第88回audio wednesdayのお知らせ
昨晩のaudio wednesdayは、アンプにトラブルが発生して音を出せなかった。
ネットワークの試みは、今回もできなかった。
5月は2日(水曜日)で、音出しの予定である。
スピーカーのホーン周辺が少し変化している予定である。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時開始です。
昨晩のaudio wednesdayは、アンプにトラブルが発生して音を出せなかった。
ネットワークの試みは、今回もできなかった。
5月は2日(水曜日)で、音出しの予定である。
スピーカーのホーン周辺が少し変化している予定である。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時開始です。
とんかつは、洋食屋、とんかつ屋、どちらにも共通するメニューである。
洋食屋ととんかつ屋は、どう違うのか。
箸で食すのがとんかつ屋で、ナイフとフォーク、スプーンで、なのが洋食屋という人もいるが、
とんかつ好きの私としては、
とんかつを自分で切って食すのが洋食屋であり、
調理人が包丁で切って客に出すのがとんかつ屋である。
洋食屋のとんかつは、自分で切るのだから、
SNSがこれほど一般的に普及しても変化はないが、
とんかつ屋の場合はそうではない。
インスタ映えという言葉が、SNSとともに広がってきた。
Instagram(インスタグラム)で公開する写真が映えるように、というのが、インスタ映えだ。
とんかつ屋のとんかつは切って出されるが、昔は切って出されるだけだった。
ところがインスタ映えのために、客の中にはとんかつの一切れを90度回転させ、
切った断面を上にして写真を撮る人があらわれてきた。
その影響からなのか、
とんかつ屋側で、最近では一切れ、断面を上に向けて客に出すところがあらわれてきた。
インスタ映えのために、そのことを考えている客にとっては、
そちらのほうが一手間が省けて、すぐに写真がとれる。
客への配慮ともいえるし、
うちはこれだけの良い肉を使っている、揚げ方も自信がある、
そんなことを客に暗に示すためなのかもしれないが、
昭和の洋食屋、昭和のとんかつ屋が好きな私は、
店側はそんなことをしなくてもいいのに……、と思う。
藤崎圭一郎氏の話は、解像度と変異体ということで、
変化朝顔の写真から始まった。
変化朝顔については説明しない。
Googleで検索してみればわかることだから。
そのあとスクリーンに映し出されたのは、機動戦士ガンダムだった。
ガンダムについても説明しない。
そこでガンダムシリーズに登場するモビルスーツのいくつかが大映しされる。
ガンダムはこれまではいったい何作つくられてきたのか、
すべてを見るほどのガンダムのファンでないため知らないが、
いくつかは見ているし、けっこうハマったシリーズもある。
そのひとつが機動戦士ガンダムSEEDと機動戦士ガンダムSEED DESTINYである。
そのSEEDシリーズに登場しているモビルスーツが、スクリーンに映された。
解像度と変異体にぴったりの例であるからこそなのだが、
藤崎圭一郎氏は、SEEDシリーズを見られていたのか、と勝手に思っていた。
変化朝顔につづいてのガンダム。
首をかしげたくなる人もいたかもしれないが、
藤崎圭一郎氏と同世代(ともに1963年生れ)の私は、共感がもてるつながりである。
解像度と変異体の話をききながら、
私が思っていたのは、石森章太郎のマンガと、日本のオーディオ(製品)のことだった。
ステレオ時代というオーディオ雑誌がある。
1970年代、1980年代にオーディオに夢中になっていた世代をターゲットにしている、といえる。
だから、私もターゲットのひとりなのだが、
私は、ステレオ時代を面白いとは思っていなかったし、
記事の内容についても、なにかいいたくなることのほうが多い。
もう書店でみかけても手にとることもなくなっていた。
でも今日は違った。
いま書店に並んでいるステレオ時代 vol.11の表紙に「ありがとう中島平太郎先生」とあったからだ。
