つきあいの長い音(その43)
つきあいの長い音──、心に近い音であること。ただそれだけである。
つきあいの長い音──、心に近い音であること。ただそれだけである。
選ばなかった途ではなく、結局は選べなかった途がある。
その選べなかった途をもし歩んでいたら──、
どんな生活を、いま送っていただろうか、とは考えていない。
それはきっとオーディオと無縁の途だったはずだからだ。
つきあいの長い音──、私にとってMQAが、すでにそうであると感じさせる。
つきあいの長い音は、くされ縁の音ではない。
オーディオマニアを自認するのであれば、圧倒的であれ──、
というのは、私の本音だけれど、
人によっては、「圧倒的であれ」を変な方向へ誤解する人がいるようにも感じている。
オーディオマニアのなかには、自分を特別扱いしろ、といわんばかりの人がいる。
友人と電話で話していて、共通の知人のことが話題にのぼった。
共通の知人といっても、私は三十年ほど会っていないし、
連絡もとることはない。
特に親しかったわけでもないが、一度、その人の音は聴いている。
その程度の知り合いでしかない。
それでも、この人はほぼ無意識に自分を特別扱いしてほしがっている──、
そんなふうに感じることが何度かあった。
三十年以上前のことだから、若気の至りだったのかもしれない。
けれど、いまもそのようである。
友人の話をきいていると、なんにも変っていないんだなぁ、と思っていた。
特別扱いしてほしいんですか、と訊けば、そんなことはない、というはずだ。
本人は、まったく意識していないのかもしれない。
なのに、その人の言動は、特別扱いを暗に要求している。
圧倒的であれ、とは、そんなことではない。
オーディオマニアを自認するのであれば、圧倒的であれ──、
というのは、私の本音だ。
(その8)で、そう書いた。
圧倒的であれ、は、圧倒的に楽しむ者であれ、でもある。
圧倒的に楽しめる者こそが、周りのオーディオマニアを挑発できる。
圧倒的であれ──、は威圧することではない。
オーディオマニアを自認するのであれば、圧倒的であれ──、
というのは、私の本音だ。
周りのオーディオマニアを挑発するほどに圧倒的であり、
周りのオーディオマニアのレベルを上げていくほどに圧倒的ということだ。
音楽がほんとうに好きな人のために、
自分のオーディオの才能を使うということは、
つまるところ、自分のためなんだ、という考えもできる。
オーディオマニアよりも、
オーディオにまったく詳しくない人で、音楽がほんとうに好きな人ほど、
だましたりごまかすことはできないものだ。
その人が使っているスピーカー、そのスピーカーを鳴らしている部屋、
アンプやCDプレーヤーなど、
自分の環境とはすべてが違う。
聴いている音楽も大きく違うこともある。
つまり何もかも違うところで、
ほんとうの音楽好きの人を満足させる音にする、ということは、
自分のオーディオの才能に磨きをかけることでもある。
自分のシステム、自分の部屋、好んで聴く音楽の範囲で、
真剣にやっていても磨きがかけられない才能の領域がある。
だからこそ、自分のためなのだ。
「私のオーディオの才能は、私のためだけに使う。」
二十数年前の私は、知人にこんなことをいっていた。
以前書いたことのくり返しなのだが、
オーディオ好きの知人は、私のオーディオの才能を認めてくれていて、
それだからこそ、何回も、私に、
「せっかくの才能なんだからオーディオの仕事をしたらどうですか」
「何か書いたらどうですか」
そういってくれていた。
ありがたいことなのに、当時の私は、
本気で、自分のオーディオの才能は自分のためだけに使うことこそ、
いちばんの贅沢だ、と思っていた──、
というか、そう思い込もうとしていたのかもしれない。
そんな私がいまは、誰かの家に行って、
オーディオのセッティング・チューニングをしている。
仕事としてやっているのではない。
親しい人、音楽好きの人の音をきちんとしていく。
高価なケーブルやアクセサリー類を持っていくわけではない。
やってくることといえば、なんだー、そんなことか、と思われることだろう。
たいしたことやっていないな、といわれるぐらいのことだ。
そんなことであっても、意外ときちんとなされていないことが多い。
昨晩もやっていた。
どんなことをやったのか、どんなふうに音が変化したのかは、
ここで書くようなことではない。
とても喜んでくれていたから、それでいい。
音楽がほんとうに好きな人のために、才能を使うということは、そうとうに楽しい。
そういうことをやって、私は、誰かに何かを伝えられているのだろうか。
(その1)で、《オーディオでしか伝えられない》ことを持っているからオーディオマニアのはずだ、
と書いている。
《オーディオでしか伝えられない》までには到っていないかもしれないが、
《オーディオで伝える》ことはできるようになったかもしれない。
なにかが欠けていたり、足りなかったりするからこそ、
モノは、そして音は完結するのかもしれない。
完成を目指し、足りない、欠けていたりするのを足していく。
いつまで経っても完結しない。
それを理想を目指して、ということはできるし、
それも男の趣味だと思う。
それでもどこまでいっても、なにかが欠けていたり、足りなかったりするものだ。
オーディオは男の趣味だからこそ、そこで潔さが求められる。
オーディオマニアを自認するのであれば、圧倒的であれ、とおもう──、
と(その1)で書いた。
五年前に書いている。
圧倒的であれ、とおもう、その理由は、
