Archive for 5月, 2021

Date: 5月 4th, 2021
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(韓国、中国は……・その13)

facebookにはChi-Fiのグループがある。
ひとつだけではない。

AliExpressをみれば、Chi-Fiのラインナップの多さはけっこうものだ。
一人ですべてを追って行くのはかなり大変で、情報交換の場を求めてなのだろう。
facebookにChi-Fiのグループができて当然だと思う。

そろそろ日本のオーディオ雑誌も、Chi-Fiを無視できなくなってきているのではないだろうか。
記事でまとめて取り上げるところも出てきても不思議ではない。

ステレオサウンドは、まずやらない。
オーディオアクセサリーも、やらないと思っている。
なぜかといえば、広告に結びつかない(つきにくい)からだ。

やるとすればステレオかな。
いまのステレオ編集部なら、Chi-Fiオーディオをまじめに取り上げるだろう。

中国のオーディオ(Hi-Fi)がChi-Fiなら、
韓国はK-Fiとなるかといえば、ならないだろう。

Chi-Fiは、Hi-Fiをもじっている。
国名の頭文字をとっただけではなく、「i」があってこそだ。

韓国(Korea)、日本(Japan)にもiはない。
K-Pop、J-Popのように、K-Fi、J-Fiとはいわない。

Chi-Fiがあるのだから、Tai-Fi(Taiwan Hi-Fi)も登場してくるのだろうか。

Date: 5月 3rd, 2021
Cate: オーディオの「美」

音の悪食(その10)

長島先生はジェンセンのG610Bをはじめて鳴らした時の音を「怪鳥の叫び」みたいだ、
とステレオサウンド 61号で語られている。

そういう音が出たから、といって、
角を矯めて牛を殺す的な鳴らし方を、長島先生はやられてきたわけではなかった。

38号では、
「たとえばスピーカーでいえば、ムチをふるい蹴とばしながらつかっているわけですから」
ともいわれている。
つまり、スピーカーとの格闘であり、
スピーカーの調整というよりも、スピーカーの調教といったほうがぴったりくる。

悪食とは、大辞林には、こうある。
 ①普通,人が口にしない物を食べること。いかものぐい。「好んで—する」
 ②粗末な食事。粗食。
 ③仏教で,禁じられた獣肉を食べること。

長島先生にとって、鳴らしはじめのころG610Bの音、
そのひどい音は、①なのか、②なのか。

粗末な音ではない。
けれどひどい音だったのだから、②に近いともいえる。

怪鳥の叫びみたいな音は、人が聴きたくない音でもあるのだから、①的でもある。
もちろん長島先生は好んで怪鳥の叫びを聴かれていたわけではない。

①、②、どちらの音であっても、耐えながら聴くことは、音の悪食であろう。
いい音になってくれるまでしんぼうして聴く。

しんぼうできない人は、とりあえず聴きやすい音に安易にもっていく。
音の悪食を嫌う鳴らし方をする。

音の悪食なんて、できればしたくない、といえばそうなのだが、
かといって絶対避けたい、とも思っていない。

オーディオに関していえば、無駄になることなどないからだ。
①、②の意味での音の悪食は経験しておくほうがいい。

では③の音の悪食とは──、と考える。
禁じられた音を聴くこと、そういう意味での音の悪食とは、どういうことがあるのか。

Date: 5月 3rd, 2021
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(韓国、中国は……・その12)

Chi-Fi。
Chinese Hi-Fiの略である。

Chi-Fi Audio、Chi-Fi Amp、Chi-Fi DACといった使われ方がされている。
いつごろ出来たのか。
私が知ったのは、ついさきほどだった。

Chi-Fiは、英語圏で使われている。
AliExpessのお客様のレビューを見ればわかるが、
世界各国の人が購入している。

オーディオマニアであれば、どこの国の人であろうと、
AliExpressのオーディオは面白いはずだ。

おもしろいといえば、AliExpressと同じ中国の通販のwishは、
オーディオに関しては、つまらない。

オーディオに関しては、それも自作に関することであれば、
いまのところAliExpressが上である。

Chi-Fi、あまり語感がいいとは思っていない。
それでも、このChi-Fiは、High end Audioの対義語なのかもしれない、とも思っている。

Date: 5月 3rd, 2021
Cate: ディスク/ブック

Piazzolla 100 (Piazzolla, Schubert, Schittke)

