オーディオ機器を選ぶということ(購入後という視点・その13)
「てばなす」を私は「手離す」と書いてきている。
てばなすは、手放すであって、手離すは、私が勝手にそうしているだけである。
けれど、心情的に手放すではなく、どうしても手離すとしたいから、そうしている。
止むを得ぬ事情で、私のもとから離れていってしまったオーディオ機器、それにレコード、
それらは、私にとっては手放すではなく、手離すなのだ。
購入後には、この「てばなす」ことがある。
何ひとつてばなさずにいられる人もいる。
そうでない人もいる。
同じ「てばなす」にしても、手離すではない人もいよう。
新しいオーディオ機器を買う、
そのための購入資金の一部にするために、これまで使っていたモノを売る。
これもてばなすことだが、手放すの場合が多いのではないか。
手離すは、どこかに未練が残っている。
手放すには、未練はない。
手放すくらいのほうがいいのだろう。
それでも手離すとしたくなることが、私にはあった。
そういう私にとって、ステレオサウンドがつまらなくなったと感じるのは、
実はその点において、でもある。
五味先生の「オーディオと人生」に、こうある。
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終戦後、復員してみると、我が家の附近は焼野ヵ原で、蔵書もレコードも、ご自慢のウェスターンも、すべて灰燼に帰していた。本がなくなっているというのは、文学を捨てろということではないのか、なんとなく、そんな気持になった。自分が大切にしたものを失ったとき、再びそれを見たくないと思うのが人間の自然な感情だろう。私は再びそれを取り戻そうとは思わなかった。それどころかもう二度と見たくない、という感じになっていた。音楽に対しても同じで、二十一年に復員してから、二十六年の暮まで私は音楽的なものに全く関心を向けなかった。
小林秀雄氏が、当時来日したメニューヒンの演奏に感激して、朝日新聞に一文をしたためられたことがある。これを読んで、なんと阿呆なことを言われるのだろうと思った。メニューヒンが、それほどいいとは、私には考えられなかった。また、諏訪根自子のヴァイオリンに接して感激したという文化人の記事なども、新聞で見かけたが聴いてみたいとも思わなかった。
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五味先生は手離されていた。