Parsifal(その1)
ワーグナーのパルジファル。
本音をいうと、クナッパーツブッシュ(フィリップス盤)と、
カラヤン(ドイツグラモフォン盤)の二組があれば、私は充分である。
実をいうと、最初から最後までパルジファルを聴いたのは、この二組だけである。
他にもパルジファルのディスクは、いくつも出ている。
そのうちのいくつかは聴いている。
部分的に聴いているだけであり、最初から最後まで聴きたいと思わなかったから、
買うにはいたっていない。
聴いていないパルジファルのディスクの中に、
そこにはこれから発売されるパルジファルのディスクも含まれるわけだが、
いま20代くらいの若造だったら、新しい録音のパルジファルを聴いてやろう、と思うかもしれない。
でも、現実には50を過ぎている。
かといって、クナッパーツブッシュの演奏の中で、
最高のパルジファルを聴いて見つけ出す気力もない。
去年だったか、クナッパーツブッシュのバイロイトでの全録音(フィリップス盤は除く)が、
CDボックスで発売になった。
手頃な価格だった。
手を伸ばしそうに、少しはなった。
手に入れたとしても、それだけでお腹いっぱいになりそうだし、
結局はほとんど聴かずじまいになることは、わかっていた。
そういう態度(聴き方)で、パルジファルの何がわかるのか。
そう問われれば、答に窮するだろう。
何もわかっていないのかもしれない。
いいわけめくが、だからといって、積極的にパルジファルの録音のあれこれを聴いたところで、
いったい何がわかるのか、とも言葉に出して反論しなくとも、そうおもう。
むしろそういったことよりも、ショーペンハウアーを読むことのほうが、
パルジファルの理解には近いようにも感じている。