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Date: 1月 24th, 2014
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その11)

五味先生の本を読んだのか、と問えば、ほぼ間違いなく、読んだ、と返ってくるはず。
そこで、ただ読んだだけなのでは? と問えば、感動した、と返ってくるであろう。

だが感動とは、フルトヴェングラーの言葉が真理であるとすれば、
感動とは人と人の間にあるものであり、
同じ五味先生の本を読んでも、五味先生)(の本)と私の間にあるもの、
五味先生(の本)と別の人の間にあるものが、同じとは限らない。

同じところもあるだろうし、まったく違う感動なのかもしれない。
けれど、どう違っているのかははっきりとしない。

私と同じである必要はまったくない。
けれど、五味先生の本を読んで感動した、感銘を受けた──、
それがどの程度なのかは、「オーディスト」という言葉を誌面に載せてしまったあと、
ステレオサウンド編集部がどうしたのか(なにをしなかったのか)が、はっきりと語っている。

「オーディスト」は、ステレオサウンドに載せるべきではなかった。
けれど間違って載せてしまった。防ぐことはできたけれども、である。

その間違いそのものをいまさら否定しているわけではない。
その後のステレオサウンド編集部が、「オーディスト」を載せてしまったことに対し、黙りつづけていることに、
ステレオサウンド創刊から受け継がれてきた精神的支柱が喪失してしまっていることを指摘しているのである。

Date: 1月 20th, 2014
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その10)

あと二年ほどでステレオサウンドは創刊50年を迎える。
これだけの期間本が出ているわけだし、五味先生が亡くなられてからもすでに30年以上が経っている。

いまではステレオサウンドの読者も五味康祐という名前を知らないか、
もしくは五味先生の音楽、オーディオについての文章を読んだこともない人がいるだろうし、
そういう人が増えてきているのは、時の流れなのだから、どうしようもできないことなのかもしれない。

そういう読者からすれば、私が山口孝氏の「オーディスト」について、
これほどこだわって書く理由は理解できないかもしれない。

読者でそうであるならば、ステレオサウンドの編集者もそうであっても不思議ではない。

五味先生の著作集「オーディオ巡礼」は復刊された。
ステレオサウンドの編集者なら、
ステレオサウンドに入社する前、もしくは復刊された時に一度は読んでいるのかもしれない。

おそらく、読んでいる、という答が返ってくるはずだ。

だが、彼らのいう「読んだ」は、どういうことなのだろうか。
ほんとうに「読んだ」のであるならば、
ステレオサウンドの特集記事に一回、広告に一回、
「オーディスト」という言葉が活字になってしまったことに、どうおもっているのか、
それを私は問いたい。

こんなことは書きたくはないが、
オーディスト(audist)は聴覚障碍者を差別する人・団体という意味をもつ。
つまりは、ステレオサウンドの読者を、そう呼ぶのであれば、
ステレオサウンドの読者は、五味先生を差別する人ということになるからだ。

だから、こうやって、傍からみればしつこいと思われようと、書く。

Date: 1月 19th, 2014
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その9)

編集部のシステムとしての問題については、
おそらくこうではないだろうか、という想像はつくし、
二、三、そのことに関することを耳にしている。

とはいえ、ここでいくらぼかして書いても、迷惑をかけてしまうだろうから、書かないでおこう。

編集部のシステムとしての問題は、外部からいくら指摘されたところで、
本人たちが自ら気がつかないことには解決されることはないのも事実だから。

それでも、なお「オーディスト」についてこうやって書いているのは、
ステレオサウンドで、「オーディスト」が使われたからである。
しかも記事と広告とで、二回もである。

山口孝氏の「オーディスト」はステレオサウンド以前に、無線と実験で使われていた(とのことだ)。
ステレオサウンド 179号で使われたあと、
ステレオサウンドの姉妹誌であるHiViでも、「オーディスト」は使われていた。

亀山氏だったと記憶しているが、
読者数人を集めての記事で、オーディオマニアの読者を「オーディスト」と呼ばれていた。

もしステレオサウンドで「オーディスト」が使われなかったなら、
他のオーディオ雑誌で使われようと、そしてオーディスト(audist)の意味を知ったあとでも、
ここに書くことはしなかっただろう。

ステレオサウンドで使われたから書いているのだ。
ステレオサウンドは創刊のときから、五味先生が精神的支柱となっている。
そのステレオサウンドで「オーディスト」を使うということは、私はどうしても無視できない。

Date: 4月 11th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その8)

どんな本にも誤植が完全になくなるということは、ないのかもしれない。
大出版社であろうと小出版社であろうと、誤植のある本を一度も出したことはない、ということはまずない。

