音を聴くということ(グルジェフの言葉・その10)
インドの古典「バカヴァッド・ギーター」の一節、
「真の自己にとって浄化された自己は友であるが、浄化されていない自己は敵である」。
この項で触れている「人間は眠っている人形のようなものだ」。
真の自己とは、目覚めた人の自己であり、
眠っている人形のような人のそれは、虚の自己となるのか。
だとすれば、
「虚の自己にとって浄化された自己は敵であり、浄化されていない自己は友である」となるのか。
インドの古典「バカヴァッド・ギーター」の一節、
「真の自己にとって浄化された自己は友であるが、浄化されていない自己は敵である」。
この項で触れている「人間は眠っている人形のようなものだ」。
真の自己とは、目覚めた人の自己であり、
眠っている人形のような人のそれは、虚の自己となるのか。
だとすれば、
「虚の自己にとって浄化された自己は敵であり、浄化されていない自己は友である」となるのか。
(その1)で書いていることを、もう一度。
ゲオルギー・グルジェフがいっていた。
人間は眠っている人形のようなものだ、と。
正確な引用ではないが、意味としてはこういうことだ。
人間の通常の意識の状態は睡眠のようなもので、
人間としてのほとんどの活動はすべて機械的なものである、と。
眠っている人形から、目覚めている人間になるには、
それこそ山のような意志力が必要になり用いなければならない、と。
ずいぶん昔に、グルジェフがそういった意味あいのことをいっていると知った。
どうすればグルジェフがいっている意味での目覚めることができるのか。
オーディオにかぎっていえば、心に近い音を──、ということのはずだ。
耳に近い音をどれだけ懸命に追求しても、
実のところ、それは機械的な活動にすぎない。
昨年の5月28日に開催された野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会が、今年も開催される。
5月26日(日曜日)の予定だ。
詳しいことが決定次第、お知らせする。
audio wednesdayとaudio wednesday (next decade) で、
音を鳴らして集まった方たちに音を聴いてもらうことをやっていると、
その場での音をもちろん私も聴いているわけだが、
それ以上に鳴らしている、という感覚のほうがずっと強い。
曲を選んでオーディオ機器を操作するだけだから、疲れないだろう、と思われるだろうが、
鳴らしているという感覚が強いせいなのか、
終ってしばらくすると、けっこうな疲労感がある。
やっているからこそ感じることがある。
オーディオショウで、それぞれのブースで鳴らしている人がいるわけだが、
この人たちすべてが鳴らしているという感覚をもっているわけではない、と。
別項「瀬川冬樹というリアル(その3)」で書いた。
そのことをもう一度記しておきたい。
「良い音とは 良いスピーカーとは 良い聴き手とは?」
瀬川先生が、もっとながく生きておられたなら、
こんなテーマで何かを書かれていたのではないか──、
そんなことを(その2)で書いた。
「良い聴き手とは 良い鳴らし手とは?」、
こんなふうなタイトルになったのかもしれないと考えつつも、
「良い鳴らし手とは 良い聴き手とは?」なのか、どちらなのか。
「良い聴き手」が先にくるのか、「良い鳴らし手」が先にくるのか。
どちらでも大差ない、とは思えないのだ。
「良い音とは 良いスピーカーとは?」に続くのであれば、
やはり「良い聴き手とは 良い鳴らし手とは?」なのだろうか。
1月20日に行ってきたオーディオ・ノートの試聴室での「オイロダインを楽しむ会」。
私が特に印象に残っているのは、音よりもオーディオ・ノートの社屋の綺麗さである。
とにかくすみずみまで掃除が行き届いている。
塵一つ落ちていない、この表現がぴったりくる。
しかも床も磨かれている。
とにかく感心した。
こういう環境で、オーディオ・ノートの製品は開発されうまれてくるのか、と。
昨日、オーディオ・ノートの試聴室で行われた「オイロダインを楽しむ会」に行ってきた。
久しぶりに聴くオイロダインだった。
昨日は雨が降っていて寒かった。
そのせいだろうが、私が行った回は六人だけだった。
オイロダインの音は、なかなか聴く機会がない、と思う。
六人のうち、初めてオイロダインを聴くという人も、きっといたはずだ。
オイロダインが、どう鳴っていたのかについては書かないが、今回ひとつ気づいたことがあった。
これまで数回、オイロダインを聴く機会はあったが、
ライヴ録音を聴いたのは、今回が初めてだった。
聴いていて、五味先生の「オーディオ巡礼」を思い出していた。
*
森氏は次にもう一枚、クナッパーツブッシュのバイロイト録音の〝パルシファル〟をかけてくれたが、もう私は陶然と聴き惚れるばかりだった。クナッパーツブッシュのワグナーは、フルトヴェングラーとともにワグネリアンには最高のものというのが定説だが、クナッパーツブッシュ最晩年の録音によるこのフィリップス盤はまことに厄介なレコードで、じつのところ拙宅でも余りうまく鳴ってくれない。空前絶後の演奏なのはわかるが、時々、マイクセッティングがわるいとしか思えぬ鳴り方をする個所がある。