キャサリン・フンカ(Katherine Hunka)のピアソラを聴いた。
キャサリン・フンカ、今日初めて知った。

Googleで“Katherine Hunka”で検索すると、
「もしかして:Katherine 噴火」と表示されたりする。

ロンドン生れのヴァイオリニスト/指揮者であることぐらいしか、結局わからなかった。

Piazzolla, Schubert, Schittke”は、
日本では「ピアソラ:ブエノスアイレスの四季」とつけられている。

一年前に発売になったCDであるけれど、
今日、TIDALであれこれ検索して出逢うまで、まったく気づかなかった。

“Piazzolla, Schubert, Schittke”も、
ピアソラ生誕百年ということで企画されたアルバムなのかもしれない。

TIDALで、Piazzollaで検索すると、けっこうな数のアルバムが表示される。
すべてを聴いているわけではないし、聴きたいと思ってもいない。
でも、まあまあ聴くようにはしている。

初めて知る演奏家によるピアソラを、けっこう聴いている。
彼・彼女らが弾いているのは、確かにピアソラの曲なのだが、
聴いて、ピアソラだ、ピアソラの音楽が! とすべてに対して感じているかというと、
むしろ少ない。

誰とは書かないが、けっこう名の知られている演奏家であっても、
しかもレコード会社が推していても、聴いて、これがピアソラ? と感じることのほうが、
残念ながら多い。

別項「正しいもの」で、吉田秀和氏の「ベートーヴェンの音って?」について触れた。
まったく同じことを、ピアソラに関して感じる。

「ピアソラの音って?」ということだ。

Date: 5月 2nd, 2021
Cate: Noise Control/Noise Design

CR方法(その20)

別項「BOSE 901と真空管OTLアンプ(その5)」で、
901にCR方法をやるのであれば、
九本のスピーカーユニットひとつひとつにやる、と書いた。

901の場合、九本のスピーカーユニットだから、
九つのコイルが直列接続されているわけだ。

複数のコイルの場合、どうするのか。
トランスも複数の巻線があったりする。

ライントランスであれば、一次側、二次側ともに巻線が二つあり、
インピーダンスに合せて巻線の接続を直列にしたり並列にしたりする。

二つの巻線を直列接続にした場合、
CR方法は直列接続した状態のコイル、
つまり一つのコイルとみなして、その直流抵抗を測って、コンデンサー、抵抗の値を決める。

並列接続の場合は、というと、それぞれの巻線(分割された巻線)の直流抵抗を測る。
直列接続とは違い、独立したコイルと見做して、それぞれにコンデンサーと抵抗を用意する。

直列接続の場合には、コンデンサーと抵抗は一本ずつになるが、
並列接続の場合には、二本ずつになる。

並列接続した直流抵抗を測って、という手もある。
そうすればコンデンサーと抵抗は一本ずつですむし、手間も少しだが省ける。

けれど私が試した範囲(といっても一回だけ)では、
並列接続の場合は独立した巻線として扱った(考えた)ほうがいい。

なのに901の場合は、スピーカーユニットが直列なのに、
九本のスピーカーユニットが直列接続された状態の直流抵抗を測って、
九本のユニットに対して、コンデンサーと抵抗、一本ずつでいいのではないか。

たしかにコイルの接続だけをみれば、そういえる。
けれどトランスと901のようなスピーカーとでは、動作が違う。

トランスの巻線は直列接続された状態でひとつの巻線として動作している。
901の場合は、それぞれのスピーカーユニットは、あくまでもそれぞれのユニットである。

となるとスピーカーユニット一本ごとにCR方法をやっていくことになるはずだ。

Date: 5月 1st, 2021
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その71)

別項で、骨格のある音、骨格のしっかりした音について書いている。
書きながら、音の骨格を意識するようになったのは、いつごろからだろうか──。

あのころからかな、とか、いや、もっと遡ってのあの時かも、
いやいや、結局は、「五味オーディオ教室」を読んだ時からなのでは──、
そんなふうに、はっきりとなんともいえない。

それでもいえるのは、ここでのテーマである朦朧体を意識するようになってからは、
特に骨格のある音を強く意識するようになったことだけは、はっきりしている。

ここでのタイトルは、「ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと」だから、
ボンジョルノがつくってきたアンプ、
ジャーマン・フィジックスのスピーカーのことがメインテーマのように思われかもしれないが、
もちろんこれらもテーマではあっても、メインテーマは朦朧体である。

輪郭線に頼らない音像の描写。
そこに肉体の復活を感じられるかどうかは、その骨格にあると感じているからだ。