Archive for category 瀬川冬樹

Date: 9月 18th, 2022
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹というリアル(その9)

ステレオサウンド 59号掲載の、
瀬川先生によるアキュフェーズM100の新製品紹介の文章。

この文章が、読んだ時から、ずーっと心のどこかにひっかかっているような気がしていた。
アキュフェーズのM100に、当時、すごく関心を寄せていたわけではない。
自分でも不思議に思いながらも、
ひっかかっているような気がしていた、という感じだったので、
あまり、というか、ほとんどそのことについてそれ以上考えることはしなかった。

最近になって、ああそうだ、と気づいた。
     *
 そのことは、試聴を一旦終えたあとからむしろ気づかされた。
 というのは、かなり時間をかけてテストしたにもかかわらず、C240+M100(×2)の音は、聴き手を疲れさせるどころか、久々に聴いた質の高い、滑らかな美しい音に、どこか軽い酔い心地に似た快ささえ感じさせるものだから、テストを終えてもすぐにスイッチを切る気持になれずに、そのまま、音量を落として、いろいろなレコードを、ポカンと楽しんでいた。
 その頃になると、もう、パワーディスプレイの存在もほとんど気にならなくなっている。500Wに挑戦する気も、もうなくなっている。ただ、自分の気にいった音量で、レコードを楽しむ気分になっている。
 そうしてみて気がついたことは、このアンプが、0・001Wの最小レンジでもときどきローレベルの表示がスケールアウトするほどの小さな出力で聴き続けてなお、数ある内外のパワーアンプの中でも、十分に印象に残るだけの上質な美しい魅力ある音質を持っている、ということだった。夜更けてどことなくひっそりした気配の漂いはじめた試聴室の中で、M100は実にひっそりと美しい音を聴かせた。まるで、さっきの640Wのあの音の伸びがウソだったように。しかも、この試聴室は都心にあって、実際にはビルの外の自動車の騒音が、かすかに部屋に聴こえてくるような環境であるにもかかわらず、あの夜の音が、妙にひっそりとした印象で耳の底で鳴っている。
     *
瀬川先生の文章の終りのほうである。
ここのところが、ずーっと私の心のどこかにあった。

ここのところを読んで、どう思うのかは、人それぞれでしかない。
私は私の読み方をするだけで、
ここのところを読んでいると、
瀬川先生は独りでM100を聴かれているのか──、
そんなことを感じてしまうから、私の心のどこかにひっかかっていたのだろう。

そんなことはない。
ステレオサウンドの試聴室での試聴なのだから、
瀬川先生の隣には編集者が最低でも一人か二人はいるはずだ。

なのに、何度読み返しても、私には瀬川先生が独りで聴かれていくように感じてしまう。

Date: 6月 30th, 2022
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その19)

カラヤンのレコーディング歴はながい。
SP時代から始まっている。
このころは当然モノーラルで、テープ録音はまだ登場していない。

その後、ドイツで世界初のテープ録音が行われる。
それでもまだモノーラルの時代だし、他の国ではディスク録音だった。

戦後、SPがLPとなる。それでもまだまだモノーラルである。
テープ録音も普及していく。
そしてステレオになっていく。

それからデジタル録音が登場してくる。
デジタルになる前にあった変化は、
録音器材の管球式からソリッドステートへの移行があった。
録音テクニックの変遷もある。

1982年10月、CDが登場する。

これらすべてをカラヤンは指揮者として経験している。
カラヤンと同世代の演奏家ならば、同じように経験してきているだろうが、
カラヤンほど積極的に経験してきている演奏家となると、多くはない、といえる。

そういうカラヤンだからこそ、
精妙な録音を行える、ともいえよう。

そのカラヤンが、いまの時代の若手指揮者だったら、どうだろうか。
録音を開始したころから、すでにデジタル録音で、
それも44.1kHz、16ビットではなく、
ハイレゾリューションでの録音が身近になっている時代しか経験していない。

そんなカラヤンがもしいたとしたら、精妙な録音を行なえただろうか。
これから先、精妙な録音を聴かせてくれる演奏家は登場してくるだろうか。

Date: 6月 22nd, 2022
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その18)