しかるに森家の〝オイロダイン〟は、実況録音盤の人の咳払いや衣ずれの音などがバッフルの手前から奥にさざ波のようにひろがり、ひめやかなそんなざわめきの彼方に〝聖餐の動機〟が湧いてくる。好むと否とに関わりなくワグナー畢生の楽劇——バイロイトの舞台が、仄暗い照明で眼前に彷彿する。
*
クナッパーツブッシュがかけられたわけではないが、数枚のライヴ録音がかけられた。
ライヴ録音ならではのざわめきが、その盤におさめられている音楽を引き立てていたように感じられた。
このことは、小さいけれどひとつの発見のようにも感じていた。
それがたまたまだったのか、ほんとうにそうなのか。
それは自分で鳴らしてみないことには断言できないことでもあるが、
そう遠くないうちに、確かめられる日も来よう。
2024年1月20日と21日、川崎市にあるオーディオ・ノートの試聴室で、
「オイロダインを楽しむ会」が開催される。
シーメンスのオイロダイン以外は、オーディオ・ノートの製品となる。
オーディオ・ノートの製品の音に関心がある人もいれば、
私のようにオイロダインの音が、
しかも2m×2mの平面バッフルに取りつけられた音を聴くことに関心を持つ人いるはず。
オイロダインというスピーカーに関心をもつ人がどれだけいるのか。
なんともいえない。
多いようにも思えるし、少ないようにも思える。
古いスピーカーである。
いまどのオーディオ評論家のあいだでは、「スピーカーの存在感がなくなる」が、
最大の讚辞のようになっている。
少なくとも私はそう感じている。
オイロダインを聴いて、それが十全な音で鳴っていたとしても、
「スピーカーの存在がなくなる」と感じる人はいるのかいないのか。
いないとはいえない。いるとも思えるからだ。
どうしても、そうおもうのかについては別項で書いていく。
とにかくオイロダインを平面バッフルに装着した状態の音が聴ける。
別項で「アクティヴ型スピーカーシステム考」を書いているが、
よくできたアクティヴ型スピーカーも、
優れたヘッドフォンと同じように、感覚の逸脱のブレーキといえよう。
クレデンザの誕生は1925年。
ほぼ百年前のこと。
オーディオテクニカのウェブサイトによると、
クレデンザは67,000台ほど作られた、らしい。
日本で当時の価格は、家一軒分ときいているから、
海外ではそこまで高価ではなかったにしろ、67,000台という数字には、驚く。
今回聴いたゼンマイ式のクレデンザのシリアルナンバーは、1,000番未満である。
初期のクレデンザなのだろう。
オーディオテクニカ所蔵のクレデンザは40,000番台とのこと。
クレデンザの音を聴いたのは、そう多くないが、
実物を見る機会は、それよりも多かった。
今回、はじめて気づいたのは、二枚扉のクレデンザということだった。
私のなかでの印象は、四枚扉のクレデンザである。
中央二枚の大きい扉、
その他に両端にSP盤を収納するための狭い扉がついているタイプである。
二枚扉のクレデンザにも、SP盤の収納スペースはあるが、
扉は二枚になったことで大きくなり、扉を開いた姿は、けっこう違って見える。
こんなクレデンザがあったのか、と検索してみると、確かに存在している。
そして、同じゼンマイ式のクレデンザでも製造時期によって、
けっこう仕様が違っていたこともわかった。
そういうクレデンザから鳴ってくる音を聴いていた。
昨日、映画を二本観ていた。
「スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース」と「ザ・フラッシュ」だ。
どちらもハリウッドの大作で、CGを多用した作品。
どちらもIMAX Laserの劇場で観た。
こういう作品をIMAXで観るたびに、
この映画の上映、一回あたりの使用電気量はいったいいくらなのだろうか、と思う。
スクリーンに映し出されるディテールの明瞭度、
それに音。
そうとうな電気量なのだから、入場料金が高くなるのもしょうがない、と思う。
それにこれら二本の作品は上映だけに多くの電気を必要とするわけではなく、
制作においても、そうとうな電気を消費している。
とにかくそうやってできあがった作品を、二本観た次の日、
つまり今日、アクースティック蓄音器の王様といわれるクレデンザを聴いてきた。
それも二箇所で聴いてきた。
一箇所目のクレデンザはゼンマイ式、
二箇所目のクレデンザはモーター式。
ゼンマイ式のクレデンザは、電気をまったく必要としない。
モーター式のクレデンザはディスクの回転のための電気は必要とするものの、
音を出す仕組み(構造)には、まったく電気は使われていない。
音は電気信号に変換されることなく鳴ってくる。
スピーカーはスピーカーの音を聴いている──。
