毎日書くということ(答えではなく……・その5)
(その1)で、
1万本に近づいたときに、究極の答え、最終的な答えにたどりつけるのか。
そのためには究極の問いを見つけることになる、と書いた。
いまこれが8919本目である。
どうにか一万本に近づいてきた、といえる本数になって、
しかも十年、毎日書いてきて、最終的な問いが見えてきた。
別項で書いていることである。
正直なのか、という問いこそが、最終的な問いとなってくる予感がある。
(その1)で、
1万本に近づいたときに、究極の答え、最終的な答えにたどりつけるのか。
そのためには究極の問いを見つけることになる、と書いた。
いまこれが8919本目である。
どうにか一万本に近づいてきた、といえる本数になって、
しかも十年、毎日書いてきて、最終的な問いが見えてきた。
別項で書いていることである。
正直なのか、という問いこそが、最終的な問いとなってくる予感がある。
デザイン(design)は、そのまま日本語に訳されることなくとけ込んで使われている。
無理に訳す必要はないのではないか、と藤崎圭一郎氏はいわれた。
私もそう思う。
けれど、デザイナー(designer)を、どう日本語に訳すのか。
これは考えていかなければならないと思うし、
デザイナーをどう訳すのかを考えることが、
なんらかの答につながっていくように感じている。
3月30日のKK適塾で、
最後に司会者の方が川崎先生と藤崎圭一郎氏に質問された。
司会者が質問してもいい。
けれど、その質問に対する川崎先生の発言に対するリアクションには、
えっ!? と思ってしまった。
デザイン(design)は日本語に訳されることなく、そのまま使われている。
そのことについての質問だった。
中国では、こう訳されている、と川崎先生がいわれた。
川崎先生のブログを読んでいる人ならば、そのことは知っていて当然のことだ。
なのに初めて聞いた(知った)といったリアクションでもあった。
この司会者は、川崎先生の書かれたものを、あまり読んでいない人なんだな、と感じた。
もちろんすべてを読んでいたとしても、すべてを記憶しているわけではない。
けれど、自らが質問することに関することは、しっかりと憶えているものだろう。
問いは怖い、とあらためて実感した。
問いは自らをさらけ出す。
以前書いたように、このブログは1万本書くまで毎日書いていこうと決めている。
そのためには、それに見合うだけのテーマが必要となり、
テーマの多くは、いわば問いであり、
本文に、その問いに対する答えにたどりつくまでの過程である。
昨夜までで2430本書いて、この2431本目を書こうとして気がついたことがある。
問いがあるから答えがある、問いがあるから答えを見つけられる、ということだ。
2008年9月に書き始めたわけだから、約3年半で2400本ということは、まだまだ書きつづけていくことになる。
このペースでいけば、あと約10年書いていくわけだが、
1万本に近づいたときに、究極の答え、最終的な答えにたどりつけるのか。
そのためには究極の問いを見つけることになる。
そのことは本末転倒なような気もするし、
じつのところ、答えよりも問いを見つけていくことが大事なことなのかもしれない、と思う。
究極の問いを見つけたとき、
その答えは見つけられるのか。もしかするとすでに見つけていたことに、そのとき気づくのだろうか。