カラヤンの「ローマの松」と「ローマの泉」については、
ステレオサウンド 49号、岡先生の「クラシック・ベスト・レコード」のなかで、
すこし詳しく書かれている。

少し長くなるが、引用しておこう。
     *
《ローマの松》はカラヤンにとって二度目の録音だが、《泉》は初めてである。その《泉》の出だしの弱音のなかに、朝日にきらめく水のしぶきを描写したようなイメージを、喚起せずにはおかないさまざまな楽器の点描の美しさはたとえようもない。空気の透明さと音彩の純度のたかさが素晴らしい。その精妙なピアニシモがあればこそ、フォルティシモのあざやかさが生きてくるのである。
 この二、三年のカラヤンの録音は、ピアニシモをベースにしたダイナミックスの効果を、ひじょうに意識していることは明らかである。コンサートにおけるダイナミックスをそのままレコードにもりこむことは不可能であることはいうまでもないが、カラヤンは心理的にそのピアニシモをピアニシモまで拡大できるようなレコーディング効果を計算しているようにおもえる。たとえば《松》における、〝ジャニコロの松〟から〝アッピア街道の松〟への推移する部分である。ナイチンゲールの啼声の録音をつかうように指定されている〝ジャニコロ〟の最後の十四小節は、クラリネットのppのフレーズに弱音器をつけた弦が重ねられる。コントラバスを除く弦は十部に分奏される。ことに、ヴァイオリンは五部になっていて、pppからppppのトレモロが、順序を追って重ねられてゆく。その微妙な音の重なりかたによる効果が、きくものに幻想的なイメージを喚起して、アッピア街道を行進してくるローマ軍団の歩調がとおくから響いてくる終曲のムードをひきだすわけだが、その漸層的にたかまってゆく行進曲歩調のなかに、うすくつけられた弦が、リズムの和音のなかにめりこまず、絶妙な色彩的効果を添えるのである。
 こういうバランスは、多分、コンサートホールできくにはよほど条件のよい席でなければ感じとれないにちがいない。また再生装置のグレードがちがってすも、ニュアンスの相違が出るだろう。こういう音の細密表現がうまく再生されると、きき手は本当に〝息をのんで〟ききほれてしまうにちがいない。カラヤンはマイクをとおしての最良のバランスを、オーケストラにもとめているにちがいないコントロールを行っているのである。
     *
カラヤン/ベルリン・フィルハーモニーによる「ローマの噴水」と「ローマの松」は、
1977年12月、1978年1月、2月の録音である。

「ローマの噴水」は、瀬川先生の文章にも登場してくる。
56号掲載のトーレンスのリファレンスのところに、である。
     *
たとえば、カラヤン/ベルリン・フィルの「ローマの泉」の第二曲(朝のトリトンの噴水)の噴水の吹き上がる部分。リファレンスの音は、ほんとうに水しぶきが上がってどこまでも吹き上げる。水のしぶきに、ローマの太陽が燦然ときらめき映える。このレコードの音は、ずいぶんきわどく録音されているが、しかしやかましいという感じにならない。残念ながら、私が目下愛用しているマイクロ二連ドライブ+AC4000MC、それにMC30では、どうしても少々上ずる傾向になりがちだ。エクスクルーシヴとEMT930stでは、しぶきが十分な高さに吹き上がらない。そういう迫真力で格段の差を聴かせておきながら、少々傷んだレコードをかけてみても、他のプレーヤーよりその傷みからくる音の荒れが耳につきにくいというのは、何ともふしぎである。
     *
TIDALとe-onkyo、どちらもMQA(96kHz)である。
TIDALでは「ローマの噴水」はMQAなのだが、「ローマの松」はMQA Studioと表示される。

Date: 6月 17th, 2022
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その17)

