Posts Tagged ステレオサウンド

Date: 7月 16th, 2014
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(その9)

ステレオサウンド 68号のスーパーマニアの冒頭にこう書いてある。
     *
 ぼくがQUAD/ESLの存在を意識するようになったのは、亡くなられた岩崎千明さんのお宅で聴かせていただいてからなんです。確かカウント・ベイシーのビッグバンドをかけていただいたように記憶しているんですが、ほく自身ESL=室内楽という先入観があったものだから、恐る恐る聴いたというのが正直な感想でしたね。
 しかし、ESLから厚みのある輝かしいブラスのサウンドが流れはじめるや、思わずのけぞってしまいましたね。「こいつはすごい」ということになって、左右のスピーカーから1mくらいのところに陣取って、そう、ちょうど雰囲気としてはでっかいコンデンサー型ヘッドフォンを耳にぶらさげているような感じで、ビッグバンド・ジャズやコンボ・ジャズのとびきりハードな演奏ばかり次から次に聴かせていただいたのが懐かしい思い出ですね。
     *
68号が出たのは1983年。
私がESLを鳴らすようになったのは三年後くらいである。
そして岩崎先生のESLと同じように、1mくらいのところで聴いていた。

このことは体験してみると、よくわかる。
ESLを至近距離で聴くとき、それまでのESLの、どこかひ弱なところが残るというイメージは払拭される。

朝沼さんは「厚みのある輝かしいブラスのサウンド」と書かれている。
これもよくわかる。
そういう音がESLから聴ける、のである。

これは再生オーディオにおいては、レベルコントロールの自由とともに、
聴取位置の自由があり、ここで書いているような音がESLから欲しければ、思いきって近づいて聴けばいい。

反対に、他のスピーカーではぐんと離れて聴く、という聴き方の自由が聴き手にはある。

レベルコントロールが常に同じではないように、
聴取位置もつねに同じでなくともいい、ということ。

これは再生オーディオならではの聴き方である。

Date: 7月 16th, 2014
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(その8)

再生音量設定の自由は、なにもコントロールアンプやプリメインアンプのレベルコントロールの操作だけではない。
スピーカーとの距離を変えるのも、音量設定の自由である。

私は20代のなかばごろ、QUADのESLを鳴らしていた。
パワーアンプはSUMOのThe Gold。
5.5畳ほどの狭い空間だった。

そこで鳴っていた音は、多くの人がイメージするESLの音量的な制約はほとんど感じさせなかった。
狭い部屋ということで、しかも長辺の壁にESLを置いていたから、
ESLと私と距離はほんとうに近い。

そういう環境でESLの仰角を調整していた。

そうやって得られた音は、マーラーの最新録音を鳴らしても不足は感じなかったし、
大丈夫だろうか、という不安も感じなかった。

私だけがそう感じていたわけではない。
それにやはりESLで同じ体験をされた人がいる。

ステレオサウンド 68号のスーパーマニアに登場されている朝沼吉弘氏だ。
吉弘は予史宏の変換ミスではなく、のちの朝沼氏予史宏氏の、このときのペンネームである。

Date: 7月 14th, 2014
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(その7)

1977年12月に出たステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’78」に、
JBLの4350Aの組合せ記事がある。

菅野サウンドのジャズ・レコードを
制作者の意図したイメージで聴きたい

この見出しがついていて、4350Aを選択し、組合せをつくられたのは菅野先生である。

組合せ例はここでのテーマとは関係のないことだが、一応書いておく。
スピーカーはいうまでせなく4350A。
アンプはコントロールアンプがアキュフェーズのC220、
エレクトリッククロスオーヴァーネットワークもアキュフェーズで、F5。
パワーアンプは低域用にアキュフェーズM60、中高域用にパイオニアExclusive M4。
アナログプレーヤーはテクニクスのSP10MK2にSH10B3(キャビネット)、
トーンアームはフィデリティ・リサーチのFR64S、カートリッジはオルトフォンMC20である。
この他に、ビクターのグラフィックイコライザーSEA7070が加わる。

この記事で、菅野先生が話されている。
     *
私は『サイド・バイ・サイド』にかぎらず、とくに私自身が制作・録音したジャズのレコードは、実際よりも大きな音量で楽しんでいます。さらにいえば、『サイド・バイ・サイド』のシリーズの場合、かなりのラウドネスで聴いていただいてはじめてベーゼンドルファーの音色の細やかさ、まろやかさ、芯の強さといったものが生きてくると思います。
     *
私はなにも大きな音量で必ず聴け、といいたいのではなく、
音量設定の自由に自ら制約をつくっていかなくてもいいのではないか、ということだ。

