Archive for category ジャーナリズム

Date: 6月 25th, 2022
Cate: 4343, JBL, ジャーナリズム

40年目の4343(オーディオの殿堂・その6)

将棋は駒の動かし方をかろうじて知っているだけなので、
別項で触れている「3月のライオン」を読むまでは、
対局の後に感想戦があることも知らなかった。

対局に勝った(負けた)だけでなく、その後の感想戦。
本づくりにおいて感想戦的なことはあっただろうか……、とその時おもっていた。

私がいたころは、そういうことはなかった。
一冊のステレオサウンドの編集を終えて、見本誌があがってくる。
それを手にして、編集部全員で感想戦的なことをやる──、
そういうことはなかった。

いまの編集部がやっているのかどうかは知らないけれど、
できあがった書店に並ぶステレオサウンドをみる限り、やっているようには思えない。

やらなければならないことなのか。
自分が担当した記事について自分の意見をいう。
他の編集者の意見、感想をきく。

すべての記事に対して、感想戦的なことをやっていく。
必要なことのようにおもう。

Date: 6月 7th, 2022
Cate: 4343, JBL, ジャーナリズム

40年目の4343(オーディオの殿堂・その5)

黒田先生が「音楽への礼状」でカザルスについて書かれている。
     *
大切なことを大切だといいきり、しかも、その大切なことをいつまでも大切にしつづける、という、ごくあたりまえの、しかし、現実には実行が容易でないことを、身をもっておこないつづけて一生を終えられたあなたのきかせて下さる音楽に、ぼくは、とてもたくさんのことを学んでまいりました。
     *
大切なことを大切だといいきる、こと。
どれだけの人が実行しているのだろうか。

大切だ、と口にするのは誰にでもできる。
でも、この人は、それをほんとうに大切にしているのだろうか──、
そう疑いたくなることもないわけではない。

ないわけではない──、と書いたけれども、そうでもないと感じてもいる。

大切なことに新しいも古いもない。
そんなことさえ、いまでは忘れられているような気さえする。

だから、それを読み手に思い出させるというのが、
ステレオサウンド 223号の「オーディオの殿堂」ではないのだろうか。

私は「オーディオの殿堂」に対して、どちらかといえば否定的な考えを持っているが゛
それでも肯定的に捉えようとするならば、
大切なことを再確認するための企画だともいえる。

けれど、実際はどうなのだろうか。
私は、この項で書いているように、
三浦孝仁氏の4343についての文章だけを立読みしているだけだから、
他の人の文章については、なにもいえないのだが、
少なくとも三浦孝仁氏の4343の文章は、そうとは思えなかったし、
4343は殿堂入りしているとはいえ、ステレオサウンド編集部には、
そういう意識はないんだな、ともいえる人選である。

大切なことを大切だといいきることのできない「オーディオの殿堂」は、
なんなのだろうか。

ステレオサウンド編集部に望むのは、
自らの企画を検証する記事である。

Date: 6月 4th, 2022
Cate: 4343, JBL, ジャーナリズム

40年目の4343(オーディオの殿堂・その4)

ステレオサウンド 223号「オーディオの殿堂」の4343の件に関して、
三浦孝仁氏を責めようとは思っていない。

三浦孝仁氏の4343の文章は、
三浦孝仁氏ならば、こんなことを書くだろうという予想通りのものだった。
それはいい悪いということではなく、
ステレオサウンドの編集部も予想していたことであろうし、
その予想通りの出来(どう評価するかは個人の自由)なのだからだ。

なので責めたいのは、なぜ三浦孝仁氏にしたのか、である。
消去的選択で三浦孝仁氏になったわけではないはずだ。
その1)で書いているように、黛 健司氏がいる。

4341、4343と鳴らしてきた黛 健司氏がいるにも関わらず、
あえて三浦孝仁氏にしなければならなかったのか、その理由がわからない。

黛 健司氏よりも三浦孝仁氏のほうが、
4343についてより面白い、よりよい原稿が書けるという判断だったのか。
それはおかしい、というか間違っている、といいたい。

それとも「名作4343を現代に甦らせる」で、
あの無様な、そして無惨な姿に変り果てた4343もどきの試聴記を書いた人だからなのか。

私は、223号の4343のところだけを立読みしただけなのだが、
きちんと買って読んだ友人によれば、「オーディオの殿堂」での黛 健司氏の文章は、
よかった、とのこと。