カラヤンと精妙ということで思い出すのは、
ステレオサウンド 52号で、
岡先生と黒田先生が「レコードからみたカラヤン」というテーマでの対談である。
     *
黒田 そういったことを考えあわすと、ぼくはカラヤンの新しいレコードというのは、音の面からいえば、前衛にあるとはいいがたいんですね。少し前までは、レコードの一種の前衛だろうと思っていたんだけど、最近ではどうもそうは思えなくなったわけです。むろん後衛とはいいませんから、中衛かな(笑い)。
 いま前衛というべき仕事は、たとえばライナー・ブロックとクラウス・ヒーマンのコンビの録音なんかでしょう。
 そこのところでは、黒田さんと多少意見が分かれるかもしれませんね。去年、カラヤンの「ローマの松」と「ローマの泉」が出て、これはびっくりするほどいい演奏でいい録音だった。ところがごく最近、同じDGGで小沢/ボストン響の同企画のレコードができましたね。これはいま黒田さんがいわれた、プロデューサーがブロック、エンジニアがヒーマンというチームが録音を担当しているわけです。
 この2枚のレコードのダイナミックレンジを調べると、ピアニッシモは小沢盤のほうが3dB低い。そしてフォルティシモは同じ音量です。したがって全体の幅でいうと、ピアニッシモが3dB低いぶんだけ小沢盤のほうがダイナミックレンジの幅が広いことになります。物理的に比較すると、そういうことになるんだけれど、カラヤン盤のピアニッシモのありかたというか、音のとりかたと、小沢盤のそれとを、音響心理学的に比較するとひじょうにちがうんです。
黒田 キャラクターとして、その両者はまったくちがうピアニッシモですね。
 ええ。つまりカラヤン盤では、雰囲気とかひびきというニュアンスを含んだピアニッシモだが、小沢盤では物理的に小さい音、ということなんですね。物理的に小さな音は、ボリュウムを上げないと音楽がはっきりとひびかないんです。小沢盤の録音レベルが3dB低いということは、聴感的にいえば6dB低くきこえることになる。そこで6dB上げると、フォルテがずっと大きな音量になってしまうから聴感上のダイナミックレンジは圧倒的に小沢盤の方が大きくきこえてくるわけです。
 いいかえると、カラヤンのピアニッシモで感心するのは、きこえるかきこえないかというところを、心理的な意味でとらえていることです。つまり音楽が音楽になった状態での小さい音、それをオーケストラにも録音スタッフにも要求しているんですね。これはカラヤンがレコーディングを大切にしている指揮者であることの、ひとつの好例だと思います。
 それから、これはカラヤンがどんな指示をあたえたのかは知らないけれど、「ローマの松」でびっくりしたところがあるんです。第三部〈ジャニロコの松〉の終わりで、ナイチンゲールの声が入り、それが終わるとすぐに低音楽器のリズムが入って行進曲ふうに第四部〈アッピア街道の松〉になる。ここで低音リズムのうえに、第一と第二ヴァイオリンが交互に音をのせるんですが、それがじつに低い音なんだけど、きれいにのっかってでてくる。小沢盤ではそういう鳴りかたになっていないんですね。
 つまりPがひとつぐらいしかつかないパッセージなんだけれど、そこにあるピアニッシモみたいな雰囲気を、じつにみごとにテクスチュアとして出してくる。録音スタッフに対する要求がどんなものであったかは知らないけれど、それがレコードに収められるように演奏させるカラヤンの考えかたに感嘆したわけです。
黒田 そのへんは、むかしからレコードに本気に取り組んできた指揮者ならではのみごとさ、といってもいいでしょうね。
     *
実演での精妙と精緻ということではない。
録音での精妙と精緻ということでいえば、
カラヤンは精妙であるとはっきりいえるし、小澤征爾は精緻ということか。

岡先生は、さらにこうも語られている。
     *
 六〇年代後半から、レコードそしてレコーディングのクォリティが、年々急上昇してきているわけですが、そういった物理量で裏づけられている向上ぶりに対して、カラヤンは音楽の表現でこういうデリケートなところまで出せるぞと、身をもって範をたれてきている。指揮者は数多くいるけれど、そこで注意深く、計算されつくした演奏ができるひとは、ほかには見当りませんね。ぼくがカラヤンの録音は優れていると書いたり発言したりすると、オーディオマニアからよく不思議な顔をされるんだけど、フォルテでシンバルがどう鳴ったかというようなことばかりに気をとられて、デリカシーにみちた弱音といった面にあまり関心をしめさないんですね。これはたいへん残念に思います。
     *
単なる物理的な弱音ではなく《デリカシーにみちた弱音》、
心理的な意味でのピアニッシモを実現してこその精妙である。

Date: 6月 16th, 2022
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その16)