子供のころから、ブラッグ・ジャックに憧れてきたからなのだろう。
再発見する「自分」をなくしてしまったら、
もうオーディオマニアではなくなった、といっていい。
タンノイ・コーネッタを手に入れた。
購入したリサイクルショップへは、
仕事関係の知人といっしょに引き取りに行った。
別項「2017年ショウ雑感(会場で見かけた輩)」で書いているように、
ある事故(事件といってもいいと個人的には思っている)によって、
ヤマト運輸がオーディオ機器の運搬をとりやめ、その後も再開しないため、直接引き取りに行くしかない。
道すがら、そういえば五味先生もそうだったな、と思い出していた。
*
さて中間小説の剣豪ものをぼつぼつ書くようになって、六吋半からスピーカーはグッドマンにかわった。アンプも高城さん製のS氏のお古をもらうことが出来たが、そうなると、欲が出る。私のほしいのはその頃タンノイのモニター15であった。昭和三十一年当時、米価で百七〇ドルだったと思う。そのころは、オーディオ部品をあちらから入手するには、航空運賃、手数料、税金、業者のマージンなどを含め一ドル千円が相場だった。つまりタンノイが十七万円見当になる。それを或るアメリカ人がキャビネットごと七万円で譲ってくれると聞いた時は天にものぼる心地がした。私達の生活に七万円は当時まだ大金だったので、妻同伴で私は目黒のその親日家の邸を訪ねた。キャビネットごとだから運搬用にオート三輪を雇っていった。米人は『ハイ・フィデリティ誌』をバック・ナンバーで揃えているほどの音キチで、ワガ友ヨ、とばかりに私を迎え、タンノイがどれほど優れたスピーカーであるかを〝ハイ・フィデリティ誌〟に試聴記の載ったページをひらいて、くどくど説明する。ジーンクルーパーのドラムと、アームストロングのトランペットを斯く程生々しく再生したスピーカーはついぞないものである、てなことの書かれた記事を巻き舌で読みあげるわけだ。そんなことは私にはどうでもいいのだ。目の前に奇妙な──クリプッシュ・ホーンであると米人は力説していた──側面のがらんどうのキャビネットに紛れもなくタンノイが装填されているのを見て、もう一ときも早く運び出したくてウズウズしているのに、「汝ハ今イカナル再生装置ヲ所持スルヤ?」などと訊く。挙句には、めしを喰ってゆけと、あまり美人ではない夫人にその支度をさせる。そうしてこの音を汝はどう思うかと鳴らしたのは、日本風な行灯に見せかけた今でいうブックシェルフ・タイプである。今なら珍しくもないだろうが昭和三十一年に、ブックシェルフで彼は聴いていたのだから確かに天っ晴れな音キチというべきだろう。小型のわりには良く鳴るので、スピーカーは何だと訊くとEMIだという。へえそんなスピーカーがあるんですか、こちらはその程度の関心でしか答えず、本当に一刻も早くわが家へタンノイを運びたかった。さいわい戸外で待っている運送屋が、早くしてくれと文句を言ったのでようやく私は米人の歓待をのがれることができ、皆でキャビネットをオート三輪に乗せた。
私は揺れぬようオート三輪の荷台に突っ立ち、妻は助手席で、師走の風の肌をさす黄昏を目黒から大泉の自宅まで帰ったのだが、後で妻は、米人宅で出された白葡萄酒を絶讚して、あんなおいしいワインは飲んだことありません、さすがは外人ね、と言った。そんなものいつ飲んだか私には記憶にない、いや、のんだのは覚えているが味など上の空だった。ああ、いかにも妻は音キチの私に理解を示して来ているが、亭主がタンノイをまさに入手せんとしてワクワクしている時に、ワインの味に舌なめずり出来るとは何という神経であるか。遂に女房どもには、ぼくらの音の美への執念や愛着、その切なさなど分っちゃいない。女はまことに浅間しいものである、という確信をこの時私は深めた。今もってこの確信はかわることがない。オーディオ・マニアが圧倒的に男性で占められるのも故なしとしないわけである。
(「フランク《前奏曲 フーガと変奏曲》」より)
*
やっぱり「オーディオは男の趣味」である。
CDプレーヤーが登場したとき、まず思ったことがいくつある。
その一つが、デジタル機器に関してはブラックボックスとして捉えよう、だった。
つまりいじること、手を加えることは、デジタルオーディオ機器にしないでおこう、である。
そう決めたものの、ステレオサウンドで働いていると、
CDプレーヤーは、こんなことでこんなに音が変化するのか──、
そういうことを数えきれないほど体験してきた。
初期のCDプレーヤーのなかには、リアパネルにヒートシンクが出ていたモデルがあった。
マランツやソニーの製品がそうだった。
さほど大きくないヒートシンクなのだが、ここの鳴きをほんのちょっと抑えるだけで、
音はよい方向へと変化していく。
それから国産CDプレーヤーに多かったのが、フロントパネルのヘッドフォン端子への配線が、
プリント基板のパターンではなく、ワイヤーでの配線だった。
ほとんどの製品が両端にコネクターがついているので、簡単に取り外しができる。
井上先生の指摘で、外した音を聴いて驚いた。
三本(左右チャンネル一本ずつとアース)一組の10数cmほどのケーブルを抜くだけで、
音場の見通しがはっきりとよくなる。
その他にも長島先生の指摘でやったこともある。
どれもハンダゴテを使わずに、すぐに実行できることで、
音の変化は決して小さくない。
こんなことが積み重なってきて、
CDプレーヤーを含めてデジタルオーディオ機器をブラッグボックスとして、
手を加えるのはしない、という自分で決めたことをあっさりと捨ててしまった。
能力だけではない、
能力と迫力があってこその圧倒的であれ、である。