期まで《熱っぽく読んで》いた。
誰よりも《熱っぽく読んで》いた自負がある。

いまはまったくそんなふうに読めなくなってしまった。
いろんな理由が浮んでくる。

その一つが、オーディオ評論家が読者の代表ではなくなったからだろう。