雑誌も人も、すべてが変っていく──、
そのことはわかっていても、
どうもそれはネガティヴな方向へ変っていくことが多過ぎるためか、
なかなかポジティヴな方向へ変っていくとは思いにくい──、
そうおもっているのは私だけなのか。
「ありがとう中島平太郎先生」という記事のタイトルは、ストレートすぎるな、と感じる。
でも、妙に凝りすぎたタイトルよりは、好感がもてる。
他のオーディオ雑誌は、どこもやらなかった。
ステレオ時代だけが「ありがとう中島平太郎先生」をやった。
広告にはまったく結びつかない内容の記事をつくっている。
「ありがとう中島平太郎先生」で、私はステレオ時代への認識を少し改めた。
“Hotel California”だけではない、と(その4)で書いた。
ここでは“Hotel California”だけだ、と書く。
“Children of Sanchez”、「孤独のスケッチ」、「火の鳥」、
その他にも“THE DIALOGUE”、“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”もそうだ。
“THE DIALOGUE”は4343、さらには4350Aで聴いた音が、
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、
ステレオサウンドの試聴室でアクースタットのModel 3で聴いた音が、
リファレンス(基準)として残るほどに、印象深い音を聴かせてくれた。
そしてこれらのディスクは、LPやCD、SACDで買って聴いている。
けれど“Hotel California”だけは、LPもCDになってからも買うことはなかった。
ここに挙げたディスクのなかでは、“Hotel California”が圧倒的に売れているし、
音楽好きの人ならば、どんなジャンルの音楽を好きであっても、
“Hotel California”は聴いたことがあるだろうし、知られているということでは、
他のディスクの比ではない。
売れているから買わなかった──、
そんな理由ではない。
なぜ買わなかったのか、いまでは憶えていない。
買わなかったから、自分の音で聴いていない。
そうなると、あの時聴いた音(リファレンスとなる音)のイメージが、
他のディスクのように確固たるものではなくなっている。
最初に出たCDの音は、いま手に入るリマスター盤の音とはずいぶん違うようだ。
まずレベルが違う、らしい。
喫茶茶会記が入っているビルは、あまり断熱性が高くないようだ。
寒い時期は、エアコンとガスファンヒーターを使うこともある。
暑い時期になればエアコンはかかせない。
無音のエアコンがあればいいのだが、そんなものはないわけで、
曲によってエアコンを一時的に止めることもある。
けれど冬だとみるみる温度は下がっていくことがある。
もう少し長い時間、エアコンを止めていられれば……、と何度思ったことか。
4月になった。
ここ数日暖かい。
第一水曜日の4日も、かなり暖かいようだ。
ようやく暖房を使わずに音を出せる時期になった。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時開始です。
学生だとそうそう外食はできなかったが、
働くようになると外食の機会は圧倒的に増える。
積極的に外食をするようになった1980年代。
東京の飲食店で行列が出来ていたのは、荻窪のラーメン店ぐらいしか思い浮ばない。
オフィス街のランチタイムでは行列ができるところもあったけれど、
行列といってもそんなに大勢が待っていたわけではない。
けっこう待つな、と感じるくらいの行列は、
やはり荻窪のラーメン店ぐらいだった。
ところがいまはどうだろう。
いたるところに行列ができている。
しかも、その行列が長い。
この30年のあいだに驚く変化である。
誰だって美味しいものを食べたい。
それはいまも昔も変らないはずだ。
なのに、いま東京ではいたるところに行列ができている。
ステレオサウンドにいたときは、隣のサウンドボーイ編集部のOさんに、
都内の美味しい店を教えてもらった。
ステレオサウンドの原稿用紙の裏に、モンブランの万年筆で地図を描いてくれた。
