Archive for category テーマ

Date: 12月 30th, 2022
Cate: 「スピーカー」論

「スピーカー」論(ピストニックモーションにまつわる幻想・その5)

なぜ、アルテックのリボン状のリード線は断線しやすいのか。
おそらく、その理由は(その3)に書いていることと深く関係してはずだ。

604-8Gのダイアフラムも、タンジェンシャルエッジである。
タンジェンシャルエッジはダイアフラムの前後運動にともない、
右に左に(時計回り、反時計回りに)回転運動を起こしている。

エッジの形状からして、このことは推測できるし、
実際に測定もされている。

回転運動といっても、それはわずかな角度だ。
とはいえ、リボン状のリード線にとっては、
ダイアフラムのピストニックモーションのたびに右に左に捻られているわけだ。
これでは使っているうちに、いつかは断線してしまう。

Date: 12月 30th, 2022
Cate: 「スピーカー」論

「スピーカー」論(ピストニックモーションにまつわる幻想・その4)

古いアルテックのコンプレッションドライバーを持っている人は、
当時のアルテックのダイアフラムのリード線が断線しやすいことを知っている(体験している)。

あのリボン状のリード線は、見るからに断線しやすい形状だ。
実をいうと、私が持っている604-8Gのダイアフラムもこのタイプで、
片側+と−で二箇所、両チャンネルで四箇所、きっちりと断線している。

ダイアフラムを交換すれば済むことなのだが、
アルテックは実質的に存在しない。
いわゆる純正のダイアフラムは入手困難だし、
出てきたとしてもけっこうな値段がついている。

どうしてもオリジナルでなければならない、という強いこだわりを持っている人ならば、
かなり高額でもオリジナルのダイアフラムを買うことだろう。

でも、そうやってオリジナルのダイアフラムを買ったとしよう。
私の場合は、リボン状のリード線のダイアフラムとなる。
当然、断線しやすいのはそのままだ。

私は、オリジナルにこだわる気持とこだわらない気持との両方を持つ。
604-8Gの場合、オリジナルのダイアフラムをさがそうとはまったく考えていない。

そんな私が第一候補としているのが、アメリカのRADIANのダイアフラムである。
日本では、コージースタジオが輸入元になっている。

RADIANのダイアフラムをアルテックに取りつけると、
アルテックの良さが失われる、という意見が日本にはある。
何をアルテックの良さと捉えているかによって、このあたりの評価はわかれる。

Date: 12月 30th, 2022
Cate: 1年の終りに……, 映画

2022年をふりかえって(その16)

今年劇場で観た映画は三十本弱。
20代のころは百数十本観ていたのだから、ずいぶん減っている。

もっと劇場で映画を、と思いながらも、
NetflixやPrime Videoをけっこうみているから、
つい、もう少し待てば──、そんなことを思ってしまう。

三十本弱という、多くない映画のなかで、
今年いちばん印象に残っているのは、「ミセス・パリス、パリへ行く」だ。

東京では、TOHOシネマズシャンテで、まだ上映している。
もう一度観たい、と思っているところ。

Date: 12月 27th, 2022
Cate: 1年の終りに……

2022年をふりかえって(その15)

今年は、オーディオ機器がやって来た一年ともいえる。

春にヤフオク!でGASのTHAEDRAを手に入れた。
今年は、ここから始まったといえる。

いくつかはここでも書いたが、書いていないモノもいくつかある。
ひさしぶりに真空管アンプもやって来た。
三十数年ぶりか。

そして終のスピーカーもやって来た。
終のスピーカーといっしょにやって来たモノがいくつかある。

CDトランスポート、コントロールアンプ、パワーアンプ、
それにグラフィックイコライザーとデヴァイダーである。

すべてを使う予定はないので、コントロールアンプとグラフィックイコライザーは、
友人のところに、残りは私のところに、となった。

ここに書いていない、けっこう大型のモノもある。
これは友人に預ってもらっている。
置く場所もないし、使う予定もない。

とにかく、いろんなオーディオ機器がやって来た。
こんなに多くのオーディオ機器がやって来た年は、初めてである。

そんなふうにして今年は終ってゆくし、
これらをきちんとセッティングすることから来年は始まる。

Date: 12月 26th, 2022
Cate: 1年の終りに……

2022年をふりかえって(その14)

別項で「岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代」を書いている。
そう、いまは、これからはずっと「岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代」が続いている。

その「岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代」に、
私はジャーマン・フィジックスのTroubadour 40で音楽を聴いていく。

