Date: 10月 20th, 2018
Cate: 菅野沖彦
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菅野沖彦氏のこと(その9)

菅野先生と黒田先生の発言のあとは、こう続いている。
     *
菅野 煮つめていって同じであることをはっきりさせようっていうんですか。
黒田 いやそうじゃなくて、本当にいっしょになっちゃうのか、それとも全然別のことをお考えになってるか。
菅野 なるほど。いやそりゃねえ、煮つめりゃ同じですよね。だけれどもこれはやっぱり登り道がちがうし、見る景色の見方がちがうでしょうね。だけどその、その奥を煮つめればね、これはやっぱり同じになりますね。
黒田 同じになっちゃう。
菅野 なりますね。まちがいなくね。
     *
五味先生が、菅野先生と瀬川先生の音を聴かれたのは、1970年のことだ。
菅野先生も瀬川先生も30代。
登り道の途中である。

そういう二人の登り道の違いを、五味先生は聴かれていたのか、とも思うし、
五味先生の登り道は瀬川先生側であること、
つまりプレゼンスであることは、「五味オーディオ教室」を読んでいても、はっきりとわかる。

五味先生は「五味オーディオ教室」に書かれている。
ステージの重要性を書かれている。
     *
 つまりいかなる場合も、ピアノはステージに置かれていなければならない。スピーカーは、そのピアノのどっしりした安定感をまず出さねばならない。いろいろな機種の比較試聴のすえにようやく、私はこのことを知った。いい再生装置ほどピアノではなくピアノから響き出た音を、聴かせてくれることを。パラゴンが拙宅のオートグラフに勝るのは、衝撃音の鮮明さだけのように思えた。つまり歯切れがいいだけであるように。
 レコードで音楽を聴く場合、音楽を流しているのはスピーカーではない。鳴っているのは、じつは部屋の空気そのものだ、ということにようやく私は気がついたのだ。つまりスピーカーそれ自体は単なる一機能にすぎない。エンクロージァ全体が、さらに優秀な場合は部屋の空気の隅々が、音楽を満たすようにできているものなので、専門家ならわかりきったことと言うにきまっている。
 がしかし、実際に、空気全体が(キャビネットや、ましてスピーカーが、ではない)楽器を鳴らすのを私はいまだかつて聴いたことがない。鳴っているのはスピーカーのコーンでありキャビネットであった。今、空気が無形のピアノを、ヴァイオリンを、フルートを鳴らす。これこそは真にレコード音楽というものであろうと、私は思うのである。

 さてわれらのタンノイである。たとえば『ジークフリート』(ショルティ盤)を聴いてみる。「剣の動機」のトランペットで前奏曲が「ニーベルングの動機」を奏しつつおわると、森の洞窟の『第一場』があらわれる。小人のミーメに扮したストルツのテナーが小槌で剣を鍛えている。鍛えながらブツクサ勝手なごたくをならべている。そこへジークフリートがやってくる。舞台上手の洞窟の入口からだ。ジークフリートは粗末な山男の服をまとい、大きな熊をつれているが、どんな粗雑な装置でかけても多分、ミーメとジークフリートのやりとりはきこえるだろう。ミーメを罵り、彼の鍛えた剣を叩き折るのが、ヴィントガッセン扮するジークフリートの声だともわかるはずだ。しかし、洞窟の仄暗い雰囲気や、舞台中央の溶鉱炉にもえている?、そういったステージ全体に漂う雰囲気は再生してくれない。
 私は断言するが、優秀ならざる再生装置では、出演者の一人ひとりがマイクの前に現われて歌う。つまりスピーカー一杯に、出番になった男や女が現われ出ては消えるのである。彼らの足は舞台についていない。スピーカーという額縁に登場して、譜にあるとおりを歌い、つぎの出番のものと交替するだけだ。どうかすると(再生装置の音量によって)河馬のように大口を開けて歌うひどいのもある。
 わがオートグラフでは、絶対さようなことがない。ステージの大きさに比例して、そこに登場した人間の口が歌うのだ。どれほど肺活量の大きい声でも、彼女や彼の足はステージに立っている。広いステージに立つ人の声が歌う。つまらぬ再生装置だと、スピーカーが歌う。
     *
おそらく、でしかないが、五味先生にとっての肉体の復活を感じさせる音に不可欠なことは、
ステージの再現だった(はずだ)。

そのことは、「五味オーディオ教室」の冒頭、
つまり菅野先生の音について書かれているところにも、ある。
《たとえて言えば、ステージがないのである》と。

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