Posts Tagged マーラー

Date: 7月 16th, 2014
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(その8)

再生音量設定の自由は、なにもコントロールアンプやプリメインアンプのレベルコントロールの操作だけではない。
スピーカーとの距離を変えるのも、音量設定の自由である。

私は20代のなかばごろ、QUADのESLを鳴らしていた。
パワーアンプはSUMOのThe Gold。
5.5畳ほどの狭い空間だった。

そこで鳴っていた音は、多くの人がイメージするESLの音量的な制約はほとんど感じさせなかった。
狭い部屋ということで、しかも長辺の壁にESLを置いていたから、
ESLと私と距離はほんとうに近い。

そういう環境でESLの仰角を調整していた。

そうやって得られた音は、マーラーの最新録音を鳴らしても不足は感じなかったし、
大丈夫だろうか、という不安も感じなかった。

私だけがそう感じていたわけではない。
それにやはりESLで同じ体験をされた人がいる。

ステレオサウンド 68号のスーパーマニアに登場されている朝沼吉弘氏だ。
吉弘は予史宏の変換ミスではなく、のちの朝沼氏予史宏氏の、このときのペンネームである。

Date: 7月 15th, 2014
Cate: ワイドレンジ

ワイドレンジ考(その84)

タンノイのKingdom(現行製品のKingdom Royalではない)は、
いまでも気になるパワーアンプが新製品として登場してくると、
このアンプで鳴らしてみたら、どんな感じになるのか、とつい想像してしまうほどに、
いまも気になっているスピーカーシステムのひとつである。

このKingdomは、私にとってJBLにとっての4350という存在と重なってくる。
いわばタンノイにとっての4350的スピーカーシステムが、Kingdomとうつる。

そして私の中では、マーラーを聴くスピーカーシステムとして4350を筆頭にしたいというおもいが、
いまもあって、これはなにも私がマーラーを聴きはじめたころと密接に関係してのことだから、
4350がマーラーを聴くのに最適のスピーカーシステムだというつもりはない。

それでも私にとって4350の特質をもっとも引き出してくれると感じているのが、
4350と同時代に盛んに録音されるようになってきたマーラーの交響曲だと感じている。

このことはどの時代の録音でマーラーで聴くのか、
誰の指揮でマーラーを聴くのか、とも関係しているのだが、
新しいスピーカーシステムでマーラーを聴いた時に感じる何かが不足している、と思えてしまう。

それは見事な音で再生されればされるほど、その不足しているものが気になってくる。
それがJBLの4350にはあると感じられるし、タンノイのスピーカーシステムではKingdomということになる。

激情が伝わってくる音で私はマーラーを聴きたい、
それもワイドレンジの音で、
ということになるから4350、Kingdomがいつになっても私の中から消え去ることがない。

Date: 9月 17th, 2008
Cate: 楷書/草書

楷書か草書か(その1)

アバドのマーラーは、私にとっては、1980年前後にシカゴ響との旧録のほうが、
そのなかでも交響曲第1番は、ひときわ印象ぶかいものとなっている。 

1982年夏にステレオサウンド別冊として出た「サウンドコニサー(Sound Connoisseur)」の取材で、
アバドによる第1番をはじめて聴いたとき、
第1楽章出だしの緊張感、カッコウの鳴き声の象徴といわれているクラリネットが鳴りはじめるまでの、
ピーンと張りつめた、すこしひんやりした朝の清々しい空気の描写に、
息がつまりそうな感じに陥ったのを、はっきりとおぼえている。

ステレオサウンドにはいってまだ数ヶ月。
長時間の、しかも数日続く試聴にまだなれていなくて、
さらに、たとえば4344の試聴にしても、4343との比較、
アンプも3通りほど用意してという内容だっただけに、
試聴室の雰囲気も緊張感がみなぎっていて、そこにアバドの演奏で、ぐったりになったものだ。 

いったい、何度聴いたのだろう……。

だからというわけではないが、じつは随分長い間、アバドの1番は聴いてこなかった。
なのに去年暮、ふと聴きたくなってあらためてCDを購入した。 
82年から25年の間に、いくつかの第1番を聴いた。
バーンスタインの再録ももちろん聴いている。 

ひさしぶりのアバドの演奏を聴いて感じたのは、
「このころのアバドは楷書で、バーンスタインは草書」ということ。 

こういう区分けはあまりやらないほうがいいのはわかっていても、
楷書か草書かで、自分の好きな演奏家や音を照らし合わせてみるのはおもしろい。