妄想組合せの楽しみ(その42)
パラゴンでグラシェラ・スサーナを聴く──、
そんなことを思うようになったのは、1977年の秋ごろからだった。
ステレオサウンドからそのころ出版された「HIGH-TECHNIC SERIES-1」に載っていた
瀬川先生の文章を読んだ時からだった。
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EMTのプレーヤー、マーク・レビンソンとSAEのアンプ、それにパラゴンという組合せで音楽を楽しんでいる知人がある。この人はクラシックを聴かない。歌謡曲とポップスが大半を占める。
はじめのころ、クラシックをかけてみるとこの装置はとてもひどいバランスで鳴った。むろんポップスでもかなりくせの強い音がした。しかし彼はここ二年あまりのあいだ、あの重いパラゴンを数ミリ刻みで前後に動かし、仰角を調整し、トゥイーターのレベルコントロールをまるでこわれものを扱うようなデリケートさで調整し、スピーカーコードを変え、アンプやプレーヤーをこまかく調整しこみ……ともかくありとあらゆる最新のコントロールを加えて、いまや、最新のDGG(ドイツ・グラモフォン)のクラシックさえも、絶妙の響きで鳴らしてわたくしを驚かせた。この調整のあいだじゅう、彼の使ったテストレコードは、ポップスと歌謡曲だけだ。小椋佳が、グラシェラ・スサーナが、山口百恵が松尾和子が、越路吹雪が、いかに情感をこめて唱うか、バックの伴奏との音の溶け合いや遠近差や立体感が、いかに自然に響くかを、あきれるほどの根気で聴き分け、調整し、それらのレコードから人の心を打つような音楽を抽き出すと共に、その状態のままで突然クラシックのレコードをかけても少しもおかしくないどころか、思わず聴き惚れるほどの美しいバランスで鳴るのだ。
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14歳の私は、単純にも「グラシェラ・スサーナ」の名前が出てきたこと、
そして「いかに情感をこめて唱うか」、これだけでいつかはパラゴンで……と思いはじめていた。
そのことをずっといままで思いつづけてきたわけではない。
忘れていたころもあった。ときどき思い出すこともあった。
その間に、パラゴンというスピーカーシステムに関心を失ってしまったこともある。
揺れ動きながら、いまはここに書いてきたことを思っている、ということだ。
揺れは、いまもある。揺れのない感性というものはあるのだろうか。
そう思うし、そういう揺れのある感性の充足も、オーディオのひとつの目的だと思う。
自分の求めてる音、表現したい音は、こうだ、とひとつに決めつけることは、正直どうかな、と思う。
揺れながら、いつかはそれを収束させていけばいいことであり、
こうやってあれこれ組合せを思い描いていくのも、
私にとっては揺れを楽しみながら収束させていく過程なのかしもしれない。