瀬川先生が、「コンポーネントステレオの世界 ’80」の巻頭に書かれている。
     *
 現にわたくしも、JBLの♯4343の物凄い能力におどろきながら、しかし、たとえばロジャースのLS3/5Aという、6万円そこそこのコンパクトスピーカーを鳴らしたときの、たとえばヨーロッパのオーケストラの響きの美しさは、JBLなど足もとにも及ばないと思う。JBLにはその能力はない。コンサートホールで体験するあのオーケストラの響きの溶けあい、空間にひろがって消えてゆくまでの余韻のこまやかな美しさ。JBLがそれをならせないわけではないが、しかし、ロジャースをなにげなく鳴らしたときのあの響きの美しさは、JBLを蹴飛ばしたくなるほどの気持を、仮にそれが一瞬とはいえ味わわせることがある。なぜ、あの響きの美しさがJBLには、いや、アメリカの大半のスピーカーから鳴ってこないのか。しかしまた、なぜ、イギリスのスピーカーでは、たとえ最高クラスの製品といえどもJBL♯4343のあの力に満ちた音が鳴らせないのか──。
     *
ここに書かれていることも、精緻と精妙の違いのように読める。
4343の音は精緻、
LS3/5Aの音は精妙だからこそ、
《コンサートホールで体験するあのオーケストラの響きの溶けあい、空間にひろがって消えてゆくまでの余韻のこまやかな美しさ》を、
鳴らしてくれるのではないのか。

Date: 5月 10th, 2022
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その15)

カラヤンをお好きだった瀬川先生と黒田先生。
お二人ともJBLの4343でレコード(録音物)を聴かれていた。

瀬川先生は、ステレオサウンド 53号での4343研究で、
オール・レビンソン、
しかもウーファーに関してはML2をブリッジ接続してのバイアンプ駆動、
つまり六台のML2を用意しての4343を極限まで鳴らそうという企画をやられている。

この時の音は、この時代における精緻主義の極致であっただろう。

この時、誌面に登場する試聴レコードは、
菅野先生録音、オーディオ・ラボの「ザ・ダイアログ」、
それからコリン・デイヴィス指揮のストラヴィンスキーの「春の祭典」(フィリップス録音)、
アース・ウインド&ファイアーの「黙示録」に、
チャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」である。

カラヤンのディスクはなかった。
53号を読んだ当時は、そのことに気づかなかった。
そういえばカラヤンのディスクがなかったな、と気づいたのは、
ずっとあとのことである。

気づいた後で、
ステレオサウンド 56号掲載のトーレンスのリファレンスの新製品紹介記事、
58号でのSMEの3012R-Specialの新製品紹介記事、
もちろん両方とも瀬川先生が担当されているわけで、
この二つの瀬川先生の文章を読み返すと、
精妙主義ということに、少なくとも私のなかではつながっていく。

同じことは黒田先生についてもいえる。

Date: 5月 9th, 2022
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その14)

精妙と精緻は近いようでいて、同じではない。
カラヤンは精妙主義の指揮者であり、
別項で触れているマーラーの第一番をシカゴ交響楽団と録音したころのアバドは、
精緻主義の指揮者である。

カラヤンの精妙主義がもっともいかされていると私が感じるのは、
ワーグナーにおいて、である。

「パルジファル」がもっとも優れたカラヤンの精妙主義を聴くことができるが、
「ニーベルングの指環」もそうだと感じている。

室内楽的、といわれたのは黒田先生である。
たしかにカラヤンの「ニーベルングの指環」は室内楽的な印象を受ける。

五味先生はカラヤンを嫌われていた。
初期のカラヤンの演奏は高く評価されていたけれど、
フルトヴェングラーが亡くなって以降のカラヤンに関しては、
堕落した、とまでいわれている。

カラヤンの「ニーベルングの指環」は、
その五味先生のレコードコレクションの中にある。

いまでこそけっこうな数の「ニーベルングの指環」の録音はある。
けれど五味先生が生きておられた時代、
ショルティの「ニーベルングの指環」がまずあった。

それ以外の「ニーベルングの指環」となると、
いかな五味先生でもカラヤンの「ニーベルングの指環」を無視できなかったのだろう。

Date: 4月 2nd, 2022
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと(その17)

ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」のなかで、
岩崎先生は、こんなことを語られている。
     *
 じつは、ほんとうはL400にしたかったのです。ところがL400はまだ出てきていない。JBLでは出すといってますけれど。これは、新しいスタジオ・モニターの4343、このスピーカーのコンシュマー版ですね。
     *
マイルス・デイヴィスのエレクトリック・サウンドを聴くための組合せで、
岩崎先生はJBLのL300を選択されている。
L300は4333のコンシューマー版である。