以前、別項で、そう書いた。
スピーカーはスピーカーの音を聴くなんて、なんと非科学的な、
という人もいるのはわかっている。
あくまでも感覚的なことなのだが、それでもそうおもってしまうことが、
オーディオをながく続けていると、そういう結論めいたことに行き着くことがある。
そんなこと、一度もない、という人もいるし、
私と同じように、そう感じている人もいる。
どちらが正しいとか間違っているとか、
上とか下とか、そういう問題ではなくて、
同じオーディオを趣味としている、といっている者であっても、
そのくらいの違いがある、という事実でしかない。
5月28日の夜、野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会に集まった数人と飲んでいた。
あれこれ話して駅で別れた。
私一人、反対方向の電車に乗る。
一人になって、(その8)で書いたことをおもっていた。
カザルスのバッハの無伴奏の音について、である。
なぜ、カザルスのバッハが、それまでの三枚とまるで違う鳴り方だったのか。
その理由について考えていると、
結局のところ、スピーカーはスピーカーの音を聴いている、という結論にたどりつく。
そんな非科学的なことが結論か──、といわれれば、
そうかもしれませんね、というしかないが、
スピーカーはスピーカーの音を聴いている、としか説明のしようのないことが、
現実にはあることはかわりようがない。
昨日(5月28日)は、野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会に行ってきた。
朝日新聞社発行の「世界のステレオ」に載っていた写真そのままの音楽室だった。
機器の配置は、少しばかり違っていたけれど、全体の雰囲気はそのままだった。
音はどうだったのか、というと、細かいことをあれこれ書こうとはまったく思っていない。
野口晴哉氏は1976年に亡くなられていて、
その後、野口晴哉氏のシステムは鳴らされていなかったようだから、
当時の音がそっくり聴けるとは、まったく期待していなかった。
(その1)で書いているように、片鱗でも聴けるのであれば、それでいい──、
行く前からそうおもっていた。
その片鱗は聴けたのか。
野口晴哉氏が鳴らされていた音を聴いたことのある人は、私の周りにはいない。
五味先生のオーディオ巡礼を読み返して、想像するしかない。
正直なことをいうと、あきらかな整備不足の音だった。
調整が不足している以前の、
特にアナログプレーヤーを含めての周辺の整備不足による音のアラがひどかった、といえる。
一枚目、二枚目、三枚目のディスクまでは、片鱗すら聴けないのかもしれない──、
そうおもいつつ聴いていた。
四枚目のディスクは、カザルスのバッハの無伴奏だった。
このカザルスは、前の三枚とはあきらかに鳴り方が違っていた。
この日来ていた友人数人に感想を聴いても、カザルスから音が変った、といっていた。
カザルスは野口晴哉氏が最も好んで聴かれていた、ときいている。
そのことが如実に、その音から伝わってくる、そんな感じの鳴り方だった。
「片鱗」をしっかりと聴けた、そう思えた一枚だった。
この一枚が聴けただけで、満足といえばたしかに満足していた。
5月28日に開催される野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会の会場となる
野口晴哉氏のリスニングルームにはクーラーが設置されていない、ときいている。
野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会の前売りはすべて完売とのこと。
当日券は若干数確保してあるそうだが、
状況によってはすぐの入場はできない場合もあるそうだ。
「野口晴哉 リスニングルーム」で画像検索すると、
いくつかの写真が表示される。
1973年当時の写真もある。
1973年のFM新読本(FM fan 別冊)に掲載されたものである。
不鮮明な写真だけれども、見ることができる。
「世界のオーディオ」が1976年、さらにもう一枚の写真も検索結果として出てくる。
そこにはスタックスのコンデンサー型スピーカーESS6Aが写っている。
QUADのESLだけではなく、スタックスもある。
そしてリボン型トゥイーターのデッカ・ケリー。
ウェスターン・エレクトリックの594A、シーメンスのオイロダイン、
その他の往年のホーン型という浸透力の強い音のスピーカーをメインにすえながら、
ESL、ESS6A、デッカ・ケリーが揃っているのをみていると、
それだけであれこれ想像できて、楽しくなってくる。
「世界のステレオ」で野口晴哉氏のリスニングルームの写真を見た時、
すごいと思いながらも、聴く機会はおとずれないものと思っていた。
聴いてみたい、とは、だから思うことはなかった。
無理なのがわかっていたからだ。
それから四十年以上が経ち、聴く機会が訪れようとしている。