オーディオと「ネットワーク」(モニター機の評価・その12)
いくつかのオーディオ雑誌で、本業を他にもっている人がオーディオ機器の試聴をやっている。
この人たちは、自身のことをオーディオ評論家と思っているのか、そうでないのか。
オーディオライターという認識なのか、そのへんはどうなのだろうか。
耳がいい人、ある程度の文章が書ける人ならば、
そういう仕事をやれる。
別項『「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(わかりやすさの弊害)』で、
書き始めたこと、書こうとしていることと関係してくるのだが、
耳がよくて、そのディスクのある部分がどういうふうに鳴ったのかを文章にできても、
それが優れた試聴記なわけではないし、オーディオ評論ともいえない。
けれど、実際にはそういう試聴記が増えている、というか、主流になっているように、
昔からのオーディオ評論、試聴記を読んできた私は、そう感じている。
そんなふうに感じると同時に、インターネットの普及で、
それならば、オレにだってできる、と思う人が、
自ら発信するようになってきたことと連動しているようにも感じている。
以前はウェブサイトを作るのも、多少面倒だった。
サイトを作っても日々更新していくのも、面倒といえば面倒なところがあった。
それをブログはほとんど解消してくれる。
私がこうやって毎日更新していけるのも、ブログだから、というところは大きい。
基本、文章を書くだけでいいのだから、楽である。
だからこそ多くの人が発信するようになってきたのだろう。
そこに、オレにだってできる、が加わっているのが、現状のような気もする。
聴いて書く。
そこに、聴くことの難しさ、書くことの難しさがあるのだろうか。
さらには聴くための難しさ、書くための難しさはあるのだろうか。