《ほんとうはL400にしたかったのです》は、
その1)で引用している岩崎先生のスタックスの文章を読んでいれば、
素直に納得できる。

L400の登場がまだならば、L300ではなく4343を選択した組合せにしなかったのは、なぜ?
そう思われる読者もいようが、
ここでの組合せの相談者(架空の読者)は、29歳と想定されている。

そのためもあってか、L300の組合せだけでなく、
パイオニアのCS616の組合せもつくられている。

L300の組合せのトータル価格は、2,156,800円、
CS616の組合せは、491,000円と四分の一に抑えられている。

L300が4343になるとトータル価格は四十万円ほどアップすることになる。
そのへんも考慮されてだろうが、岩崎先生はこう語られている。
     *
スペクトラムバランスが違いますから、4343よりもはるかに低音が厚くなるはずで、その意味でもマイルスのレコードによく合うんです。
     *
ここでの組合せは、あくまでも読者の聴きたいレコード(音楽)がはっきりしてのことで、
組合せの予算に制約がなかったとしても、L300だったはずだし、
登場していたらL400のはずである。

瀬川先生は、どうなのだろうか。
別のところで、瀬川先生は4333よりもL300、
そのL300よりも4333Aといわれていた。

そうなると4343のコンシューマー版のL400が登場していたら、
4333とL300の評価のように、L400だったのだろうか。

Date: 2月 4th, 2022
Cate: 瀬川冬樹
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瀬川冬樹氏のこと(バッハ 無伴奏チェロ組曲・その9)

瀬川先生にとっての「心に近い音」について考えていて、
ふと思い出したスピーカーシステムがある。

ステレオサウンド 54号に登場したグルンディッヒのProfessional 2500である。
54号の特集では、瀬川先生のほかに、菅野先生、黒田先生が試聴メンバーであった。

Professional 2500の、瀬川先生の評価菅野先生の評価がどう違うのか、は、
リンク先をお読みいただきたい。
このふたりの評価は違いについては、特集の座談会の中でもとりあげられている。

54号での試聴メンバーは三人であっても、合同試聴ではなく、ひとりでの試聴である。
ゆえに菅野先生のときのProfessional 2500の音と、
瀬川先生が鳴らされたときのProfessional 2500の音が、
違っている可能性もあるわけだが、それについては座談会のなかで、
編集部の発言として、
「このスピーカに関しては、三人の方が鳴らされた音に、それほど大きな違いはなかったように思うのです」とある。

だから評価のズレが、鳴っていた音の違いによるものではない、といってもいいだろうし、
Professional 2500が、瀬川先生にとって「心に近い音」のスピーカーシステムだった──、
そんな気がしてならない。

Date: 1月 30th, 2022
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏のこと(バッハ 無伴奏チェロ組曲・その8)

ステレオサウンド 53号の4343研究中に登場する試聴ディスクは、
菅野先生録音、オーディオ・ラボの「ザ・ダイアログ」、
それからコリン・デイヴィス指揮のストラヴィンスキーの「春の祭典」(フィリップス録音)、
アース・ウインド&ファイアーの「黙示録」に、
チャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」である。

どのディスクも当時(1979年)、優秀録音ということで、
ステレオサウンドの別の特集の試聴テストでも、とりあげられていたディスクばかりだ。

私も、当時「黙示録」以外は買って聴いていた。
「ザ・ダイアログ」は日本盤しかないが、
「春の祭典」と「サンチェスの子供たち」は輸入盤だった。

4343研究では、レコード番号も記載されていた。
56号のロジャースのPM510の文章中に出てくるディスクは、
バッハの「無伴奏」、とあるだけだ。

演奏者の名前も、レコードレーベル、番号については何も書かれていない。
同じ56号では、トーレンスのリファレンスの記事も、瀬川先生は書かれている。

そこでは、コリン・デイヴィスの「春の祭典」、
カラヤンの「ローマの泉」についての音の印象が出てくる。

おそらくなのだが、PM510では、「ザ・ダイアログ」は聴かれていない、と思っている。
「ザ・ダイアログ」は別項でも書いているように、この時期、よく聴いていた。
それだけでなくaudio wednesdayでもたびたび鳴らしていた。

でも「ザ・ダイアログ」をPM510で鳴らしたこと、聴いたことはない。
自分のPM510、自分の部屋においてだけ、でなく、
ステレオサウンドの試聴室でもPM510で「ザ・ダイアログ」は聴いていない。

