日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く・その16)
喫茶茶会記のアルテックでグラシェラ・スサーナを、
特に聴きたいと思わなかったのは、それまで鳴らしてきた女性ヴォーカル、
それらの日本語の歌に聴き惚れることがなかったためでもある。
宇多田ヒカルはまるで鳴らない、と感じている。
宇多田ヒカルのディスクをもっていないから、自分のシステムで聴くことはない。
あくまでも喫茶茶会記で鳴っている音でしか判断できないのだが、
そこでの日本語に何ら魅力を感じない、というから、感じられないのである。
グラシェラ・スサーナによる日本語の歌を聴くのとは違う態度で、
宇多田ヒカルの音楽に接するのであれば、魅力を感じないわけではないが、
日本語の歌とのひとつとして聴こうとすると、私はダメである。
5月のaudio wednesdayでは竹内まりやも、よく鳴らなかった。
松田聖子は、というと、ほぼ毎回聴いているけれど、魅力を感じているわけでもない。
何が違うのだろうか、とやはり思う。
どれも日本語の歌にも関わらず、
日本語の歌としては、多少キズのあるといえるグラシェラ・スサーナの歌が、
いちばん私の心に響くのはなぜなのか。
おそらく美空ひばりをかけたら、聴き惚れるであろう。
そう思えるのは、そこでの声(歌)が、陰翳を求めているのか、
必要としていないのかの違いからかもしれない。
グラシェラ・スサーナも美空ひばりも、その声(歌)は陰翳を求めている。
宇多田ヒカルがそうとは思えない。
松田聖子にしても、そうであろう。
ここで、そうだ、と思い出すのは5月のOTOTENでの、
あるブースで鳴っていた美空ひばりの声(歌)である。