どんなに細心の注意を払って、何人もの人が何度も校正したとしても、
不思議とすり抜けてしまう誤植がある。

しかも、そういう誤植は、これまた不思議と本に仕上ってしまうと、
いとも簡単に見つかってしまうことも多い。

初版で見つけた誤植は、次で直せればいいけれど、
雑誌はそういうわけにはいかない。第二版、第三版などは雑誌にはない。

ステレオサウンド 185号の「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」は、
いわゆる誤植ではない。
これはすり抜けさせてはいけない間違いである。

過去のステレオサウンドに、間違いがひとつもなかったかというと、そうではない。
私がいたときも間違いはあった。
それ以前もあったし、それ以降もある。

でもそういう間違いと、185号の「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」とでは、
少々事情が異る。

技術的な事柄に関しては、
特に海外製品の場合、ほとんど資料がないこともあるし、
資料があったとしても抽象的な表現で、何が書いてあるのか(言いたいのか)はっきりしないこともある。
またそこに投入された技術が新しすぎて、理解が不充分なこともある。
それでも新製品の紹介記事では、少しでも情報を多く読者に伝えようとするあまり、
間違いが起きてしまうことだってある。

そういう間違いを見つけても、ことさら問題にしようとは思わない。
185号の「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」は、
本来なら間違えようのないことで、編集部はミスを犯してしまっている。

なぜ「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」がすり抜けて活字になってしまったのか。

新製品ページの担当編集者は、高津修氏から原稿を受けとる。
そこで当然もらった原稿を読み、朱入れが必要ならそうする。
その原稿を編集長がチェックする。それで問題がなければ次の段階に進む。

以前は、この段階を「写植にまわす」といっていたけれど、いまはなんというのだろうか。
写植があがってきたら、コピーにとり、そのコピーを編集部全員が読み校正する。
そして青焼きが、次の段階であがってくる。

ここでも私がいたときは文章のチェックをしていた。

本来ならば、青焼き以前で校正はしっかりと終えておかなければならないのだが、
写植の段階の校正ですり抜けてしまう誤植やミスがあるから、ここでも校正する。

時にはけっこう大きなミスがあって、
バックナンバーの版下を取り出してきて、活字を切貼りしたこともある。
常に締切りをこえて作業していたから、自分たちで最後は手直しということになってしまう。

いまはパソコンでの処理が大半だろうから、
細部では違いがあっても、原稿を届いて青焼きを含めて、
編集部全員によって複数回の校正がなされるわけだ。

にも関わらず「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」がすり抜けてしまったのは、
考えられないことである。

これがトーレンスのプレーヤーではなく、
新進メーカーの、新技術を投入したアンプであれば、
技術的なことは触っただけではわからないのだから、仕方ない面もあるのだが、
何度も書くけれど、トーレンスのプレーヤーについては触ればわかることだし、
オーディオ雑誌に携わっている者、オーディオを趣味としている者ならば、
トーレンスのプレーヤーがどういう構造なのかは、すくなくとも言葉の上ではわかっているのが当然である。

ここに編集部のシステムとしての問題がある。

Date: 4月 10th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その7)

現在のステレオサウンドの編集部のオーディオの知識がどれだけのレベルなのかはわからない。
けれど、トーレンスのプレーヤーがフローティング型かどうかは、
よほどの初心者でない限り間違えようがない。

仮に勘違いで高津修氏の原稿を編集部が
「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」と書き換えたとしよう。
そうなると編集部は高津修氏に断りもなく書き換えたことになる。

高津修氏に事前に、ここがおかしいと思うので書き換えたい、という旨を伝えたのであれば、
高津修氏が「TD309はフローティング型だよ、資料を見てごらん」といったやりとりがあるはず。
それで編集部が資料にあたるなり、TD309の実機にふれるなりすれば、すぐにフローティング型ということはわかる。
にも関わらず「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」が活字となって、
ステレオサウンド 185号に掲載されている。

私がいたころは、その記事の担当者が試聴に立ち合うし、試聴記の操作も行う。
このシステムが、いまのステレオサウンドでは違うのだろうか。
試聴室で試聴に立ち合う人と記事の担当者が別とでもいうのだろうか。
だとしても、トーレンスのプレーヤーがフローティング型であることは、あまりにも当り前すぎることであり、
仮にフローティング型でなかったとしたら、高津修氏の原稿も、
トーレンスがフローティング型ではなくなったことから書き始めるのではないだろうか。

この件は考えれば考えるほど、ほんとうに奇妙なことである。
私が考える真相は、もう少し違うところにあるのだが、それについてはここで書くことではないし、
書きたいのは、なぜ
「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」が活字になってしまったかである。

Date: 4月 10th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その6)

