Date: 8月 12th, 2010
Cate: 朦朧体, 瀬川冬樹
Tags:

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(余談)

オーディオ機器への関心はあっても、
知識はほとんどなかったころに読んだ「コンポーネントステレオの世界 ’77」でも、
なんどか読んでいるうちに、おぼろげながらではあるけれど、他の方たちにくらべて、
瀬川先生のつくる組合せには、なにか違うものがあるように感じていた。

「コンポーネントステレオの世界」はその後も、暮に出ていた。
それを読んでも、ステレオサウンド本誌上での組合せや、そのことに関する発言を読んでいても、
よい悪いではなく、他の人と、あきらかに組合せのセンスが違う、という印象は深まっていっていた。

そうともいえるし、一方で、瀬川先生の組合せの感覚が、私に「合った」ということだけともいえる。

組合せをつくるうえで大事なのは、各コンポーネントの相性であり、
これはつまり「合う」か「合わないか」ということになるだろう。
でも、ある形をしていたものが、ぴったり合わせるという意味での「合う」「合わない」ではなく、
あくまでも個人個人の感覚による「合う」「合わない」であり、
このスピーカーとこのアンプは合う、いいかえれば相性がいい、と感じるのは、
その組合せ(つまりスピーカーとアンプの相性)がぴったりなのではなく、
あくまでもそのスピーカーとアンプが鳴らす音と、それをよいと感じた「私」との相性がいいことになる。

となると、瀬川先生のつくる組合せに魅力を感じていたわけだが、それはいま思うと、
たしかに「合っていた」ところもあっただろうが、
瀬川先生の感覚に「合わせよう」としていたところが、むしろ大きかったのかもしれない。

それでも、やはり瀬川先生の組合せのセンスは、なにか光るものがあった。

オーディオ評論家は、音をうまく表現する能力だけではなく、この組合せをつくる能力・感覚において、
他のひととは違う、その人だけの光るものもてるように磨いていくべきではなかろうか。

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