オーディオマニアとして(圧倒的であれ・その12)
「宿題としての一枚」を一枚も持たない者は、
圧倒的になれないのではないだろうか。
「宿題の一枚」については、別項で書いている。
「宿題としての一枚」を一枚も持たない者は、
圧倒的になれないのではないだろうか。
「宿題の一枚」については、別項で書いている。
《オーディオでしか伝えられない》ことをしっかりと持っていてこその、
圧倒的であれ、のはずだ。
つきあいの長い音──、私にとってはボンジョルノのアンプの音となるのか。
つきあいの長い音──、心に近い音であること。ただそれだけである。
選択と拒否は不可分である、とまでは思っていない。
それでも、選ばなかった途(選べなかった途)についておもうとき、
拒否した途があったのだろうか……。
拒否もいくつかあろう。
やりたくないからくる拒否、認めたくないからくる拒否、
許せないからくる拒否──、などがあろう。
なにを拒否してきたのだろうか。
選ばなかった途ではなく、結局は選べなかった途がある。
その選べなかった途をもし歩んでいたら──、
どんな生活を、いま送っていただろうか、とは考えていない。
それはきっとオーディオと無縁の途だったはずだからだ。
つきあいの長い音──、私にとってMQAが、すでにそうであると感じさせる。
つきあいの長い音は、くされ縁の音ではない。
オーディオマニアを自認するのであれば、圧倒的であれ──、
というのは、私の本音だけれど、
人によっては、「圧倒的であれ」を変な方向へ誤解する人がいるようにも感じている。
オーディオマニアのなかには、自分を特別扱いしろ、といわんばかりの人がいる。
友人と電話で話していて、共通の知人のことが話題にのぼった。
共通の知人といっても、私は三十年ほど会っていないし、
連絡もとることはない。
特に親しかったわけでもないが、一度、その人の音は聴いている。
その程度の知り合いでしかない。
それでも、この人はほぼ無意識に自分を特別扱いしてほしがっている──、
そんなふうに感じることが何度かあった。
三十年以上前のことだから、若気の至りだったのかもしれない。
けれど、いまもそのようである。
友人の話をきいていると、なんにも変っていないんだなぁ、と思っていた。
特別扱いしてほしいんですか、と訊けば、そんなことはない、というはずだ。
本人は、まったく意識していないのかもしれない。
なのに、その人の言動は、特別扱いを暗に要求している。
圧倒的であれ、とは、そんなことではない。
オーディオマニアを自認するのであれば、圧倒的であれ──、
というのは、私の本音だ。
(その8)で、そう書いた。
圧倒的であれ、は、圧倒的に楽しむ者であれ、でもある。
圧倒的に楽しめる者こそが、周りのオーディオマニアを挑発できる。
圧倒的であれ──、は威圧することではない。
オーディオマニアを自認するのであれば、圧倒的であれ──、
というのは、私の本音だ。
周りのオーディオマニアを挑発するほどに圧倒的であり、
周りのオーディオマニアのレベルを上げていくほどに圧倒的ということだ。
音楽がほんとうに好きな人のために、
自分のオーディオの才能を使うということは、
つまるところ、自分のためなんだ、という考えもできる。
オーディオマニアよりも、
オーディオにまったく詳しくない人で、音楽がほんとうに好きな人ほど、
だましたりごまかすことはできないものだ。
その人が使っているスピーカー、そのスピーカーを鳴らしている部屋、
アンプやCDプレーヤーなど、
自分の環境とはすべてが違う。
聴いている音楽も大きく違うこともある。
つまり何もかも違うところで、
ほんとうの音楽好きの人を満足させる音にする、ということは、
自分のオーディオの才能に磨きをかけることでもある。
自分のシステム、自分の部屋、好んで聴く音楽の範囲で、
真剣にやっていても磨きがかけられない才能の領域がある。
だからこそ、自分のためなのだ。
「私のオーディオの才能は、私のためだけに使う。」
二十数年前の私は、知人にこんなことをいっていた。
以前書いたことのくり返しなのだが、
オーディオ好きの知人は、私のオーディオの才能を認めてくれていて、
それだからこそ、何回も、私に、
「せっかくの才能なんだからオーディオの仕事をしたらどうですか」
「何か書いたらどうですか」
そういってくれていた。
ありがたいことなのに、当時の私は、
本気で、自分のオーディオの才能は自分のためだけに使うことこそ、
いちばんの贅沢だ、と思っていた──、
というか、そう思い込もうとしていたのかもしれない。
そんな私がいまは、誰かの家に行って、
オーディオのセッティング・チューニングをしている。
仕事としてやっているのではない。
親しい人、音楽好きの人の音をきちんとしていく。
高価なケーブルやアクセサリー類を持っていくわけではない。
やってくることといえば、なんだー、そんなことか、と思われることだろう。
たいしたことやっていないな、といわれるぐらいのことだ。
そんなことであっても、意外ときちんとなされていないことが多い。
昨晩もやっていた。
どんなことをやったのか、どんなふうに音が変化したのかは、
ここで書くようなことではない。
とても喜んでくれていたから、それでいい。
音楽がほんとうに好きな人のために、才能を使うということは、そうとうに楽しい。
そういうことをやって、私は、誰かに何かを伝えられているのだろうか。
(その1)で、《オーディオでしか伝えられない》ことを持っているからオーディオマニアのはずだ、
と書いている。
《オーディオでしか伝えられない》までには到っていないかもしれないが、
《オーディオで伝える》ことはできるようになったかもしれない。
なにかが欠けていたり、足りなかったりするからこそ、
モノは、そして音は完結するのかもしれない。
完成を目指し、足りない、欠けていたりするのを足していく。
いつまで経っても完結しない。
それを理想を目指して、ということはできるし、
それも男の趣味だと思う。
それでもどこまでいっても、なにかが欠けていたり、足りなかったりするものだ。
オーディオは男の趣味だからこそ、そこで潔さが求められる。
オーディオマニアを自認するのであれば、圧倒的であれ、とおもう──、
と(その1)で書いた。
五年前に書いている。
圧倒的であれ、とおもう、その理由は、
子供のころから、ブラッグ・ジャックに憧れてきたからなのだろう。