つきあいの長い音(その40)
つきあいの長い音は、原風景へとなっていくのか。
つきあいの長い音は、原風景へとなっていくのか。
つきあいの長い音は、身近にいるようでいて、遠くにあるのだろうか。
つきあいの長い音に映るのは、ひとりで音楽を聴く行為ゆえの何かなのだろうか。
つきあいの長い音は、つきあいの長い音楽が生む心象があってこそ。
つきあいの長い音──、私にとってそれは、意外にもJBLなのかもしれない。
つきあいの長い音がつくり出す音楽美こそ、オーディオマニアの喜びかもしれない。
つきあいの長い音は、身近な音なのか、それともそうでない音なのか。
つきあいの長い音との関係において、心の痛みを感じなかった、ということはないはずだ。
つきあいの長い音は、何かを欲しているのだろうか。
つきあいの長い音は、絶対的にlow thinkingではない。
つきあいの長い音も、“plain sounding, high thinking”なのだろう。
つきあいの長い音に官能性を与えるもののひとつが、それも重要なひとつが器ではないのか。
つきあいの長い音に必要なのものの中には、器に対する心遣い、気くばりがあるはずだ。
つきあいの長い音と器の関係を忘れてはならないと思っている。
つきあいの長い音の条件のひとつは、静寂に調和できる音かもしれない。