Date: 7月 13th, 2014
Cate: サイズ

サイズ考(大口径ウーファーのこと・その2)

私がこれまで自分のモノとして鳴らしてきたスピーカーでは、
15インチ口径ウーファーがいちばん大きい。
それ以上の、18インチ、30インチといった大口径ウーファーは、自分のモノとして鳴らした経験はない。

いまいわゆる大口径ウーファーは少なくなってきたように感じる。
いつのまにか大口径ウーファーを鳴らすのは、あまり知的ではないような風潮が一部ではあるようだ。
小口径、中口径ウーファーを鳴らす方が質の高い低音が得られる──、
それがあたかも最新の鳴らし方のように喧伝する人たちが増えてきたようにも感じている。

低音再生とは、そういうものなのか、
それに15インチは大口径なのか。

私の感覚では、15インチをこえたサイズから大口径となる。
つまり私にとって大口径ウーファーのもっとも小さなサイズが18インチであり、
それ以上の24インチ、30インチが、まさしく大口径ウーファーという認識である。

1977年秋のステレオサウンド別冊、HIGH-TECHNIC SERIES-1。
マルチスピーカー・マルチアンプのすすめ、というテーマでつくられた一冊。

この本の表紙はJBLの075、HL88(537-500)、それにエレクトロボイスの30Wが並んでいる。
この表紙をみたときから、なぜJBLのウーファーを使わなかったのか、という疑問があった。

075、HL88、2220でもいいじゃないか、と思いながらも、
075、HL88、30Wの組合せの写真のバランスの良さにも感心していた。

Date: 7月 12th, 2014
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その5)

ステレオサウンドの創刊号は持っていない。
私が持っているステレオサウンドでいちばん古いのは2号だ。

この2号の表紙をめくる。
そこは表2(ひょうに)と呼ばれるページ。

表1、表2、表3、表4とは、本の表紙の呼び方で、
表1(ひょういち)が表表紙、表4(ひょうよん)が裏表紙、
表2は表1の裏、表3(ひょうさん)は表4の裏のことだ。

表1以外の表2、表3、表4は広告として使われる。
広告料金表を見ればわかるが、これらのページは高い。

ステレオサウンド 2号の表2は広告ではなく、目次でもなく、
こう書いてあるページだ。
     *
STEREO SOUNDは眼で聴く雑誌です
ジムランという文字が眼にはいったら
ジムランの艶やかな音を
シュアーと読んだら
力強いシュアーの響きを耳に描いてください
レコードの話は
ターンテーブルの静かな回転を思い浮べながら
テープの記事は リールに巻きとられてゆく
テープの流れを追いながら
わたくしたちと音楽のつながりは
とくに深いものがあるようです。
本誌が「聴」の世界をひらく
眼による水先案内となれば幸いです
     *
誰の文章なのかはどこにも書いてないが、
ステレオサウンドを創刊した原田勲氏によるものだろう。

Date: 7月 10th, 2014
Cate: 組合せ

妄想組合せの楽しみ(JBL D130・その8)

組合せは決った。
いったいどういう音がしてくるのか、
いま中古でここで挙げたコンポーネントを手に入れたとしても、うまいこと鳴ってくれる保証はない。

スピーカーにしろアンプにしろ、どんなモノであれ、長い年月を経ていれば、
どんなに大切に使っていたとしても性能的には劣化している。
そう思いたくなくとも、これは絶対不可避である。

井上先生が以前書かれていた。
     *
現実に状態の良いシステムを実際に鳴らしてみたとしても、かつて備えていた本来の状態をベースに聴かせた音の再現は完全には不可能であり、例えば、1モデルに1ヵ月の時間を費やしてメインテナンスをしたとしても、絶対年令は、リカバリー不能であろう。逆説的ではあるが、イメージ的に心にわずかばかり残っている、残像を大切に扱い、思い浮かべた印象を文字として表現したほうが、むしろリアルであろうか、とも考えている。
(ステレオサウンド別冊「音の世紀」より)
     *
その通りだと思う。
「イメージ的に心にわずかばかり残っている、残像」、
これを持っているか持っていないのか──。

JBLのD130を平面バッフルに取りつけて、
できるだけ価格を抑えた組合せは、いったいどんな音を聴かせるのか、よりも、
この組合せで、どのレコードを聴きたいのか。