ステレオサウンドのサイトに、昨年の12月10日、
季刊ステレオサウンド185号(2012年12月11日)に関するお詫びと訂正」が載った。

そこには、185号の新製品紹介のページに掲載されているトーレンスのTD309について、
「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」という、
事実とは異る記述があるというもので、
「これは編集部の校正ミス」ということになっている。

185号発売日の前日に、これが載ったということは、
おそらく見本誌を見た輸入元から事実と異るというクレームがあったから、だと思う。

このお詫びと訂正に気づかれていた人も多いだろう。
でも、この「お詫びと訂正」はよく考えれば、実に奇妙なところがある。

校正ミスとある。
これをバカ正直に信じれば、TD309の試聴記事を書かれている高津修氏が書かれているわけだが、
高津修氏の原稿に「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」と書いてあり、
そのことを編集部が見落していた、ということになろう。

でも、そういうことがあるだろうか。
トーレンスのプレーヤーはフローティング型で知られているし、
試聴で実際に触れれば、すぐにフローティング型がそうでないかとわかる。
資料がなくても、すぐにわかることであり、誰にでもわかることである。

つまり高津修氏の原稿に
「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」と書いてあったとは考えにくい。
となると編集部が高津修氏の原稿を書き換えた(それも間違っているほうにへと)ということになる。
でも、これも考えにくいことである。

Date: 4月 9th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その5)

いくつかの呼称がある。
オーディオマニア(audio mania)という呼称が一般だったが、
maniaの意味は、熱狂的性癖、……狂だから、これを嫌う人たちもいて、
1980年代にはいってから、もっとスマートな呼称としてオーディオファイル(audio phile)が登場してきた。
(それにしても最近の「性癖」の使い方は間違っていて、性的嗜好の意味で使われることが目につく)

そして菅野先生によるレコード演奏家も生れてきた。

古くには音キチという呼び方もあった。
音キチガイの略であって、いまこれを使っている人は稀であろう。

オーディオに、一般的な人には理解不能なぐらい情熱をかたむけている人をどう呼ぶか(呼ばれたいか)。
人によって違う。
私などは、何者か? と問われれば「オーディオマニア」とためらうことなく答えるけれど、
オーディオファイル、オーディオ愛好家という人もいるし、
私はそう名乗ることはないけれど、レコード演奏家と口にされる人もいる。

どう呼ばれるかには、こだわりがあるのだろう。
だからいくつもの呼び方が登場しているわけだ。

山口孝氏による「オーディスト」が、そこに加わるかたちとなった。

雑誌の編集者の仕事は実に雑多で多岐であり、
その仕事の中には、新語・造語に対しての判断も含まれている。

ステレオサウンド編集者は、179号の時点で、
山口孝氏からの原稿を届いた時点で、「オーディスト」について調べ、
すでに存在している言葉であるのならば、その意味を確認する必要があったわけだ。

けれどステレオサウンド編集者は、それを怠った。
なぜ怠ったのか。

それは山口孝氏の熱心な読み手と同じだったからではないのだろうか。

Date: 4月 8th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その4)

ようするに、山口孝氏の熱心な読み手である、その人は、
山口孝氏による造語ともいえる「オーディスト」を、なんら疑うことなく賞讃していたともいえる。

そこには、その人がいままで読んできた山口孝氏の文章によってその人のなかにつくられていった、
ある種の知名度が関係しているのかもしれない。

これがもし他の人、
たとえば山口孝氏とは正反対のところでの書き手による造語としての「オーディスト」であったなら、
山口孝氏の熱心な読み手は同じように「オーディスト」を疑うことなく受け入れ賞讃したであろうか。

この態度は、はたして読み手として正しいといえるのだろうか。
特に造語として登場してきた「オーディスト」に対して、それでいい、といえるのだろうか。
山口孝氏の熱心な読み手は、
山口孝氏による「オーディスト」だからということで、考えることを放棄しているようにも見える。

私は山口孝氏による「オーディスト」になんら感心しなかったから、
その意味を調べるまでに一年以上経ってしまった。
ゆえにあまり人さまのことはいえないといえばそうなのだが、
だからといって、いわずにすませておける問題ではなく、
それは読み手以上に、送り手である編集者にとっては致命的ともいえることにつながっているはず。

Date: 4月 7th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その3)

山口孝氏による「オーディスト」を見て、私がまず連想したことは語感のいごこちの悪さと、
オーディストとカタカナ表記したときに、なんとなくヌーディストと似ているところも感じていて、
山口孝氏が「オーディスト」に込められているものは理解できていても、
素直に「オーディスト」を自分でも使いたいとは、そしてそう呼ばれたいとも、まったく思わなかった。
(念のため書いておくが、まだこのときはaudistの意味を調べていなかった)

私はそう思っていたし、そう感じていたわけだが、
「オーディスト」を積極的に評価されている人がいたことも知っている。
熱い口調で「オーディスト」について語られたことも、実はある。