そのことを意識した2022年12月だ。

Date: 12月 26th, 2022
Cate: ディスク/ブック

Sibelius: Complete Symphonies, Paavo Järvi | Orchestre de Paris

シベリウスの熱心な聴き手とはいえない。
聴いていないわけではないけれど、
ある一時期、集中してシベリウスばかり聴いていた、ということが私にはない。

そんな私が昨晩は、シベリウスの交響曲を三曲続けて聴いていた。
パーヴォ・ヤルヴィ/パリ管弦楽団によるシベリウスの交響曲全集である。

2018年にSACDで発売になっている。
2012年録音の第一番からはじまって、2016年録音の第四番で終っているから、
最新録音というわけでもない。

シベリウスの熱心な聴き手とはいえない私は、いまごろ聴いて驚いていた。
これもTIDALにあったからだ。
96kHz、24ビットのMQA Studioで聴ける。

音の生々しさとあいまって、シベリウスの交響曲を聴いて昂奮していた。
リンク先には、《パーヴォ・ヤルヴィ渾身の》とある。
そのとおりだと感じていた。

Date: 12月 25th, 2022
Cate: 1年の終りに……

2022年をふりかえって(その13)

オーディオ評論家の領域を超えたところでの仕事、
オーディオ評論家の領域を逸脱してしまった行為。

前者をめざしていたはずなのに、気づいたら後者であった──。
それが朝沼予史宏氏が、Components of the yearの選考委員ではなくなった理由だ。

具体的ないくつかのことは、
菅野先生からではなく、他のオーディオ業界の人らから聞いている。

オーディオ業界にいない私の耳に、そのことは伝わってきたくらいなのだから、
業界の人たちは、もっと具体的なことをもっと多く知っていたであろう。
どんなことなのかもいくつか知っている。
けれど、その具体的なことは書かない。

菅野先生が、あの日「朝沼くんは、やりすぎたんだよ」といわれた。
朝沼予史宏さんを慮ってのことばである。

菅野先生が朝沼予史宏氏を追い出したと思い込んでいる人たちは、
そうは思えないだろうが、慮って、である。

菅野先生はComponents of the yearの選考委員長として、
朝沼予史宏氏を選考委員から外されたのは、
苦渋の決断である。

菅野先生は、こう続けられた。
「朝沼くんならば、きっとやり直せる、はい上がってくるはずだ」と。

そのころの朝沼予史宏氏の行為は、オーディオ評論家の領域を逸脱してしまった行為だ。
オーディオ評論家の領域を超えたところでの仕事ではなかった。

逸脱した行為を続けていては、朝沼予史宏という一人のオーディオ評論家をつぶしてしまうことになる、
朝沼予史宏という才能を殺してしまうことになる。

そんなことになる前に──、なんとかするために──。
菅野先生は選考委員から朝沼予史宏氏を外された。
そのことによる影響の大きさは、菅野先生がいちばんわかっておられたはずだ。

そのことによってしんどい時期があっても、
朝沼予史宏氏ならば、はい上がってくれる、と信じておられた。

時間はかかるだろうが、
腐らずにオーディオ評論という仕事を全うしていけば、
再びComponents of the yearの選考委員になれたのである。

なのに朝沼予史宏氏が、突然逝ってしまわれた。
こんなことになろうとは、菅野先生もまったく予想されていなかった。

だから、あの日の菅野先生は落ち込まれていた。

昨晩、今晩と続けて書いてきたことは、
以前、別項で書いていることのくり返しでもある。

いまも菅野先生が朝沼予史宏氏を追い出した、と信じている人がいる。
だから、また書くことにした。

Date: 12月 24th, 2022
Cate: 1年の終りに……

2022年をふりかえって(その12)

今年は2022年。
2002年12月から二十年が経った。

2002年12月8日の午前中、私は菅野先生のお宅に伺っていた。
ドアのチャイムを押すと、菅野先生がドアを開けてくださったのだが、
その時の菅野先生の顔は、いつも違っていた。

体調を崩されたのか、と最初思ったし、日を改めた方がいいかも──、
そんなことを思いもしたけれど、そんな感じではなかった。
沈痛な面持ちとは、このときの菅野先生の表情をいうのだと、思った。
そういう表情だった。

そして「朝沼くんを知っているか」ときかれた。
朝沼予史宏氏のことだ。
もちろん知っていた。

朝沼予史宏氏はペンネームである。

「沼田さん(本名)は知っています」と答えた。
「そうか……」とぼそりといわれた、と記憶している。

そして「朝沼くんが亡くなったんだよ」と続けられた。

このころ、朝沼予史宏氏は、
Stereo Sound Grand Prixの前のComponents of the yearの選考委員の一人だった。
けれど降ろされていた。