私が聴きたいと思っているのは、ジャズではなく、
デッカのカートリッジを選んでいるようにクラシックであり、
ストラヴィンスキーによるストラヴィンスキーの「春の祭典」をまっさきに鳴らしてみたい。

Date: 7月 9th, 2014
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その4)

別項(オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」)でも書いているように、
私はステレオサウンドには、オーディオ評論の本という側面が、以前は確かにあった、と感じている読み手である。

私はステレオサウンドをいつのころからかそんなふうに読んできたし、
そう読んでおもしろいオーディオ雑誌であった時期がある。
だからこそ夢中になって読んできた。

だが、このことは私の勝手な読み方だったのであろう、と、
2013年の、ステレオサウンド編集長の新年の挨拶を読むと、改めて思ってしまう。

本だけに限らない。
何であれ、送り手の意図とは違う受けとめられ方をされることは、決して少なくない。
むしろ意図通りに受けとめられることのほうが少ないようにも思っている。

ステレオサウンドというオーディオ雑誌を、どう読もうと、
ステレオサウンドを手にした人の勝手が許されるともいえるし、
送り手側にしてみれば、できればそうでないことを望んでいる。

2013年の新年の挨拶は、私がステレオサウンドに期待していることは、
期待すべきことではなかった、ということをはっきりとさせてくれた。

私はいまでも、ステレオサウンドはオーディオ評論の本として読み応えのある本であってほしい、
と望んでいるけれど、2013年の新年の挨拶にあるように
「素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい」こそが
ステレオサウンドの創刊以来変らぬ編集方針の柱であるのなら、望むのは筋違いでしかない。

そして考えたいのは、
「素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい」には、
オーディオ評論家は読者の代表という意識があるのか、ということ、
ステレオサウンド編集部にもそういう意識があるのか、ということである。

Date: 10月 8th, 2012
Cate: 黒田恭一

バーンスタインのベートーヴェン全集(その10)

ここでとりあげているバーンスタインのベートーヴェン全集は1980年に、
カラヤンのベートーヴェン全集は1977年に、
どちらもドイツ・グラモフォンから発売されている。

録音された時期は両者で2、3年の違いが存在しており、
その数年のあいだにも技術は進歩しているし、録音テクニックも変化していっている。

けれど、この両者のベートーヴェン全集のレコードの違いは、
そういう技術、テクニックの、時間の推移による違いから来ているものというよりも、
録音のコンセプト自体の違いが、それ以前にはっきりとした違いとしてあるように考えられる。

それはバーンスタインのベートーヴェンが、いわゆるライヴ録音であるということ、
カラヤンのベートーヴェンが、綿密なスタジオ録音であるということとも関係してくることとして、
録音のフィデリティの追求として、
バーンスタインにおいては、コンサート・フィデリティ、
カラヤンにおいてはスコア・フィデリティ、ということが他方よりも重視されている、といえよう。

このコンサート・フィデリティとスコア・フィデリティについては、
ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)の、菅野先生と山中先生の巻頭対談の中に、
菅野先生の発言として出てきた言葉である。

ステレオサウンド 71号の菅野先生の発番を引用しておく。
     *
録音というものの基本的なコンセプトには二つあると思うんです。
一つは、コンサートの雰囲気を、そのまま録音しようという、コンサート・フィデリティ型、もう一つ、これはクラシックの場合に限られるけれども、スコアに対するフィデリティ型です。
スコアに対してのフィデリティを追求した録音は、生のコンサートの雰囲気をスピーカーから聴きたいという人には「顕微鏡拡大的である」とか「聴こえるべき音じゃないものが聴こえる」として嫌われます。
再生の側から言えば、いつもコンサート・フィデリティ派が主流になっています。
ところが、困ったことに、そういうコンサート・フィデリティ的なプレゼンス、あるいはオーケストラ・ホールに行ったかのごとき疑似現実体験、距離感が遠いとか近いとか、定位が悪いとか、音像が小っちゃいとか大きいとか、そんなことは音楽を表現する側にとっては、まったくナンセンスなんだ。
     *
この対談で、菅野先生はコンサート・フィデリティの録音として、
発売になったばかりのアバド指揮シカゴ交響楽団によるベルリオーズの「幻想交響曲」を、
スコア・フィデリティの録音として、
カラヤン指揮ベルリンフィルハーモニーによるチャイコフスキーの第四交響曲をあげられている。

Date: 10月 27th, 2008
Cate: 伊藤喜多男, 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その4)

私がオーディオに興味をもったころ、
すでにマランツもマッキントッシュも真空管アンプの製造をやめていた。QUADもそうだ。
五味先生の著書に登場するアンプは、どれも現行製品では手に入らない。

