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Date: 9月 17th, 2008
Cate: KEF, LNP2, LS5/1A, 瀬川冬樹

LS5/1Aにつながれていたのは(その2)

FMfanの巻頭のカラーページで紹介されていた
瀬川先生の世田谷のリスニングルームの写真に写っていたLS5/1Aの上には、
パイオニアのリボントゥイーターPT-R7が乗っていた。

LS5/1Aの開発時期は1958年。周波数特性は40〜13000Hz ±5dB。
2個搭載されているトゥイーター(セレッションのHF1300)は、位相干渉による音像の肥大を防ぐために、
3kHz以上では、1個のHF1300をロールオフさせている(トゥイーターのカットオフ周波数は1.75kHz)。
そのまま鳴らしたのでは高域のレスポンスがなだらかに低下してゆく。
そのため専用アンプには、高域補正用の回路が搭載されている。
専用アンプは、ラドフォード製のEL34のプッシュプル(LS5/1はリーク製のEL34プッシュプル)だが、
瀬川先生は、トランジスターアンプで鳴らすようになってから、真価を発揮してきた、と書かれている。

いくつかのアンプを試されたであろう。JBLのSE400Sも試されたであろう。
その結果、スチューダーのA68を最終的に選択されたと想像する。

もちろんA68には高域補整回路は搭載されていない。
おそらくLNP2Lのトーンコントロールで補正されていたのだろう。
さらにPT-R7を追加してワイドレンジ化を試されたのだろう。

これらがうまくいったのかどうかはわからない。

瀬川先生の世田谷のリスニングルームにいかれた方何人かに、
このことを訊ねても、PT-R7の存在に気づかれた人がいない。
だから、つねにLS5/1Aの上にPT-R7が乗っていたわけではなかったのかもしれない。

LNP2とA68のペアで鳴らされていたであろうLS5/1Aの音は、想像するしかない。

Date: 9月 17th, 2008
Cate: LNP2, LS5/1A, 瀬川冬樹

LS5/1Aにつながれていたのは(その1)

「なぜ、これだけなの?」と思ったのも、ほんとうのところである。 
1982年1月、ステレオサウンド試聴室隣の倉庫で、
瀬川先生の愛機のLS5/1A、LNP2L、A68を見た時に、
そう思い、なんともさびしい想いにとらわれた。 

それからしばらくして、4345がどこに行ったのかをきいた。
それでも、なぜ、これだけなのか、と当時はずっと思っていた。 

けれど、いま思うのは、この3機種こそ、
瀬川先生にとっての愛機だったのだということである。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その1)

マークレビンソン(Mark Levinson)というブランドが、 他のオーディオ・ブランドと異なる点は、 
ブランドに、自分の名前をフルネームでつけたことではないだろうか。 

マークレビンソン以前にも、マランツ、マッキントッシュなど 
創立者、中心人物の名前をブランドにしたメーカーはいくつもある。 
けれど、どれもファミリーネームだけで、 創立者のフルネームをそのままブランドにはしていない。 

フルネームをブランドにしたメーカーは、 
マークレビンソン以外にも、JR、JBLなどがあるが、創立者のフルネームのイニシャルどまり。 

最近ではジェフ・ロゥランド・デザイン・グループが、 創立者のフルネームを使っているが、 
これは最初ローランド・リサーチだった。 
それが日本のローランド社からのまぎらわしいとのクレームで、 

日本語表記がロゥランド・リサーチになり、 それでもまだ不十分ということで、 現在の社名になったわけで、 
マークレビンソン(Mark Levinson)とは異なる。 

バウエン製モジュールのLNP2と 自社製モジュールのLNP2の音の違いは、 
このことは大きく関係しているように思えてならない。

Date: 9月 11th, 2008
Cate: ML2L, 瀬川冬樹

思い出した疑問

1980年のことだから、ずいぶん昔のことだが、そのとき、感じていた、ある疑問を思い出した。
ステレオサウンドの夏号(55号)のベストバイの特集(このころベストバイは夏号だった)で、
各筆者がそれぞれのマイベスト3をあげられている。 

瀬川先生が挙げられたのは、スピーカーはJBLの4343とL150とKEFのローコストモデル303、
コントロールアンプは、マークレビンソンのLNP2LとML6L、それにアキュフェーズのC240。
パワーアンプは、たしかアキュフェーズのP400に、マイケルソン&オースチンTVA1、
それにルボックスのA740だった(と記憶している)。 
プレーヤーはマイクロの糸ドライブ、エクスクルーシヴのP3とEMT930stだ。 

疑問に思っていたのは、パワーアンプのベスト3に、
なぜマークレビンソンのML2Lをあげられていないかだった。 
コントロールアンプではLNP2LとML6Lと、マークレビンソンの製品を2つあげられているし、
価格的に高価なものを除外されているわけでもないにも関わらず、ML2Lがない。 

このとき、以前愛用されていたSAEのMark2500は製造中止になり、
新シリーズに移行していたので、Mark2500がないのはわかる。 

ML2Lがないのはなぜ? 
当時理解できなかったこのことも、いまなら、ぼんやりとだがわかる。

Date: 9月 10th, 2008
Cate: Mark Levinson, 川崎和男

ずっと心にあったこと

1970年代の後半にオーディオに興味をもち始めた私にとって、 
MLAS(Mark Levinson Audio Systems)を主宰していたマーク・レヴィンソンは、 
ミュージシャンであり、録音エンジニアでもあり、 
そしてひじょうにすぐれたアンプ・エンジニア──、 
憧れであり、スーパースターのような存在でもあり、 
マーク・レヴィンソンに追いつき、追い越せ、が、じつは目標だった。 