けっこうな枚数になっていた。
描きながらOさんは、簡単に人に教えるんじゃないぞ、とクギを刺す。
美味しいと評判になり、どっと人が押し寄せるようになると、
ほとんどが堕落してしまうからだ、と。
同じことは瀬川先生も書かれている。
*
ここ数ヵ月、我家を訪ねる客のあいだで、私の家のごく小さなレストランの、ウインナー・シュニッツェルが評判になっている。散歩の途中で何気なく発見したのだが、そう、ちょうどLP一枚ぶんぐらいの皿を思い浮かべて頂く。この皿いっぱいに、ときにはハミ出るほどに、大型の、仔牛の薄切りカツレツが載って出てくるのをみると、連れて行った人の誰もが、ウワァ! と感嘆の声をあげる。あらかじめ、大きいよ、と説明して行ってなお、である。それで価格は七百円。最初にこれが目の前に出てきたとき、何か間違いじゃないかと思った。行くたびに、これで損をしないのだろうか? と心配になるくらいだ。こういうものを出し続けて、そのたびに客をびっくりさせ、しかもびっくりさせるだけではない、食べてみて十分に美味しいことで満足させる。これはもう、明らかに店の側の勝ちだ。電車賃を払ってでも、こいつを食べに来たいよ、と友人たちも言う。これがベストバイの本ものの見本といえるだろう。おおぜいの人たちが押しかけるようになるとこのての店はたいていダメになるから、悪いけれど場所も店の名も教えられない。編集部に電話があっても、編集の諸君、教えちゃダメだぞ!
(ステレオサウンド 51号「’79ベストバイ・コンポーネントを選ぶにあたって」より)
*
伊藤先生も同じことを書かれていた。
だから美味しい店、それも大事したい店は、そう簡単には人には教えないものだった。
少なくとも私はステレオサウンドを読んで、そういうものだと思ったし、
ステレオサウンドで働いているうちに、より強くそう思うようになった。
お気に入りのLP、
いまふうにいえばヘビーローテーションのLPを何度も何度もくり返してきていたら、
ある日、いままで聴こえなかった音が聴こえていることに気がついた。
聴きすぎて音溝がすり切れてきてノイズが発生してきたのだと、最初は思った。
それからノイズはかけるたびに大きく、そしてはっきりとしてきた。
なんとB面の音が聴こえてくるようになってきたのだ。
聴きすぎて、A面の溝が深くなりB面にまで達してしまったのだ。
(20年以上前にどこかで読んだエイプリルフール・ネタ)
岡先生の文章を書き写していて、
ここに関しては、いまはどうなんだろう……、と思うところがある。
《中・低域がのびていると、高域はおとなしくきこえるし、低域が貧弱だと高域が目立つということはだれもが体験しているはずである》
1981年の時点でも、
プリメインアンプ、コントロールアンプからトーンコントロールが省略されつつあった。
いまはそれ以上といっていい。
それにそのころは、スピーカーを自作する人がまだまだいたし、
市販のスピーカーシステムにもレベルコントロールがついているのが多かった。
トーンコントロール、レベルコントロールなどを積極的にいじってきた人ならば、
帯域バランスに起因することは体験しているであろう。
けれどスピーカーシステムからレベルコントロールもなくなってきている。
スピーカーを自作する人も減ってきている。
そうなると帯域バランスの変化による音の違いを、
もう共通体験として語れなくなってきているのかもしれない──、
そんなことを思いながら書き写していた。
デジタル録音のサンプリング周波数を高くしていくことの弊害について、
直接的ではないものの、早い時期から指摘されていたのは岡先生である。
ステレオサウンド 58号(1981年)で、こんなことを書かれている。
*
デジタル・マスターのレコードがふえるにしたがって、アナログ録音にくらべてものをいうひとがふえてきた。いちばんよくきかれる声は、高域の帯域制限によって生ずる情報量のすくなさ、ということを指摘する声である。音楽再生における情報量の大小をいう場合、その物理量をとっきり測定した、という例はほとんどなく、大体が聴感でこうかわったという表現を情報量という言葉におきかえられている。線材やパーツをかえると音がかわるということがさかんにいわれていたことがあったとき、この問題を好んで論ずるひとの合言葉みたいに情報量がつかわれていた。つまり、帯域の広さと情報量の多さが相関をもち、それがよりハイ・フィデリティであるという表現である。