自作という手もあるな、と中学生の私は思いはじめていた。
「初歩のラジオ」や「無線と実験」、「電波科学」も、ステレオサウンドと併読していた。
私が住んでいた田舎でも、大きい書店に行けば、真空管アンプの自作の本が並んでいた。
それらを読みながら、真空管の名前を憶え、なんとなく回路図を眺めていた時期、
衝撃的だったのが、無線と実験に載っていた伊藤喜多男氏の名前とシーメンスEdのプッシュプルアンプの写真だった。

伊藤先生の名前は、ステレオサウンドに「真贋物語」を書かれていたので知っていた。
その内容から、オーディオの大先輩だということはわかっていた。

それまで無線と実験誌で見てきた真空管アンプで、
「これだ、これをそのまま作ろう」と思えたものはひとつもなかった。

それぞれの記事は勉強にはなったが、どれもアンプとして見た時にカッコよくない。
そんな印象が強まりつつあるときに読んだ、伊藤先生の製作記事は文字通り別格だった。

Date: 9月 25th, 2008
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(その12)

瀬川先生は、レコードをターンテーブルに置かれた後、
必ず人さし指と中指で、レーベルのところをちょんと、軽く押えられる。
ターンテーブルに密着させるためではなく、
レコードに「今日もいい音(音楽)を聴かせてくれよ」という呼びかけのような印象を、
その行為を見ていて、私はそう感じた。

これを見たその日からさっそくマネしはじめた。
その他にも、カートリッジをレコードに降ろすとき、
右手の小指はプレーヤーのキャビネットに置き、
右手の動きを安定させる。
カートリッジの針がレコードの盤面に近づいたらヘッドシェルの指掛けから、指を素早く離す。
針がレコードに触れるまで持っていると、レコードを逆に傷つけてしまうからだ。

しかも、瀬川先生はレコードのかけ替えの時、ターンテーブルはつねにまわされたままだった。
すっとレコードを乗せて、すっと取られる。ためらっていると、レコードは傷つく。

これももちろんマネした。
ずっとマネしていると、いつか日かサマになる。

ステレオサウンドにいたとき、取材の試聴の時、つねにターンテーブルはまわしっぱなし。
一度もレコードを、そのせいで傷つけたことはない。

Date: 9月 21st, 2008
Cate: 異相の木, 黒田恭一

「異相の木」(その1)

「異相の木」は、黒田(恭一)先生が、
ステレオサウンドに以前連載されていた「さらに聴きとるもののとの対話を」のなかで、 
ヴァンゲリスを取りあげられたときにつけられたタイトルである。 

おのれのレコードコレクションを庭に例えて、
そのなかに、他のコレクションとは毛色の違うレコードが存在する。
それを異相の木と表現されていたように記憶している。

この号の編集後記で、KEN氏は、
自分にとっての異相の木は八代亜紀の「雨の慕情」だ、と書いている。

異相の木は、人それぞれだろう。自分にとっての異相の木があるのかないのか。 
その異相の木は、ずっと異相の木のままなのかどうか。 
そして異相の木は、レコードコレクションだけではない。
オーディオ機器にもあてはまるだろう。

Date: 9月 17th, 2008
Cate: LNP2, LS5/1A, 瀬川冬樹

LS5/1Aにつながれていたのは(その1)

「なぜ、これだけなの?」と思ったのも、ほんとうのところである。 
1982年1月、ステレオサウンド試聴室隣の倉庫で、
瀬川先生の愛機のLS5/1A、LNP2L、A68を見た時に、
そう思い、なんともさびしい想いにとらわれた。 

それからしばらくして、4345がどこに行ったのかをきいた。
それでも、なぜ、これだけなのか、と当時はずっと思っていた。 

けれど、いま思うのは、この3機種こそ、
瀬川先生にとっての愛機だったのだということである。

Date: 9月 17th, 2008
Cate: 楷書/草書

楷書か草書か(その1)

アバドのマーラーは、私にとっては、1980年前後にシカゴ響との旧録のほうが、
そのなかでも交響曲第1番は、ひときわ印象ぶかいものとなっている。 

1982年夏にステレオサウンド別冊として出た「サウンドコニサー(Sound Connoisseur)」の取材で、
アバドによる第1番をはじめて聴いたとき、
第1楽章出だしの緊張感、カッコウの鳴き声の象徴といわれているクラリネットが鳴りはじめるまでの、
ピーンと張りつめた、すこしひんやりした朝の清々しい空気の描写に、
息がつまりそうな感じに陥ったのを、はっきりとおぼえている。