黒田先生が亡くなられた時も、そうだった。
なぜ、あの時、黛 健司氏にも追悼文を依頼しなかったのか。

4343のことだけでも、おもうところはある。
おそらく223号をきちんと読めば、もっとおもうところが多々あるだろう。

facebookにコメントをくれた方は、
223号を買ったけれど、これを餞別(香典代り)にして、
終りにします、ということだった。

(その3)で、和田博巳氏のことに触れた。
facebookへのコメント、メールが数人の方からあった。
編集後記に、体調を崩されている、とあるとのこと。

Date: 6月 3rd, 2022
Cate: 4343, JBL, ジャーナリズム

40年目の4343(オーディオの殿堂・その3)

今回、三浦孝仁氏に4343について書いてもらおう、と決めたのは、
誰なのだろうか。

編集会議で、この機種はこの人に、というふうに決めていったのだろうか。
それとも編集長が一人で決めたことなのだろうか。

どちらにしても4343については、最悪の選択と言い切ってしまう。
それに4343は1ページの掲載だった。

なんだろう、4343の扱いの雑さは。

「オーディオの殿堂」巻頭の座談会の見出しには、
読者が選んだこと、読者の思い、そんなことが書いてあった。

1970年代後半、そのころのステレオサウンドの読者の想いは無視なのか。
そういえば、223号には「読者の思い」とあった。「読者の想い」ではなかった。

そういうところのズレから生れてきたことなのだろうか。

「オーディオの殿堂」での4343の三浦孝仁氏は最悪の選択なのだが、
すべての機種について、そうなのではない。

4343以外に関してはパラッと眺めただけなのだが、
EMTの927Dstとトーレンスのリファレンス、
この二機種を黛 健司氏に担当させているのは、いい選択である。

どちらか片方だけではなく、二機種とも黛 健司氏であるから、いい。
こういう選択もできるのに、4343に関しては違う。
だから、雑な扱いをしている、といいたくなる。

4343とは関係ないのだが、
特集をパラッと眺めただけなので、私が見落しているのかもしれないが、
和田博巳氏が登場されていなかった。

あれっ? と思い、Kindle UnlimitedでHiViのベストバイの号を見てみた。
そこにも和田博巳は登場されていない。

体調を崩されているのだろうか。

Date: 6月 3rd, 2022
Cate: 4343, JBL, ジャーナリズム

40年目の4343(オーディオの殿堂・その2)

昨晩、友人が教えてくれた。
ステレオサウンド 223号の特集「オーディオの殿堂」で、
4343を担当しているのは三浦孝仁氏だ、と。

105機種が、オーディオの殿堂入りを果たしている、とのこと。
それぞれのモデルについて、誰かが担当しているわけなのだが、
まさか4343のことを三浦孝仁氏に書かせるとは、
ステレオサウンド編集部は「名作4343を現代に甦らせる」をどう捉えているのだろうか、
と詰問したくなる。

あの記事で無様に変容してしまった4343を、
ステレオサウンド編集部は、4343だと認めているのか。
そうだとしたら、呆れるとはるかにとおりこして、すごい、としかいいようがない。

でも認めているのだろう。
だからこそ三浦孝仁氏に4343を担当させたのだろう。

他に適任がいないというのならば、わからなくもないが、
黛 健司氏がいるにもかかわらず三浦孝仁氏である。

それでも、4343についてどういうことを書いているのか、
肝心なのはその内容である。
それが素晴らしければ、それでいい、とも思っているのだが、
残念なことに、当り障りない内容でしかなかった。

今日、三浦孝仁氏の4343のところだけ立読みしてきた。
素晴らしければ、ひさしぶりにステレオサウンドを買おう、ぐらいには思っていたのだが、
失望ではなく、やっぱりな……、というのが、私の本音だ。

失望はこちらが期待するから起ることなのだが、
期待もしていなければ失望はないわけで、やっぱりな……、ということになる。

Date: 6月 2nd, 2022
Cate: 4343, JBL, ジャーナリズム

40年目の4343(オーディオの殿堂・その1)

その8)を書いたのは、2015年2月。
ひさしぶりに書こうと思ったのは、今日がステレオサウンド 223号の発売日だからだ。

223号の特集は、「オーディオの殿堂」。
今日は一歩も外出していないので、
「オーディオの殿堂」で、どんなモデルが選ばれているのかはまったく知らないが、
それでもJBLの4343は、きっと殿堂入りしているはずだ。

