Mark Levinsonというブランドの特異性(その30)
マスターテープにも、そしてわれわれリスナーの手に渡るレコードにも、
演奏者が発した音があます所なくすべて含まれていることは、ない。
まずマイクロフォンがすべての音を拾える位置に置かれるわけではない(そういう位置が存在するのかも疑問だが)。
さらにマイクロフォンがすべて空気振動を捉えて電気信号に変換できているわけでもないし、
マイクロフォンからミキサーまでの伝送経路でも音のロスは若干とは言え生じているし……、
こんなふうにひとつひとつを見ていくと、われわれの手もとにあるレコードになるまで、
いったいどれだけの音が失われ、また色づけや雑音と呼ばれる附加される音もある。
世の中に十全なレコードは存在しない。
しかし、その不完全な記録にも関わらず、そこにおさめられている音楽に感応し、
ワクワクドキドキすることもあれば、感動で涙することもある。
録音のプロセスで失われる音、つけ加えられる音があるということは、そのまま再生のプロセスにもあてはまる。
なにかがなくなり、なにかがつけ足される。
しかも録音の空間と再生の空間は、まったくの別空間であり、時間差もある。
最新録音でも数ヵ月から1年ほどだろうか、古い録音となると、生まれる前の時代の音を聴いている。
それでも、そこで奏でられている音楽を身近に感じたことは、
だれしも、オーディオを真剣にやっていれば、必ずあるはずだ。
同じ場で同じ音を聴いて、ある人は身近に感じ、別のひとは遠くに感じる。
なぜ、そんなことが起きるのか。