数字からの解放(その6)
別項を書くためにステレオサウンド 131号を、ここ数日手元に置いている。
パラパラとめくって、目に留った記事を読む。
勝見洋一氏の「硝子の視た音」を読んでいた。
*
こんなことで気分のすぐれない日々を送っていたら、フランスの美術館から写真の束が送られてきた。
以前、私の本業である美術品の鑑定を受けた美術館からなので、興味深く写真を見つめてびっくりした。
ほとんどが偽物である。
写真を見ただけではっきりと判るくらいなのだから、よほど性質の悪いものなのだ。
てっきり偽物美術展を冗談まじりでやるのかと思ったら、大まじめ、近ごろの鑑定人たちも質が落ちたものだ。
写真と一緒に分厚い資料があった。中を見るとコンピューターを使った鑑定方法ばかりの結果だった。なるほど、原因はこれである。
昔ならばその道の権威が自分のプライドをかけて良いといえばそれで済んでしまったことである。もし間違えれば世間で笑いもの。美術館の展覧会の鑑定を引き受けるということは真剣勝負そのものだった。
ではなぜコンピューターによる鑑定が基本的な間違いを起こすのだろうか。これは単純な話である。
コンピューターに入れたデータの上をいく偽物が増えてきたのだ。
しかしコンピューターをだますために作られているのだから、経験のある人間の眼をだますためには作られていない。ひどくめちゃくちゃな偽物が、コンピューターの結果で本物になってしまう。まあそれ以上に、見る目がなくなった若い鑑定人たちが増え過ぎたということが原因なのだが、と言って溜飲を下げるのである。
*
131号は1999年の夏号だ。
18年ほど前に出ている。
ここまでインターネットは普及していなかった。
個人のウェブサイトも数はそう多くはなかった。
SNSもなかった時代だ。
そのころ読んだ感想と、いま読んだ感想とでは、その点が違っている。
131号が出て以降、インターネットは急速に普及して、
さまざまな面をディスプレイを通して伝えてくる。
勝見洋一氏の文章は、そのままオーディオにいえることだ。
このことを強く感じている。
当時でも、測定結果・数値のみに拘泥する人たちはいた。
でも、それほどとは思っていなかったが、
インターネットの普及は、意外にもそういう人たちが少なくないことを伝えている。