4343に関しては、殿堂入りしているかどうかではなく、
4343について、誰が担当しているのかに興味がある。

私がステレオサウンドの編集者だったら、
黛 健司氏に依頼する。

間違っても三浦孝仁氏には依頼しない。

十数年前のステレオサウンドに、「名作4343を現代に甦らせる」という連載があった。
佐伯多門氏が担当された記事である。
別項で触れているから、ここでこの記事について、どう思ったのかはくり返さないが、
「名作4343を現代に甦らせる」の最後、
無様になってしまった4343の試聴記を担当したのが、三浦孝仁氏であるからだ。

この人は、4343というスピーカーシステムをまったく理解していない──、
私はそう感じた。いまもそう思っているからだ。

Date: 4月 26th, 2022
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その78)

オーディオの想像力の欠如した者は、音による自画像を描けない──、
描けないのは確かなのだが、結果として描かれているのかもしれない。

Date: 2月 1st, 2022
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その13)

ここでもまたくり返すが、
アンプやスピーカーの試聴が受動的試聴に対し、
組合せの試聴は能動的試聴であり、その組合せをつくる人の思考の可視化なのだが、
残念なことに、いまのオーディオ雑誌に掲載される組合せの記事で、
能動的試聴の結果、と感じられることは、もうなくなってしまった。

組合せの試聴においても、
受動的試聴で聴いていると感じることばかりになっている。
オーディオ評論家を名乗っている人たちは、
能動的試聴と受動的試聴の違いに気づいていないのか。

ここまでは、これまで書いてきたことのくり返し(まとめ)なのだが、
耳に近い(遠い)、心に近い(遠い)という観点からいえば、
受動的試聴は、耳に近い(遠い)の聴き方であって、
能動的試聴は、心に近い(遠い)の聴き方である。

Date: 1月 21st, 2022
Cate: ジャーナリズム

ステレオ 2022年2月号

いま書店に並んでいるステレオの2月号の特集は「ECMとオーディオ」である。
ステレオサウンドも、70号にて同じ企画をやっている。
ステレオサウンドではECMだけでなく、ブルーノートも同じようにとりあげている。

それから四十年。
ステレオが2月号で「ECMとオーディオ」を特集していることは、昨年末に知っていた。
どういう感じでやるのか、楽しみでもあった。

今日、書店でパラパラと立読みしてきた。
はっきりいって、ステレオサウンドの四十年前の同じ企画よりも、おもしろい。

音楽之友社だからできる記事だな、とも思っていた。
とにかく特集のボリュウムとしても、
月刊誌ではなかなかここまでできないほどある。

読み応えを感じる特集である。
残念なことに、いまのステレオサウンドには期待できない、とも思った。

今年も11月が過ぎると「2022年をふりかえって」というテーマで書くだろうが、
そこでも今回のステレオの「ECMとオーディオ」については触れることになろう。

まだ1月なのはわかっているが、
それでも今年一年、それぞれのオーディオ雑誌でいろんな記事が載る。
その中で、一番といえる、と思っている。

こういうレベルの記事を、ステレオが年に数回載せてくれれば、
ずいぶん変っていくことだろう、と期待している。

Date: 1月 19th, 2022
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その77)

オーディオの想像力の欠如した者は、上書きしかできないのだろう──、
と少し前に書いたばかりだ。
汚れをじっとみつめることができない者が上書きに流れていくのだろう。

Date: 1月 12th, 2022
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その76)

オーディオの想像力の欠如した者は、上書きしかできないのだろう。
上書きしかできない者は「心に近い」音を求めることは無理なのかもしれない。

Date: 12月 24th, 2021
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その75)

オーディオの想像力の欠如した者は、《オーディオで伝える》ことができるのだろうか。
《オーディオでしか伝えられない》ことを持っているからこそのオーディオマニアなのに……。

Date: 12月 14th, 2021
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その74)

オーディオの想像力の欠如した者は、過去と直向きになれそうにない。
直向きになれる者の背中にだけ未来がある。

Date: 12月 7th, 2021
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その73)

オーディオの想像力の欠如した者は、「遠い」という感覚をもてないのだろう。

Date: 11月 30th, 2021
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その72)

オーディオの想像力の欠如した者の「想像力」とは、ゲスの勘ぐりでしかない。
ソーシャルメディアは、今年もそのことを顕にした。