「サンチェスの子供たち」も聴いていない。
「春の祭典」は一回だけかけたことがあるが、
4343で聴くときの音量で鳴らしたわけではなく、ずっと小さな音量で、であった。

Date: 1月 29th, 2022
Cate: 瀬川冬樹
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瀬川冬樹氏のこと(バッハ 無伴奏チェロ組曲・その7)

その1)を書いたときには、そんなこと考えもしなかったのだが、
この項で書こうとしているのは、
瀬川先生にとっての「心に近い音」についてなのかもしれない──、
そう思うようになってきた。

なので、(その1)で引用している瀬川先生の文章を、もう一度である。
     *
 JBLが、どこまでも再生音の限界をきわめてゆく音とすれば、その一方に、ひとつの限定された枠の中で、美しい響きを追求してゆく、こういう音があっていい。組合せをあれこれと変えてゆくうちに、結局、EMT927、レヴィンソンLNP2L、スチューダーA68、それにPM510という形になって(ほんとうはここでルボックスA740をぜひとも比較したいところだが)、一応のまとまりをみせた。とくにチェロの音色の何という快さ。胴の豊かな響きと倍音のたっぷりした艶やかさに、久々に、バッハの「無伴奏」を、ぼんやり聴きふけってしまった。
     *
この文章は、ロジャースのPM510の新製品紹介記事である。
これを読んで、PM510を買おう! と決心したし、実際にPM510を手に入れることができた。

この文章だけでも、PM510こそ! と思ったはずなのだが、
ステレオサウンド 53号での瀬川先生の4343研究を読んでいたからこそ、
PM510のことがよけいに気になる存在となった。

このブログでも何度か取り上げているように、
53号で、JBLの4343をオール・マークレビンソンによるバイアンプ駆動を試されている。

その記事の最後に、こう書かれている。
     *
「春の祭典」のグラン・カッサの音、いや、そればかりでなくあの終章のおそるべき迫力に、冷や汗のにじむような体験をした記憶は、生々しく残っている。迫力ばかりでない。思い切り音量を落して、クラヴサンを、ヴァイオリンを、ひっそりと鳴らしたときでも、あくまでも繊細きわまりないその透明な音の美しさも、忘れがたい。ともかく、飛び切り上等の、めったに体験できない音が聴けた。
 けれど、ここまでレビンソンの音で徹底させてしまった装置の音(注)は、いかにスピーカーにJBLを使っても、カートリッジにオルトフォンを使っても、もうマーク・レビンソンというあのピュアリストの性格が、とても色濃く聴こえてくる。いや、色濃くなどというといかにもアクの強い音のような印象になってしまう。実際はその逆で、アクがない。サラッとしすぎている。決して肉を食べない草食主義の彼の、あるいはまた、おそらくワイ談に笑いころげるというようなことをしない真面目人間の音がした。
 だが、音のゆきつくところはここひとつではない。この方向では確かにここらあたりがひとつの限界だろう。その意味で常識や想像をはるかに越えた音が鳴った。ひとつの劇的な体験をした。ただ、そのゆきついた世界は、どこか一ヵ所、私の求めていた世界とは違和感があった。何だろう。暖かさ? 豊饒さ? もっと弾力のある艶やかな色っぽさ……? たぶんそんな要素が、もうひとつものたりないのだろう。
 そう思ってみてもなお、ここで鳴った音のおそろしいほど精巧な細やかさと、ぜい肉をそぎ落として音の姿をどこまでもあらわにする分析者のような鋭い迫力とは、やはりひとつ隔絶した世界だった。
     *
この時の音こそ、瀬川先生にとってもっとも「耳に近い音」だったのか──。
その九ヵ月後の56号での、PM510の音のこと。

そして、そこに登場するディスクのこと。

昨日の夜おそく、そして今日、
二日かけて、フルニエのバッハの無伴奏チェロ組曲を聴いていた。
MQA Studio(192kHz)で聴いていた。

Date: 1月 2nd, 2022
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その19)

瀬川先生にとってのスピーカーの「あがり」は、
グッドマンのAXIOM 80だったのかもしれない──、
と(その18)で書いた。

その14)では、
瀬川先生は、もう一度AXIOM 80を鳴らされそうとされていた、ときいている、
45のシングルアンプを、もう一度組み立てられるつもりだったのか──、
とも書いている。

