Archive for category アンチテーゼ

Date: 9月 13th, 2016
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(その5)

菅野先生が以前いわれたことを思いだす。

ある有名な録音エンジニアによる録音のことだった。
どう思うか、ときかれた。
その録音エンジニアの録音を数多く聴いていたわけではなかった。
せいぜい数枚程度だった。

その範囲内での感じたことを話した。
菅野先生は、いわれた。
「いい音だけど、毒にも薬にもならない音だろう」と。

確かにそのとおりだった。
ケチがつけられるような録音ではない。
だから優秀録音として、高く評価されている。
いい音といえばそうであり、それを否定することは難しい。

それでもこちらの心にひっかかってくるところが稀薄にも感じていたのかもしれない。
だから菅野先生の「毒にも薬にもならない」に納得したのだろう。

「毒にも薬にもならない」音が、現代を象徴する音かもしれない。
この録音エンジニアの録音を高く評価する人が、
非常に優れていると評するスピーカーの音もまた、私には「毒にも薬にもならない」と感じられる。

録音として優秀であれば、
スピーカー(変換機)として優秀であれば、それでいいではないか。

それが「毒にも薬にもならない」ということだろう、といわれれば、
特に反論はしないけれども、それでもこれらの音は私にとって「耳に近く、心に遠い」音なのだ。

おそらく菅野先生の「毒にも薬にもならない」は、
同じ意味であったように思っている。

Date: 9月 8th, 2016
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(その4)

「耳に遠く、心に近い」音と「耳に近く、心に遠い」音。
一年ほど前に書いたことだ。

後者の「耳に近く、心に遠い」音が、とても増えてきたように感じている。
ステレオサウンドで高い評価を得ているスピーカーシステムのいくつかにも、
「耳に近く、心に遠い」音のように感じている。

どのスピーカーがそうだとは書かない。

心に近い、心に遠い──ほど、主観的なことはない。
だから私にとって、私の心に近い音が、別の人にとって心に近いとは限らないし、
反対に遠いと感じることだってあるのだから。

ひとりひとりが見極めればいいことである。
同時に、私にとって「心に遠い」音を出すスピーカーを高く評価している人もまた、
私にとって「心に遠い」人ということになっているのかもしれない。

Date: 4月 5th, 2016
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(その3)

シェフィールドのダイレクトカッティング盤の「音」が、
いまの私にとって、何かのアンチテーゼとしてのものだとすれば、
その何に対してなのか、と自問する。

現在の、ハイレゾと呼ばれているものに対して、ではない。
昨今ブームだといわれているアナログディスク再生に対してのアンチテーゼとして、
私はシェフィールドのダイレクトカッティング盤を聴きたいのである。

私と同じように、いまアンチテーゼとしてシェフィールドのダイレクトカッティング盤を聴きたい、
と思っている人もいるかもしれない。
その人たちが、私と同じように、現在のアナログディスク再生に対してのアンチテーゼとして、とは限らない。
別の「何か」に対してのアンチテーゼとして、
シェフィールドのダイレクトカッティング盤を求めることだって考えられる。

それにもともとアンチテーゼなんてものを感じていないから、
そんなものを求めたりはしない、という人もいよう。

それはそれでいい、と思っている。
私はそう感じて、いま聴きたいと思う音がある、というだけである。

と同時に、私と同じものに対するアンチテーゼとして、
私とは違うものを求める人がいるのはなぜなのか、とも考える。

これは音に対する、他のこととを関係してくるように思うのだが、
自分の声は自分だけの「声」がある、ということではないだろうか。

ほとんどの人が体験しているように、自分の声を録音して再生してみると、
自分の声ではないように感じる。
けれど誰かの声を録音・再生すれば、その人の声と判断できる音で鳴ってくる。

つまり、そこで再生している自分の声が、他の人が聞いている自分の声ということになる。
つまり声を発している当人に聞こえている自分の声は、その人にだけしか聞こえていないわけだ。

