Date: 8月 2nd, 2016
Cate: ステレオサウンド
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ステレオサウンドについて(その47)

ステレオサウンド 50号巻頭座談会のでの瀬川先生の発言に感じた同種のものを、
ずっと後になって感じたことがある。

2011年だったか、ある人から古いオーディオ雑誌をまとめて譲ってもらった。
その中に、ステレオ誌(1979年5月号)があった。
池上比沙之氏による「音に生き、音に死んだ男の伝説 岩崎千明考」が載っていた。
     *
 とりわけ、2人の仕事を注目し、尊敬していたぼくにとっては、奇妙にも2人とも死の一週間前に会って、逆にはげましの言葉をかけられていただけに、冷静に彼らの世界を語ることすら難しいのである。だが、中野宏昭の仕事に関する考察は別の機会に行うとしても、岩崎千明の、あの大音量再生に秘められた生き様は明らかにしていかねばなるまい。
 昭和51年の秋頃だったろうか。

ぼくは東京・六本木の交差点で
偶然、岩崎千明に声をかけられた。
 同じ雑誌に原稿を書いていたこともあって、世間話は幾度となく交わしている間柄であったが、それまで膝をかかえて〝生き方〟を語るといったことはなかった。何回かその機会もあったのだが、互いのシャイな部分が向いあうことになり、他愛のない話に終始した。ところが、この日の岩崎千明は違っていた。いきなり、
「お茶でも飲もうよ」
といって、先にスタスタ歩き出した。常に他人に対して気を使う岩崎千明にしては珍らしいストレートな行動だったので、いまだに一部始終を鮮明に記憶している。入った店は、交差点際の古ぼけたコーヒー・ショップ「エリゼ」。2Fの一番奥の窓際のボックスに坐るなり、
「オーディオはもう駄目だね。救いようがないよ。ボクにも責任はあるんだけどさ、誰かがちょっとぐらいがんばったってどうなるもんでもないぐらい駄目だ」
といって深くため息をつくのである。その時の、岩崎千明の目は実に悲しげであった。その日、彼になにがあったかは知る由もない。そして、この唐突な告白が突発的な感情の吐露ではなく、彼の晩年を支配していた絶望感であったことをぼくが知るのは、死の直前になってからだった。「音楽のオの字もなくって、オーディオ製品が語られたりさ、アンプが目方で判断されたりしてたら、そのうちツケがまわってくるよ。もうオーディオ評論家なんて先が見えてるね。ね、ジャズの話をしよう、ジャズの話を。なんかいいレコード見つけた?」それから、ぼくらの会話はジャズに移った。その時、ぼくが彼に示したレコードは、ビル・エバンスの「ポートレイト・イン・ジャズ」とか、ウェス・モンゴメリーのリバーサイド盤「インクレディブル・ジャズ・ギター」などの、50年代後半から60年代前半に録音された秀作群であった。ぼくが、クロスオーバー系音楽を中心とする新しいジャズに肩入れしていることを知っている彼は、ニヤリと笑って、「な、そうだろ。あんただってあのへんのジャズを聴けばいいと思うよな。あの時代の音がね、20何年も経ってるいま、オレの部屋で鳴ってるのかと思うと、ゾクゾクする時があるんだよ。長い年月が過ぎても残っているっていうのは、いいから残るんだよな」と、一気にたたみかけてきた。

この日、岩崎千明はジャズのことばかり、
なにかに憑かれたように話し続けた。
 一体、彼が半生を費して愛し続けたオーディオの世界はどこに行ってしまったのだろう。
     *
1976年秋の六本木の出来事が書かれている。
ちょうど同じころ、私は「五味オーディオ教室」と出逢っている。

そのとき岩崎先生は、
「オーディオはもう駄目だね。救いようがないよ。ボクにも責任はあるんだけどさ、誰かがちょっとぐらいがんばったってどうなるもんでもないぐらい駄目だ」
といってため息をつかれている。

1976年でもそうだったのか……、と。
オーディオの世界だけの話ではない。
およそすべてがそうであるはずだが、趣味として楽しんでいる人たちと、
それを仕事としている人たちの間には、こういうことが生じてくる。

仕事として、その業界に属しているといろいろなことが見えてくる。
それは趣味として楽しんでいる人たちは、
まったくといっていいほと見えないようになっていることまでが見えてくる。

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