その人の気持は分らないでもないが、
正直、その熱い口調で語られれば語られるほど、
「オーディスト」がそれほどいいことばとは思えなくなっていっていた。

つまり私は「オーディスト」に対してまったく感心するところがなかった。
だから無関心であり、自分でオーディストの意味を調べようと思うまでには、一年以上経っていた。

私はそうだったわけだが、
「オーディスト」への感心をつよく持っている人もいたのも事実。
感心すれば関心も出てこよう、と私はおもう。
その人たちは、オーディスト(audist)が、すでに存在しているかどうか、
存在しているとしたら、どういう意味を持つのか、
いまではインターネットのおかげで調べようと思えば、すぐにわかることを調べなかったのか、とも不思議に思う。

私に「オーディスト」について熱い口調で語った人は、
山口孝氏の熱心な読み手である。
私はというと、山口孝氏の熱心な読み手とは、とてもいえない読み手でしかない。

私の場合、熱の無さが調べるまでに一年以上かかることにつながっていったわけだが、
熱心な読み手である、その人は山口孝氏による造語だからと、そのまま受け入れたといえよう。

Date: 4月 6th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その2)

ピアノ(piano)を弾く人をピアニスト(pianist)という、
ヴァイオリン(violin)を弾く人をヴァイオリニスト(violinist)という、
チェロ(cello)を弾く人をチェリスト(cellist)という。

オーディスト(audist)は、だからオーディオを弾く人、というように理解できる。
ステレオサウンド 179号に掲載されている山口孝氏の文章で、
私はこの「オーディスト」という言葉を目にした。

目にして、山口孝氏による「レコード演奏家」の表現でもある、と思った。

「レコード演奏家」は菅野先生が提唱されている。
ステレオサウンドから「新レコード演奏家論」が出ている。

レコードを演奏する、ということについては、拒否反応を示される人、
反論される人がいることを知っている。
ここでは「レコード演奏家」についてはこれ以上ふれないけれど、
「レコードを演奏する」という表現は、何も菅野先生が最初に使われていたわけではない。
菅野先生が「レコード演奏家論」を書かれるずっと以前から、
瀬川先生も「レコードを演奏する」という表現を使われている。
それも、かなり以前から使われている。

ということは、そのころにオーディスト(audist)という言葉を思いついた人もいたのではないか、と思う。
でも山口孝氏が「オーディスト」を使われるまで、私は目にしたことがない。

なぜだろうか。
誰も思いつかなかった、という理由もあげられるだろう。
けれど、どうもそうとは思えない。
「レコードを演奏する」という表現が使われていながら、
ヴァイオリンによって音楽を演奏する人をヴァイオリニスト、
ピアノによって音楽を演奏する人をピアニスト、というのならば、
オーディオによって音楽を演奏する人をオーディストと呼称する人があらわれてもなんら不思議ではない。

オーディストという言葉は、audioにistをつけただけであり、
ひねりも工夫もそこには感じられない。

なぜ、誰も使わなかったのか。
それは、オーディスト(audist)が、
聴覚障碍者を差別する人・団体という意味で、アメリカでは使われているからである。
それもかなり以前から、である。

Date: 4月 5th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その1)

昨年の8月13日に、
オーディオにおけるジャーナリズム(無関心だったことの反省)」というタイトルで書いている。
リンク先を読んでいただければわかるように、詳細についてはあえて書かなかった。
言葉狩りが目的ではなかったし、その言葉が使われなくなるのであれば、
それに私自身もその言葉を最初見た時に無関心であった──そのことへの反省もあった──、
そして、もうその言葉をそのオーディオ雑誌で見かけることは今後ないという保証に近いこともあったため、である。

他のオーディオ雑誌ではときどき使われていた(掲載されていた)、
その言葉は少なくともステレオサウンドの誌面には登場することはなかった。
だから、「オーディオにおけるジャーナリズム(無関心だったことの反省)」については、
もう書くこともないだろう、と思えていた。

けれど、いま書店に並んでいるステレオサウンド 186号に、その言葉が載っている。
「オーディスト」という、山口孝氏による、いわば造語としての「オーディスト」が、
編集部による記事ではなく、広告で何度も使われている。
リンジャパンの広告の文章は、今回山口孝氏が書かれている。

私が、この「オーディスト」をはじめて目にしたのは、
2011年6月発売のステレオサウンドだった。
この号は、2011年3月11日の三ヵ月後に出ている。
巻頭エッセイとして、「今こそオーディオを、音楽を」というタイトルで、
柳沢功力、菅原正二、山口孝、堀江敏幸の四氏が書かれていて、
山口孝氏の文章と見出しとしても、「オーディスト」は大きく誌面に登場している。