ステレオサウンドにはいってまだ数ヶ月。
長時間の、しかも数日続く試聴にまだなれていなくて、
さらに、たとえば4344の試聴にしても、4343との比較、
アンプも3通りほど用意してという内容だっただけに、
試聴室の雰囲気も緊張感がみなぎっていて、そこにアバドの演奏で、ぐったりになったものだ。 

いったい、何度聴いたのだろう……。

だからというわけではないが、じつは随分長い間、アバドの1番は聴いてこなかった。
なのに去年暮、ふと聴きたくなってあらためてCDを購入した。 
82年から25年の間に、いくつかの第1番を聴いた。
バーンスタインの再録ももちろん聴いている。 

ひさしぶりのアバドの演奏を聴いて感じたのは、
「このころのアバドは楷書で、バーンスタインは草書」ということ。 

こういう区分けはあまりやらないほうがいいのはわかっていても、
楷書か草書かで、自分の好きな演奏家や音を照らし合わせてみるのはおもしろい。

Date: 9月 16th, 2008
Cate: 瀬川冬樹, 組合せ

ある組合せ

スペンドールのBCII、ラックスのLX38、ピカリングのXUV/4500Q、 
この組合せは、私にとって、いまでも特別なものである。 

熊本のオーディオ店のイベントに定期的に来られていた瀬川先生。 
ある時、イベントが終了して、まだすこし時間に余裕があったので、
瀬川先生が「今日ここにあるオーディオ機器で、聴いてみたい組合せや機種はありますか」
と言われたので、真っ先に手を上げてお願いしたのが、上記の組合せである。 

このとき、スピーカーは他にJBLの4341があったし、
アンプもマークレビンソンのLNP2やSAEの2500、
カートリッジもピカリングの他に10機種ほど用意されていた。 

BCIIは、別のイベントの時に聴いたことがあった。 
XUV/4500Qは、その日のイベントで聴いたばかり。 
LX38の音は、(たしか)耳にしたことはなかった。
十分にその素性を掴んでいるモノはひとつもなかった。
けれども、これら3つの組合せが、パッと頭にひらめいた。

もっと高価な組合せもお願いできたけれども、
どうしても聴きたかったのは、この組合せで、
BCIIの音に惹かれていただけに、もっともっといい音でBCIIを聴きたい、と思って、である。 

「BCIIにラックスのLX38で、カートリッジはXUV/4500Qでお願いします」と言ったところ、
瀬川先生が「これはひじょうにおもしろい組合せだ。ぼくも聴いてみたい組合せ」と言われ、
わくわくされている感じを受けた。 

そして鳴ってきた音は、いまでも憶えている。 

一曲鳴らし終わった後に、「いやー、これはほんとうにいい音だ。玄人の組合せだ!!」と言われ、
ちょうど最前列の真ん中の席が空いていたので、そこに座られ、
瀬川先生のお好きなレコードを、もう1枚かけられて、
そのときの楽しそうに聴かれていた表情と、「玄人の組合せ」という褒め言葉が、
二重にうれしかった。 

なにせ当時高校2年生(16歳)だった私は、
特に「玄人」という言葉が、うれしくてうれしくて、
ひそかに「才能あるんだな、オレ」と自惚れていた。 

「BCIIとLX38ですこし甘くなりがちになるところを、XUV/4500Qでピリッとさせる。
見事な組合せだ。BCIIとLX38がこんなに合うとは思わなかった」とも言われた。 

その約半年後に、ステレオサウンドの別冊として出たコンポーネントの組合せの本に、
カートリッジは異っていたけど、菅野先生も、BCIIとLX38を組み合わされている。

スペンドール、ラックス、ピカリングは、
私にとって、いわゆる黄金の組合せ、もしくは三位一体の組合せ、である。

Date: 9月 15th, 2008
Cate: 105, 現代スピーカー

現代スピーカー考(余談・その1)

KEFの#105は、ステレオサウンド 45号の表紙になっている。
このころのステレオサウンドの表紙を撮影されていたのは安齋吉三郎氏。 

いまのステレオサウンドの表紙と違い、
この時代は、撮影対象のオーディオ機器を真正面から見据えている感じがしてきて、
印象ぶかいものが多く、好きである。 
41号の4343もそうだし、45号の105もそう。ほかにもいくつもあげられる。 

目の前にあるモノを正面から、ひたすらじーっと見続けなければ、
見えてこないものがあることを、
安齋氏の写真は無言のうちに語っている、と私は思う。