しかし、はたして実際にそのとおりかということになると、客観的データはすこぶるあいまいである。むしろ、録音・再生系の帯域を可聴帯域外までひろげることによって生ずる、超高域の近接IMがビートとなって可聴帯域の音にかかわりあうとか、TIMによる信号の欠落、あるいは非直線性の変調歪などが、聴感上情報量がふえるような感覚できこえるのではないかと考えたくなる。
一昨年、ビクターの音響研究所がおもしろいデータを発表したことがある。プログラムをさまざまな帯域制限を行ったソースを用いて、数多くのブラインドのヒアリング・テストをした場合では、信号系の上限が15kHz以上の変化はほとんど検知されなかったという。音楽再生でハイ・エンドがよくきこえたとか欠落したとかをいう場合、むしろ帯域バランスに起因することが多い。中・低域がのびていると、高域はおとなしくきこえるし、低域が貧弱だと高域が目立つということはだれもが体験しているはずである。性能のよいグラフィック・イコライザーをつかって実験してみると、部分的なバランスを2dBぐらいかえてもがらっと音のイメージがかわることがある。デジタル・システムはアナログ(テープ)にくらべて、低域の利得とリニアリティが断然よく、かつ変調歪によって生ずる高域のキャラクターがより自然であるという点で、聴感上、ハイ・エンドがおとなしくなる、といったことになるのではないかと考えられる。高域の利得が目立っておちていると思えないことは、シンバル、トライアングルなとばの高音打楽器が、アナログより解像力がよく、しかも自然にきこえる例でも明らかである。
*
CD登場の約一年前に書かれたことだから、
デジタル録音もアナログディスクで再生してのことである。
岡先生もハイサンプリング、ハイビットのデジタル録音・再生の音を、
それもうまくいっているものを聴かれれば、否定されることはないし、
歓迎されるであろう。
それでも安易なハイサンプリング化には、ひとことあったような気がする。
ハイビット、ハイサンプリングは可聴帯域内の音の解像度を向上させることであって、
可聴帯域外の高域再生において、弊害も生じる可能性が高いと心していた方がいい。
ダストカバーはダストカバーとしてのみ機能しているわけではない。
ハウリングマージンとの関係がある。
ダストカバーを閉じている状態、開いている状態、取り外した状態で、
ハウリングマージンは変化してくる。
1976年に無線と実験別冊として出た「プレーヤー・システムとその活きた使い方」に、
ハウリングの実測データが載っている。
八機種のアナログプレーヤーにおけるダストカバーの状態での測定、
九種類のターンテーブルシートの違いの測定、
置き台、インシュレーター、プレーヤーキャビネットによる違いの測定が載っている。
ダストカバーの状態(開いている、閉じている、取り外している)での違いは、
一概にどの状態がいい結果が得られるとはいえない。
ダストカバーが開いていると、前面からみた面積が閉じている状態よりも大きくなるし、
ダストカバーはヒンジでのみ支えられているため、いわゆる片持ち状態である。
きちんと閉じていれば片持ちは解消されるし、
スピーカーからの直接の音圧を、ある程度はダストカバーが防いでくれる。
大きくみれば、ダストカバーを閉じていたほうがハウリングマージンは改善できる。
それでもこまかく測定データを見ればわかるように、全帯域で改善されるわけではない。
アナログプレーヤーのキャビネットの構造、重量などによって、
部分的な変化には違いが生じている。
ハウリングマージンだけでみればダストカバーは閉じていた方がいいが、
音の面では必ずしもそうとはいえないところもある。
マガジンハウスの雑誌のHanakoのウェブサイトで、喫茶茶会記が取り上げられている。
そこでも、ジャズ喫茶として紹介されている。