続・再生音とは……(こだわる・その3)
中学一年のことだから、まだ「五味オーディオ教室」に出逢う前のことだ。
クラスで、A0くらいの大判の紙に好きなことを書こう(描こう)ということになった。
書きたい人だけで、ということだった。
私は鉄腕アトムの絵を描いた。
できるだけ正確に描きたいと思った私は、
元の絵に、薄くマス目を描いた。
描く先の紙にもマス目を薄く描いた。
マス目の大きさは拡大して描くので、その分大きくしていた。
元の鉄腕アトムを描いている線が、
マス目のどのあたりを通っているのか、それを丹念に見ては、同じところを通るように描いていった。
小学生のころから、手塚治虫のキャラクターはよくまねて描いていたから、
鉄腕アトムにしても、こんなめんどうなことをしなくとも、ある程度は描けていた。
それでも、このときはそっくりそのままの鉄腕アトムを描きたかった。
結果は、元の絵と寸分たがわず拡大したものが描けた。
クラスの半分くらいが好きなことを書いた(描いた)紙は、教室の壁に張られた。
社会科の時間だったか、先生が、私が描いた鉄腕アトムを指さして、
ひじょうにうまく描けているけれど、手塚治虫が描いたものではない、ということをいわれた。
なぜ、授業中にそんなことをわざわざ話されたのかまでは、いまとなっては憶えていないが、
いまごろになって、ふと思い出した。
いわれるとおり、どんなにうまく、というよりも正確に描いたところで、
私が描いた鉄腕アトムは、手塚治虫が描いた鉄腕アトムではないのは事実である。
鉄腕アトムに限らず、マンガはマンガ家が描いた原画が印刷所にまわされて、
大量に印刷されて本になり、市場に出回る。
週刊誌の紙の質はそれほどいいわけではない。
そこに印刷されているわけだが、
それでも、そのマンガの読み手は印刷されたキャラクターを、
そのマンガ家が描いたものとして認識する。