つきあいの長い音(その13)
つきあいの長い音──、私にとってのそれはデッサンの確かな音。
つきあいの長い音──、私にとってのそれはデッサンの確かな音。
つきあいの長い音が、オーディオマニアとしての「純度」を高めていくのかもしれない。
つきあいの長い音は、そうやって聴き手を育てていく。
つきあいの長い音は、同時に聴き手の感覚を調整していく音でもある。
つきあいの長い音には、聴き手の感覚に合せることのできる柔軟性がある。
つきあいの長い音の「ふるさ」とは、古さ、旧さではなく、故さであろう。
つきあいの長い音は、ふるいつきあいの音でもある。
手塚治虫のブラック・ジャックに、こんなセリフがある。
《手術もせずにほうってある きず口を見るのは がまんできないんだよ》
「のろわれた手術(オペ)」より
ブラッグ・ジャックは少年チャンピオンに連載されているのを読んでいた。
だから、このセリフも連載時に読んでいる。
そのころは、まだオーディオマニアではなかった。
いまオーディオマニアとして、このブラック・ジャックをセリフに出あって、
はっとした。気づかされたことがあった。
オーディオマニアは、自分のシステムから出る音を良くしようとする。
それは好きな音楽を少しでもいい音で聴きたいがためである。
でも、それだけではないことに、ブラック・ジャックのセリフを読んで気づかされた。
《手術もせずにほうってある きず口を見るのは がまんできないんだよ》という、
ブラック・ジャックと同じ気持があることに。
いまオーディオ評論家と名乗っている人・そう呼ばれている人もまた、
オーディオ評論家とHi−Fi評論家がいる、と私は思っている。
ここでのHi−Fiの定義は、高城重躬氏をHi−Fiマニアと呼ぶのとは違ってくるけれども。
あくまでも私のなかでの、ということわりをつけてではあるが、
五味先生はオーディオマニア、
高城重躬氏はHi−Fiマニア、
となる。
何者か、と問われれば、オーディオマニアと答える。
いまはオーディオマニアといっているけれど、
ずいぶん昔には音キチという呼称もあった。
オーディオマニアの「マニア」の部分を嫌う人はオーディオファイルを使ったりする。
レコード演奏家という呼称もある。
ほんの一時期ではあるが、ステレオサウンド誌上に「オーディスト」なる呼称も登場した。
幸いにもいまでは使われなくなっている。
オーディストについては、別項で書いているのでそちらをお読みいただきたい。
誰がどんな呼称を気に入って使おうと他人があれこれいうことではない。
オーディスト以外であれば。
私はオーディオマニアを使う。
音キチと呼ばれてもいいと思っている。
けれど、だからといってHi−Fiマニアと呼ばれるのは抵抗を感じる。
オーディオに関心のない人、もしかすると関心をもっている人でも、
オーディオマニアとHi−Fiマニアは呼び方の違いだけで同じと思っているだろうが、
私の中ではオーディオマニアとHi−Fiマニアは、同じところはあってもはっきりと違うところもある。
だから、あくまでも私はオーディオマニアである。
つきあいの長い音の中に、瀬川先生にとってマークレビンソンは含まれないような気がする。
つきあいの長い音──、瀬川先生のそれはEMTでありJBL、そしてKEF(LS5/1A)である。
つきあいの長い音とは、自分の感覚に馴染んでいるということ。
つきあいの長い音を持つ人が得られるのは、安心感だけではない。