カセットテープとラジカセ、その音と聴き方(余談・その24)
ラジカセで聴きたいなんて、まったく思わない──、
そういうオーディオマニアもいるだろう。
それはそれでいい。
他人の私があれこれいうことではない。
それでも、古くからのステレオサウンドの読者ならば、
47号掲載の黒田先生の「ぼくのベストバイ これまでとはひとあじちがう濃密なきき方ができる」を、
もう一度読みなおしてほしい。
黒田先生は、ここでテクニクスのコンサイス・コンポについて書かれている。
キャスターのついた白い台に、コンサイス・コンポだけでなく、
B&Oのアナログプレーヤー、ビクターの小型スピーカー、S-M3をのせてのシステム。
これでレコードをあれこれきいた五時間について書かれていたのを、
当時、高校生の私は読みながら、いいなぁ、こういうシステム、
大人になったら実現したいなぁ、と思っていた。
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いかなる再生装置できく場合でも、誰もが、そのとききくレコードできける音楽の性格にあわせて、音量を調整する。もしブロックフレーテの音楽を、マーラーのシンフォニーをきくような音量できくような人がいたとすれば、その人の音楽的センスは疑われてもやむをえないだろう。音楽が求める音量がかならずある。それを無視して音楽をきくのはむずかしい。
ただ、多くの場合、リスニング・ポジションは、一定だ。ということは、スピーカーからききてまでの距離は、常にかわらないということだ。ブロックフレーテの音楽をきくときも、マーラーのシンフォニーをきくときも、音量はかえるが、リスニング・ポジションは、かえない。すくなくともぼくは、かえないできいている。それはそれでいい。
ところが、キャスターのついた白い台の前ですごした5時間の間、そのときかけるレコードによって、耳からスピーカーまでの距離をさまざまにかえた。もっとも、それは、かえようとしてかえたのではなく、後から気がついたらそれぞれのレコードによって、台を、手前にひきつけたり、むこうにおしやったりしてきいていたのがわかった。むろん、そういうきき方は、普段のきき方と、少なからずちがっている。そのちがいを、言葉にするとすれば、スライドを、スクリーンにうつしてみるのと、ビューアーでみるのとのちがいといえるかもしれない。
それが可能だったことを、ここで重く考えたいと思う。若い世代の方はご存じないことかもしれぬが、ぼくは、子供のころ、ラジオに耳をこすりつけるようにして、きいた経験がある。そんなに近づかないとしても、ともかくラジオで可能な音量にはおのずと限度があったから、たとえば今のように、スピーカーからかなりはなれたところできくというようなことは、当時はしなかった。いや、したくとも、できなかった。そこで、せいいっぱい耳をそばだてて、その上に、耳を、ラジオの、ごく小さなスピーカーに近づけて、きいた。
当然、中波だったし、ラジオの性能とてしれたものだったから、いかに耳をすまそうと、ろくでもない音しかきけなかった。にもかかわらず、そこには、というのはラジオとききての間にはということだが、いとも緊密な関係があった──と、思う。そのためにきき方がぎごちなくなるというマイナス面もなきにしもあらずだったが、あの緊密な関係は、それなりに今もあるとしても、性格的に変質したといえなくもない。リスニング・ポジションを一定にして、音量をかえながら、レコードをきく──というのが、今の、一般的なきき方だとすれば、あのラジオのきき方は、もう少しちがっていた。
そういう、昔のラジオをきいていたときの、ラジオとききてとの間にあった緊密な関係を、キャスターのついた白い台の上にのった再生装置一式のきかせる音は、思いださせた。それは、気持の上で、レコードをきいているというより、本を読んでいるときのものに近かった。
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《ブロックフレーテの音楽をきくときも、マーラーのシンフォニーをきくときも、音量はかえるが、リスニング・ポジションは、かえない。》
確かにそうである。
しかもきちんとしたオーディオで聴く場合には、
そのオーディオが置かれている部屋(リスニングルーム)に行く必要もともなう。
ラジオ、ラジカセはそうではない。
簡単に持ち運びできるモノだ。
47号の黒田先生の文章を読んで、そのことに気づかされたし、
いまこうやってラジカセについて書いていると、やはり、そのことがすぐに浮んでくる。