そのこともあって、一部のオーディオマニアは、
菅野先生が朝沼予史宏氏の才能をつぶそうとして、
選考委員から外した──、そんなことをいっている人がいたし、
インターネットの掲示板に匿名で書きこむ人もいた。

そんなことを聞いた人、読んだ人は、どう思ったのか。
それを事実だとおもってしまったのかもしれない。

そんなことは絶対にない。
あの日の、菅野先生の表情を、私ははっきりと思い出せるし、
菅野先生から、この件について聞いてもいるから、そう断言できる。

Date: 12月 23rd, 2022
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド,

オーディオの殿堂(続・感じていること・その3)

《過去を大きな物語として語れる》と
過去を物語として語れると決して同じではない。

大きな物語なのか、物語なのか。
「大きな」がつくかどうかの違いは、小さな違いではない。

Date: 12月 23rd, 2022
Cate: ディスク/ブック

緑の歌(補足)

緑の歌」を読めば、
グレン・グールドの「感覚として、録音は未来で、演奏会の舞台は過去だった」の、
「録音は未来」の意味するところが感じられるはずだ。

Date: 12月 23rd, 2022
Cate: audio wednesday

第五回audio wednesday (next decade)

第五回audio wednesday (next decade)は1月4日ではなく、2月1日。

参加する人は少ないだろうから、詳細はfacebookで。
開始時間、場所等は参加人数によって決める予定。

Date: 12月 23rd, 2022
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド,

オーディオの殿堂(続・感じていること・その2)

その1)で、
《過去を大きな物語として語れる》編集者だけでなく、
《過去を大きな物語として語れる》オーディオ評論家も消滅した。
私は、そう感じている。

そう書いた。
このことは、編集者、オーディオ評論家側だけの問題ではない。

《過去を大きな物語》とした語られたものを、読み手側は求めていない、
そういう読み手が増えたことも関係してのことだ。

Date: 12月 23rd, 2022
Cate: ディスク/ブック

緑の歌

ジャケ買い。
この本「緑の歌」はジャケ買いだった。

最寄りの書店に平積みされていた。
その表紙をみて、ためらわずレジに持っていった。

表紙の絵だけではない。
帯には、松本隆氏の推薦文がある。
     *
ねえ「細野」さん、
ぼくらの歌が
異国の少女の
「イヤフォン」を通して、
繊細な「孤独」を
抱きしめたら。
それって
「素敵」だよね?
     *
表紙に惹かれない人でも、これを読めば手にとる人もいるはずだ。

Date: 12月 22nd, 2022
Cate: 1年の終りに……

2022年をふりかえって(その11)

今年は、例年以上にステレオサウンドにがっかりした一年だった。
今年もステレオサウンドは面白かったよ、という人が少なからずいるだろうが、
私にとっては──、というと、
年四冊のうち、二冊がオーディオの殿堂、ステレオサウンド・グランプリ、ベストバイ。
残り二冊の特集の企画に期待したいところだったが、それもかなわなかった。

そもそも期待していたわけでもなかったので、がっかりしているわけでもない。
ただそれにしても──、と例年以上に思うだけだ。

ステレオサウンドはそんなぐあいだった。
オーディオアクセサリーも同じ感じなのだが、
同じ音元出版のanalogは、別項でも触れているように期待がもてるところを、
少しは感じることができる。

だからといって、これから先ますます期待に応えてくれるようになっていくのか、
それとも反対方向へと進んでいくのか。
そのへんはまだなんともいえないが、期待できないオーディオ雑誌ばかりでは、
やはりつまらない。

期待したいのだ、本音は。
オーディオ雑誌を楽しみにしたいのだ。

ステレオも期待できるかな、と思わせながらも、
別項でリンクしている動画をみるかぎりは、大丈夫だろうか、と心配になってくる。

馬脚をあらわすのか、それともよくなっていくのか。
2023年の十二冊が楽しみだ。

Date: 12月 21st, 2022
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド,

オーディオの殿堂(続・感じていること・その1)

《過去を大きな物語として語れる編集者は消滅しました》
七年前、川崎先生が語られていたことばだ。

ステレオサウンドの「オーディオの殿堂」を眺めていると、
川崎先生の、このことばが浮んでくる。

《過去を大きな物語として語れる》編集者だけでなく、
《過去を大きな物語として語れる》オーディオ評論家も消滅した。
私は、そう感じている。