Archive for category 老い

Date: 12月 9th, 2014
Cate: 老い

老いとオーディオ(その2)

オーディオについて語るさいに、性的なことを極端に拒否する人がいるのを、
ステレオサウンドにいたときに知った。

菅野先生がある座談会で、射精という言葉を使われた。
そのことに関して、編集部に手紙が届いた。

30年ほど前のことだから正確に記憶しているわけではないが、
その手紙には、ステレオサウンドはオーディオマニアにとっての聖書である、とまず書いてあった。
聖書に性的なことをイメージさせる言葉が載っているのは許し難い、
そういうことだった。

この手紙は意外だった。
いまこうやって書いていると、そのころ意外と感じた理由以外でも意外と感じてしまう。

ステレオサウンドの作り手であったころに、そのステレオサウンドを聖書として読まれることは、
喜んでいいことなのだろうか、とも考えさせられる。

ステレオサウンドを聖書と捉える人が他にもいるのかどうかはわからないけれど、
ひとりいたということは、そう思っている人は他にもいて不思議ではない。

音楽を聴くという行為は、官能的な行為でもある。
人によって、いろいろな聴き方があるけれど、
音楽を聴く際に、まったく官能的なものを拒否している(できている)人はいるのだろうか。

ステレオサウンドを聖書と捉えていた人からすれば、
この項で書いていこうとしていることは、オーディオを侮辱するものだ、ということになるのかもしれない。

それでも「老化とオーディオ」は書いていきたいテーマである。

Date: 12月 1st, 2014
Cate: 老い

老いとオーディオ(その1)

昔読んで感心したことのひとつを、このごろ考えている。
いつ読んだのかはもうはっきりとは憶えていない。
たぶん1991年以降、週刊文春か他の週刊誌。

大橋巨泉が語ったことだった。
上原謙について語っていた。
上原謙が1975年に再婚したことについてのことだった。

このときの騒ぎはなんとなく記憶している。
二枚目俳優の上原謙が、こんな女性と……、という感じでテレビ、週刊誌を賑せていた。

上原謙は1909年生れだから、再婚時は65か66歳。
大橋巨泉の記事を読んだころの私はまだ30になっていなかったはず。

だからその時は、読みながら感心しながらも、自分にあてはめて考えることは出来なかった。
そこには、こんなことが書いてあった。

男は歳をとると勃たなくなる。
そうなると勃たせてくれる(勃つようになる)女が、つまりはいい女ということになる。
どういう女がそういう存在になるのかは、他人にはわからないことだ。
本人だって、若いころとは違ってくることだってあろうから、そういう相手に出逢うまでわからないことといえよう。
上原謙にとって再婚相手がそういう存在だったのだろう。

そんなことが語られていた。
このことは考えさせられる。

Date: 10月 14th, 2014
Cate: きく, 老い

まるくなるということ

昨夜書いたフランス映画「オーケストラ!」のこと、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のこと。
これを、若いころ、とんがっていたのが年取ってまるくなってしまっただけだろう、と読もうと思えば読める。

年取ってまるくなった、よくいわれることである。
でも、このことが意味しているのは、少し違うところにあるように思っている。

若いころ針のようにとがっている。
年取ってまるくなるとは、針先が摩耗して丸くなることだと思われがちだが、
私は上下左右全方向に針が増えていって、全体のかたちとして球体になることを、
まるくなる、というふうに解釈している。

若いころの針は、本数がすくない。それにある方向にだけ向いていたりする。
だからこそ、相手にとがっている、と感じさせるだけであって、
歳を重ねて、さまざなことを体験していくことで、針の本数は増え、
いままで針のなかった方向に針が生じていく。

そうやって針全体が形成するかたちは球体になっていくのが、まるくなることであり、
決して針先が摩耗して丸くなってしまうわけではない。
これが理想的な歳の重ね方なのだと思う。

私はまだいびつなかたちだと自覚している。
どこまで球体に近づけるのかはわからない。

そして針先を向けるのは、外に対してではなく、
内(裡)に対して、であるはずだ。

Date: 2月 12th, 2014
Cate: 楽しみ方, 老い

(改めておもう)歳を重ねるということ

オーディオをいつかはやめるかも……、
そうおもっている人はいる。
どのくらいいるのかはわからないけれど、きっといる。

オーディオにこれまで熱中してきたけれど、そろそろ、そんな予感がしている。
だから、そんな言葉が出てくるのか。

昨日もある人とそういう話になった。

なにもやめることはない、とおもう。
休めばいいだけのことだ。

それに歳を重ねなければ出せない音があることを、私は知っている。
これは2008年9月27日にも書いたことである。

9月27日は、菅野先生の誕生日であるから、これを書いた。
これをあらめたておもっている。

どんなにオーディオの才能があり、知識もあり、知恵もあり、
経済的に恵まれていようとも、歳を重ねないとたどり着けない領域の音が確実にある。

歳をとれば、その「音」が出せるという保証はないけれど、
歳を重ねなければ出せないということは、はっきりとしている。

Date: 1月 1st, 2013
Cate: 老い

50という区切り

1963年の1月1日は火曜日だった。
2013年、今年の1月1日も火曜日だ。
今年50の誕生日を迎える人は、生れた曜日と同じ曜日に50歳になるわけだ。

50という年齢は、ひとつの大きな区切りのように感じていたし、思ってもいた。
そう思うようになったのは、
1989年に創刊されたサライ(小学館発行)に巻頭インタヴューに載っていた安岡章太郎氏の発言からだ。
このことは10ヵ月ほど前にも書いている。

サライの創刊当時の巻頭記事で、安岡章太郎氏につづいて登場した人たちも、
口を揃えて「50をすぎてから面白くなった」と語っていた。

サライの、それらの記事を読んだころは、50のほぼ半分の26
歳だった。
まだまだ先のことだとも思っていたし、それでも50という年齢がどういうものなのか、
そして50になったとき、どんなふうに私自身、変っているのかを想像してみたこともあった。
(まったく想像できなかったし、こんなふうになっているとは思わなかった)

あと数週間で50になる。
やっと50になる。ひとつの大きな区切りを、生れた曜日と同じ曜日で迎えることになるのは、
些細なことではあるし、ほかの人にとっては取るに足らないことであるけれど、
なにか大きな環を一周してきたような感じさえ与えてくれる。

二周目をどのくらい廻れるのかなんて、わからない。
オーディオも、そして二周目にはいるのだろうか。