私が聞いている私の声を、誰かに聞かせることはできない。
他の人の場合も同じだ。

もっとも身近な音である自分の声が、他の人が聞いているようには聞こえないわけである。
自分が聞いている自分の声と、他人が聞いている自分の声とのギャップ、
このことが音を聴くという行為と、まったく無関係であるとは思えない。

Date: 4月 3rd, 2016
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(その2)

シェフィールドのダイレクトカッティング盤だけではない。
ときおり無性に聴きたくなる音がある。

それはシェフィールドのダイレクトカッティング盤でもあり、
ある特定のアンプやスピーカーシステム、スピーカーユニット、カートリッジであったりする。

それらはすべて製造中止になっているモノだ。
懐古趣味で、昔はよかった、と思い出したくてそれらを聴きたい、と思っているわけではない。
たいていの場合、特にアンプなどの電子機器は劣化もあるし、
そのころと現在とでは技術のレベルが大きく変っているところがあって、
あまりに期待しすぎると、こんな音だったかなぁ……、と感じてしまうことも少なくない。

そういうことがあるのをわかっていて、いまもう一度聴きたい、と思うのは、なぜなのか。
それも常に聴きたい、と思うわけではない。

ある時期は、あるアンプを、その時期がすぎればあるスピーカーの音を、
そしていまはシェフィールドのダイレクトカッティング盤を、というように、
その時々で、聴きたい、と思う対象は変っていく。

技術の変化は流れであって、その流れは音の変化を生んでいく。
時代時代に、大きな流れとしての、ひとつの音の傾向が主流となっていくこともある。
流行とまでは呼べなくても、主流と呼ぶのも、少し抵抗を感じながらも、
そういう音の流れ(傾向)は、たしかに存在しているし、存在してきた。

オーディオに関心をもつということは、そういうことに無関心でいることは難しい。
無関心、無関係でいることもできないわけではないだろうが、
それは私の求めるところではない。
多くの人がそうだろう、と思う。

そういう音の流れに対してのアンチテーゼがある、と思う。
昔は、そんなふうに思うことはあまりなかったけれど、
ときおり聴きたくなるモノ(音)をふりかえってみると、
アンチテーゼとしての「音」を、その時々で求めているようにも思えるのだ。

いまの私にとっての、アンチテーゼとしての「音」が、
シェフィールドのダイレクトカッティング盤の「音」である。

Date: 4月 1st, 2016
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(その1)

ときどき無性に聴きたくなるものが、私にはいくつかある。
そのひとつが、シェフィールドのダイレクトカッティング盤である。

1970年代後半、レコード会社各社からダイレクトカッティング盤が登場していた。
ほとんどすべてがオーディオマニア向けといってもよかった。

ダイレクトカッティングは演奏者にプレッシャー与えすぎるという理由で、
否定的なところもあったけれど、
うまくいったダイレクトカッティング盤の音は、たまらないものがある。

私の中では、ダイレクトカッティング盤といえば、
やはりシェフィールドのダイレクトカッティング盤である。

各社のダイレクトカッティング盤をすべて聴いているわけではない。
むしろ聴いていない数の方が多い。
そういう偏った聴き方の中での評価でしかないけれど、
シェフィールドのダイレクトカッティング盤の音は、
ダイレクトカッティング盤らしい音がしていた、と思う。

こんな説明ではダイレクトカッティング盤を聴いた経験のない人にはまったく通用しないのはわかっている。
でも、ダイレクトカッティング盤をうまく鳴らした音を聴いた人ならば、納得されるだろう。

たとえば音のふくらみ、というか、音量が増していくときのフワッとした自然さは見事だった。

シェフィールドのダイレクトカッティング盤は高かった。
6000円していたし、クラシックに関しては6500円だった。
買いたい、と思いながらも、結局一枚も買えなかった。

でも意外にもシェフィールドのダイレクトカッティング盤は聴く機会があった。
いまごろ、やっぱりどれか一枚買っておけばよかったなぁ、と後悔しているわけだが、
それよりも、なぜこうもシェフィールドのダイレクトカッティング盤を聴きたい、と思うようになってきたかだ。