オーディオと「ネットワーク」(岩崎千明氏とfacebook・余談)
JBLの4343のことは、このブログでよく書いている。
マークレビンソンのLNP2のこともかなり書いている。
他にも1970年代から80年代のオーディオ機器のことを、けっこう頻繁に書いている。
4343やLNP2は、オーディオに関心をもち始めた頃、もっとも話題になっていたモノであり、
そのころのオーディオ界を牽引していたところもあった。
だから、それだけインパクトは強かった、はずだ。
はずだ、などと、他人事みたいに書いてしまうのは、
そのときからずっと4343やLNP2、それにこのブログで登場してくるオーディオ機器が、
ずっと私の心になかにあり、憧れを抱いていたわけではない。
LNP2にしても4343にしても、ひどく色あせて、その音が聴こえて、そのモノまで色あせてしまったときがある。
20代後半のときが、そうだった。
いちど色あせてしまったモノには、ふりむくことはない、と思っていたし、
それからはたしかにそうだった。
それが変化してきたのは、このブログを書き始めてから、である。
LNP2も4343も、いまのオーディオ機器の水準に照らしあわせると、性能的にも古いところがある。
音にしても、現代のオーディオ機器と一対一の比較試聴をしたら、けっしていい印章は残らないかもしれない。
そんなことはわかっているのに、4343、LNP2、それに他にもいくつかのオーディオ機器の存在が、
あのとき以上に大きくなりつつあるのを感じている。
それをノスタルジーというんだよ、と一刀両断に切り捨てる人には、
私が、4343、LNP2などに対する想いは理解できない、といえる。
そういう人を批判するわけではないし、それはそれでいいと思っている。
ただ、なぜ、いまこうなっていっているのか……、そこについての答えを見つけたいだけである。
今朝、このブログで紹介した水上比沙之氏の「音に生き、音に死んだ男の伝説 岩崎千明考」を読んで、
というか、私の場合、入力していてだが、「意識」という表現に出合えた。
そういうことだったのかもしれない、と、そこで思った。