「音楽性」とは(その1)
「音楽性」という言葉ほど、便利な言葉はないように思っている。
この機種は音楽性がある、とか、豊かだとか、もしくは貧弱だとか。
音そのものはよいが音楽性が感じられない、というふうに一刀両断にできたりもする。
音楽性とは、なんなんだろうか。
2006年暮、友人にさそわれて、とある高級オーディオばかりを扱う販売店の試聴会にでかけた。
スピーカーは2機種。どちらも1千万円弱(当時)する。
2つのスピーカーの厳密な比較試聴というよりも、それぞれの世界を味わってください、
という感じで、それぞれのスピーカーには、異るアンプとCDプレーヤーが組み合わされていた。
最後にかけられたのは、ラミレスのミサ・クリオージャであった。
ホセ・カレーラスのではなく、アルゼンチンの大御所、メルセデス・ソーサの歌唱によるもの。
はじめて聴くディスクだが、
それでも、あきらかにAのスピーカーから鳴ったソーサの歌い方はおかしい、と感じた。
ソーサほどの歌手が、ミサ・クリオージャをこんなふうに歪めて歌うわけがない。
こんな歌い方ではなく、敬虔に歌うはずである。
ミサ・クリオージャという音楽、メルセデス・ソーサをすこしでも知っていれば、そう思えるはず。
そんな疑問が消えぬうちに、もうひとつのスピーカーからソーサの歌声が鳴ってきた。
正しい歌い方だ。これは、もう直感だ。
なるほどAのスピーカーの世評は高い。ステレオサウンドでも、ひじょうに高く評価されている。
けれど、ミサ・クリオージャをこんなふうに歪めて鳴らしているということは、
ラミレスに関しては、音楽性を歪めている、と言い換えてもいいだろう。
このとき、音楽性という、この便利な言葉、とても曖昧な意味で使われることの多い言葉を、
すくなくとも、私自身の中で意味付けられるような感じがした。