ケーブルはいつごろから、なぜ太くなっていったのか(その4)
「音楽 オーディオ 人びと」の著者、そしてトリオの会長であった中野英男氏が、
ヴァイタヴォックスのCN191を導入されたのは昭和46年5月とある。
それから「五年間私の部屋にあった」わけだから、
本田一郎氏がルーカスのケーブルを持ち出してきたり、
さらにもっと細いケーブルを30m這わせたという話は、1971年から76年にかけてのこと。
このころはマークレビンソンのHF10Cも登場していなかったし、
ケーブルによる音質の変化がオーディオ雑誌でも話題にのぼるようになってきたころと重なる。
ケーブルによる音の違いを言及したのは江川氏だということになっているが、そうとは思えない。
古い本を読んだり、大先輩の方々に話をきいてみると、
かなり以前からケーブルによって音が変化することは当然のこととして認識されていたことがわかる。
どのくらい前から、そうだったのかといえば、かなり古くから、のようである。
菅野先生の著書「新レコード演奏家論」の巻末にインタビュー記事が載っている。
タイトルは「菅野沖彦 レコード演奏家としての70年」で、聞き手はステレオサウンド編集部。
この記事の中で、菅野先生が最初に組まれたシステムの話が出てくる。
菅野先生が高校生のときで、自作当初はまだ78回転のSP盤。
すこし菅野先生の話を引用しておく。
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パワーアンプは、3極管やビーム管をいろいろ使いました。2A3から始まって6A2、6L6、6B4Gなどという球をプッシュプルで使い、最後のアンプは5932という球だったかと思います……。巨大な電源トランスを使っていました。ダイナミックスの12インチ・ウーファーはフィールド型でしたから、5Z3や80の整流管でフィールド・エキサイターも作りました。別のシャーシに独立させたプリアンプは12AX7と12AU7をズラッと並べた直流点火方式です。あのこはレコード会社によってイコライザーカーブが異なりましたから、あらゆるレコード会社のイコライザーに合わせられるようにターンオーバーとロールオフを個別のロータリスイッチでそれぞれ組み合わせて調整するというものでした。端子類はRCAプラグやXLRキャノンプラグもなかった時代ですから、多治見というメーカーの多ピンのもの、金属のネジで確実に止められるターミナルにしたり、ケーブルも、太いゴムのキャブタイヤケーブル。雑誌からの知識や先輩が教えてくれる、なるべく良さそうなものを選んで電源とフィールド・エキサイター類とプリアンプ部やパワーアンプをつないだんです。
──ケーブルにも凝られていたのですか。
凝ると言っても、今のケーブル事情とはまったく違いますがね。オーディオコンポーネントなどという商品はまったくない時代ですから。近頃のオーディオファイルのケーブルやターミナルに熱中している状況とはおのずと違うでしょう。いずれにせよあのころとしては、考えつくありとあらゆる部分にこだわったものでした。
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菅野先生は1932年の生れだから、高校生の時は1947年ごろから1950年ごろとなる。
その時代で、すでにケーブルによる音の違いは認識されていたことが読み取れる。
ただ、いまほど大騒ぎはしていなかっただけのことだ。
いまのケーブルの在り方は、正直なところ、行き過ぎていると感じている。
それでもケーブルによる音の違いを否定するわけではない。
どんなケーブルでも、ケーブルを変えれば音は大なり小なり変る。
SP盤の時代から、そうであるように。