LNP2やJC2をこえるアンプを、自分の手でつくり上げる。 
もっと魅力的なアンプをつくりあげる。 
そのために必要なことはすべて自分でやらなければ、 マーク・レヴィンソンは越えられない。 

そう、中学生の私は思い込んでいた、それもかなり強く。

とにかくアンプを設計するためには電子回路の勉強、 
これもはじめたが、一朝一夕にマスターできるものじゃない。 
(中学生の私にも)いますぐカタチになるのは、パネル・フェイスだな、 
かっこいいパネルだったら、なんとかなるんじゃないかと思って、 
夜な夜なアンプのパネルのスケッチを何枚も書いていた時期がある。 

フリーハンドでスケッチ(というよりも落書きにちかい)を描いたり、 
定規とコンパス使って、2分の1サイズに縮小した図を描いたことも。 
横幅19インチのJC2を原寸で描くための紙がなかったもので、 2分の1サイズで描いていたわけだ。 
(とにかく薄型のかっこいいアンプにしたかった) 

「手本」を用意して、いろいろツマミの形や大きさ、数を変えたりしながら、 
中学生の頭で考えつくことは、とにかくやったつもりになっていた。 

1977〜78年、中学3年の1年間、飽きずにやっていた。 
授業中もノートに片隅に描いてた。
けれども……。 

そんなことをやっていたことは、すっかり忘れていた。 
当時はまじめにやっていたのに、きれいさっぱり忘れていた、このことを、 
ある時、ステージ上のスクリーンに映し出されている写真を見て思い出し、 驚いた。 

このときのことは、ここで、すこしふれている。 

1994年の草月ホールでの川崎先生の講演で、 
スクリーンに映し出されたSZ1000を見た時に、
中学時代の、そのことを思い出した。 

あのころの私が「手本」としたアンプのひとつが、そこに映っていたからだ。 
デザインの勉強なんて何もしたことがない中学生が、 
アンプのデザインをしようと思い立っても、なにか手本がないと無理、 
その手本を元にあれこれやれば、きっとかっこよくなるはず、と信じて、 
落書きの域を出ないスケッチを、それこそ何枚と書いていた。

当時、薄型のコントロールアンプ各社から出ていた。
ヤマハのC2、パイオニアのC21、ラックスのCL32などがあったなかで、 
選んだのはオーレックスのSZ1000、そしてもう一機種、同じくオーレックスのSY77。

SZ1000のパネルの横幅は、比較的小さめだったので、 
まずこれを1U・19インチ・サイズにしたらどうなるか。
ツマミの位置と大きさを広告の写真から計算して、
19インチのパネルサイズだと、どの位置になり、どのくらいの径になるのか。 
そんなことから初めて、ツマミの形を変えてみたり、位置をすこしずつずらしてみたり、 
思いつく限りいろんなことをやっても、手本を越えることができない。 

SY77に関しても、同じようなことをやっていた。 
SY77は、オプションのラックハンドルをつけると、 19インチ・サイズになる。
これを薄くすると、どんな感じになるのか、という具合に。 

1年間やっても、カッコよくならない。 
「なぜ? こんなにやっているのに……」と当時は思っていた。 

その答えが、十数年後の、1994年に判明。 
同時に、われながら、中学生にしてはモノを見る目があったな、と、すこしだけ自惚れるとともに、
敗北に似たものを感じたため、やめたことも思い出していた。 

あらためて言うまでもSZ1000もSY77も、川崎先生の手によるデザインだ。

Date: 9月 3rd, 2008
Cate: 4343, 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(その1)

トーレンスのアナログ・プレーヤー 〝リファレンス〟の実物をはじめて見て、 
その音を聴いたのは、もうずいぶん前のこと。 
まだ熊本にいたころ、高校3年生の時だから、27年前になる。 

熊本市内のオーディオ店(寿屋本庄店)で、 
(たしか)三カ月に1度、土日の二日連続で開催されていた 
瀬川先生の「オーディオ・ティーチイン」というイベントにおいて、である。 

そのときのラインナップは、 
トーレンスのリファレンス、 
マークレビンソンのLNP2L とSUMOのTHE GOLDの組合せで、 
スピーカーは、もちろんJBLの4343。

この時、正直にいえば、パワーアンプはTHE GOLDではなく、
LNP2LとペアになるML2L で聴きたいのに……と思っていた。

いろんなレコードの後、 
最後に、当時、優秀録音と言われていて、 
瀬川先生もステレオサウンドの試聴テストでよく使われていた 
コリン・デイヴィス指揮の ストラヴィンスキーの「火の鳥」をかけられた。 

もうイベントの終了時間はとっくに過ぎていたにもかかわらず、 
なぜか、レコードの片面を、最後まで鳴らされた。 

そのときの音は、いま聴くと、 
いわゆる「整った」音ではなかっただろう。
けれど、その凄まじさは、いまでもはっきりと憶えているほど、つよく刻まれている。

レコードによる音楽鑑賞、ではなくて、音楽体験、 
それも強烈な体験として、残っている。

聴き終わって、瀬川先生の方を見ると、 
ものすごくぐったりされていて、顔色もひどく悪い。 

いつもなら、イベント終了後、しばらく会場におられて、 
質問やリクエストを受けつけられるのに、その日は、すぐに引っ込まれた。 

「体の調子が悪いんだ。 なのに『火の鳥』、なぜ最後まで鳴らされたのかなぁ
途中で針をあげられればよかったのに……」と、 
そんなことを考えながら、店の外に出ると、
駐車場から出てきた車のうしろで、さらにぐったりされている瀬川先生の姿が見えた。