羽二重(HUBTAE)とオーディオ(その11)
音について語られた文章は、以前はオーディオ雑誌で読むのがほとんどだった。
少なくともオーディオ評論家と呼ばれている人たちの、しかも編集者の目を経た文章であった。
いまは違う。
インターネットには、あのころとは比較にならないほど多くの音について語られた文章が、溢れている。
どんな人が書いているのか、まったくわからないものもある。
それらの大半は、編集者という第三者の目を経ることなく、公開されている。
それらすべてをオーディオ評論と呼べるのなら、
オーディオ評論が溢れているし、これからも減ることはないであろう。
Facebook、twitterといったSNSをやっていると、
特に見ようと思っていなくとも、音について語られた文章が目に入る。
昔は個人の音の印象は仲間内だけであった。
いまはそうではない。
その人をまったく知らない人の目にも留る。
そうなると、仲間内で好きに語っていたときと同じ感覚で音について語っていいものだろうか。
「アマチュアだから、いいじゃないか」、そう言い切れるだろうか。
そうやって書かれた文章を読むと、耳のいい悪いではなく、聴き方の巧みさは必ずしも同じではないことを思うし、
鍛えられた耳とそうでない耳との違いについて考えてしまう。
自己流の聴き方の怖さも感じる。
「アマチュアだから、好きに聴いていいだろう」、たしかにそうである。
けれど仲間内から一歩でも出て、音について語るのであれば、そのままではまずい。
東京では、今年のオーディオのショウは終ってしまった。
去年もそうだったが、ショウがあると、音の触見本の必要性をいつもより強く感じる。