AXIOM 80を45のシングルアンプで鳴らす。
その音は、いまどきの超高級ハイエンドオーディオシステムの鳴らす音と、どう違うのか。

ここでいいたいことも、「心に近い」ということに関係してくる。
AXIOM 80と45のシングルアンプが奏でる音こそ、
瀬川先生にとってのもっとも「心に近い」音なのだろう。

Date: 12月 12th, 2021
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと(その16)

その15)は、もう五年前。

その冒頭に、
グッドマンAXIOM 80からJBLへ。
岩崎先生も瀬川先生も、この途をたどられている、と書いた。

岩崎先生とAXIOM 80が結びつかない──、という人はいてもおかしくない。
でも、岩崎先生はJBLのパラゴンを鳴らされていた同時期に、
QUADのESLも鳴らされていた。

そのことを知っていれば、それほど意外なことではないはずだ。
とにかく瀬川先生もAXIOM 80だった。
そしてJBLへの途である。

岩崎先生も瀬川先生も、
最初のころは、JBLのユニットを使っての自作スピーカーである。

瀬川先生は、JBLの完成品スピーカーシステムとして4341を選択されている。
岩崎先生はパラゴンである。
その前にハークネスがあるが、これはエンクロージュアの購入である。
そしてパラゴンのあとにハーツフィールドも手に入れられている。

ハーツフィールドは、瀬川先生にとって、憧れのスピーカーである。
そしてパラゴンに対しては、ステレオサウンド 59号で、
《まして、鳴らし込んだ音の良さ、欲しいなあ。》とまで書かれている。

岩崎先生は、(その1)で引用したスイングジャーナルでの4341の試聴記である。
正しくは4341の試聴記ではなく、スタックスのパワーアンプの試聴記なのだが、
その冒頭を読んでいると、4341の試聴記なのかと思ってしまう。

4341の音を、
《いかにもJBLサウンドという音が、さらにもっと昇華しつくされた時に達するに違いない、とでもいえるようなサウンドなのだ》
とまで高く評価されている。

それだけではない、岩崎先生の4341の音の表現は、
瀬川先生の音の表現に通ずるものが、はっきりと感じられる。

Date: 12月 1st, 2021
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その13)

JBLの4343がステレオサウンドに登場したのは41号である。
41号の表紙に、そして新製品紹介の記事と特集でとりあげられている。

41号は1976年12月に発売されている。

このころのカラヤンの演奏は精妙主義だった。
録音に関しても、そういっていいだろう。

そのカラヤンも1980年代中ごろから変っていく。
ベートーヴェン全集の録音のころから、はっきりと変っていった、と感じている。

私の場合、五味先生の影響が強すぎて、
アンチ・カラヤンとまではいかないものの、熱心なカラヤンの聴き手とはいえない。
ベートーヴェンの全集にしても、すべての録音を比較しながら聴いているわけでもない。

これは聴いてみたい、とそう感じたカラヤンの録音だけを聴いてきているにすぎない。
つまり体系的に聴いている聴き手ではない。

いいわけがましいことを書いているのはわかっている。
1980年代のベートーヴェンよりも前に、
カラヤンは精妙主義から脱していた演奏があったのかもしれないが、
私が聴いて、カラヤンが精妙主義から吹っ切れたところで演奏していると感じたのは、
ベートーヴェンだった。

その後のブラームスにもそう感じた。

カラヤンの精妙主義の最後の録音といえるのが、ワーグナーのパルジファルだと思うし、
このパルジファルが、精妙主義からふっきれた演奏のスタートのようにも感じる。

何がいいたいのかというと、
精妙主義を吹っ切ったところのカラヤンの演奏を、
五味先生、瀬川先生は聴かれていないということと、
カラヤンの精妙主義全盛時代に4343は登場しているということ、
そしてマークレビンソンの登場について、である。

Date: 11月 19th, 2021
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹というリアル(その8)

ロマン・ロランがベートーヴェンをモデルとしたといわれている「ジャン・クリストフ」、
《人は幸せになるために生まれてきたのではない。自らの運命を成就するために生まれてきたのだ》は、
そこに登場する。

「瀬川冬樹というリアル」を書いていると、
《自らの運命を成就するために生れてきた》ということを考えてしまう。