Audeum Audio Museum
昨晩、ソーシャルメディアを眺めていたら、
驚くしかない動画が表示された。
韓国にあるAudeum Audio Museumである。
説明は不要だろう。
とにかくリンク先をクリックしてほしい。
驚かれるはずだ。
私は驚くとともに、負けた、と感じていた。
日本には、ないからだ。
「韓国 オーディオミュージアム」で検索すると、
オーディオとはまったく関係ないところに記事があった。
この記事を読んで、また負けた、と感じていた。
昨晩、ソーシャルメディアを眺めていたら、
驚くしかない動画が表示された。
韓国にあるAudeum Audio Museumである。
説明は不要だろう。
とにかくリンク先をクリックしてほしい。
驚かれるはずだ。
私は驚くとともに、負けた、と感じていた。
日本には、ないからだ。
「韓国 オーディオミュージアム」で検索すると、
オーディオとはまったく関係ないところに記事があった。
この記事を読んで、また負けた、と感じていた。
誰も仏をみたことがないわけで、
仏が人間と同じような姿かたちなのか、それすら誰もわからないのに、
人間の姿かたちに近い仏像が世の中には存在しているし、
そのことに疑問を抱いたとしても、
仏像を仏の姿かたちとして受け止めているのは、
なんともふしぎなこと。
そのうえで、では仏像は何をあらわしているのか。
仏の姿かたちではないことは明白で、
つまるところ仏の心なのだろう、
というところに行き着くのではないだろうか。
仏の「心」だとして、オーディオの場合は、何なのか。
多様性。
数年前から、頻繁に目にしたり耳にしたりするようになった。
ではオーディオにおける多様性とは? と考えると、
まずスピーカーの数だけの多様性があると言えるだろうし、
それからオーディオマニアの数だけの多様性が、そこに加わるはずである。
けれど実際にそうなのだろうか。
インターネットの普及、
さらにはソーシャルメディアの普及と増していく手軽さが、
多様性を浮き彫りにしてくれるかのようであるが、
反対に、多様性を狭めていっているようにも、最近は感じ始めている。
引越しして約三週間。
以前の部屋では単なるラック(使わない機器の収納)として使っていただけのエレクターのワイヤーシェルフ。
いまの部屋では、このエレクターに、
KEFのModel 303、サンスイのAU-D607、テクニクスのSL01、
ヤマハのK1d、パイオニアのExclusive F3を収めている。
そんなに幅広のラックではないから、
KEFのスピーカーの間隔は、かなり近い。
それにワイヤーシェルフだから、オーディオ機器の置き台としても好ましいとは言えない。
このシステムはメインではないから、
なんとなくラジカセ的に捉えている。
電波の入りは良くないから、ラジオの受信は良好ではない。
でもラジオは聴けるし、カセットテープもレコードも聴ける。なんとなくラジカセじゃないか、そんなふうに思ってみると、
ワイヤーシェルフのままでもいいかな、となる。
エレクターは黒。スピーカーもアナログプレーヤー、カセットデッキ、
プリメインアンプも黒。
チューナーだけ仕上げも製品の格も違うから、
できれば黒のチューナーで統一したい気持もあるが、
チューナーは、やっぱりコレ(Exclusive F3)だ。
エレクターは固定脚だが、キャスターにするのもいいかな、と思うのは、
(その24)でも引用している黒田先生の文章の影響からだ。
7月3日の最初の曲は、
エーリッヒ・クライバーによる「フィガロの結婚」。
第一幕を最後までかけた。
来られた方たちの中には、退屈された人もいたかもしれないが、
私は、このまま第二幕、第三幕、第四幕、
つまり「フィガロの結婚」だけをかけていたかった。
いまの時代、エーリッヒ・クライバーの「フィガロの結婚」は、
どういう評価をされているのだろうか。
特に知りたいわけでもないが、
なんだか忘れ去られようとしているのかも……、
そんなふうに思うこともある。
古い録音だ。七十年ほど前の録音なのに、
本当の意味で、鮮やかな音で「フィガロの結婚」が聴ける。
今年からaudio wednesdayで、音を鳴らしている。
ベートーヴェンの音楽を、わりとかけている。
四谷三丁目の喫茶茶会記でやっていた時も、
ベートーヴェンはかけていたけれど、回数としては少なかった。
だからこそ2020年12月、
喫茶茶会記での最後の会では、ベートーヴェンのみにした。
今年は、私としては割とベートーヴェンをかけている。
ベートーヴェンをきく、ということだけでなく、
ベートーヴェンを誰かときく、ということ、
ベートーヴェンを誰かと一緒にきく、ということ、
ベートーヴェンを誰かにきいてもらう、ということ、
このことが、私にとってどういう意味を持つようになるのか。
「比較ではなく没頭を」は、
フルトヴェングラーの言葉である。
そのとおりなのだが、ことオーディオ機器の購入に関しては、
比較するからこそ購買意欲が湧いてくるだろうし、
増していくともいえよう。
比較することに没頭してしまうことにもなるかもしれない。
そのため最良の選択ができなかったことがあっても不思議ではない。
(その38)でも、別項でも引用している瀬川先生の文章。
*
しかしその試聴で、もうひとつの魅力ある製品を発見したというのが、これも前述したマッキントッシュのC22とMC275の組合せで、アルテックの604Eを鳴らした音であった。ことに、テストの終った初夏のすがすがしいある日の午後に聴いた、エリカ・ケートの歌うモーツァルトの歌曲 Abendempfindung(夕暮の情緒)の、滑らかに澄んで、ふっくらとやわらかなあの美しい歌声は、いまでも耳の底に焼きついているほどで、この一曲のためにこのアンプを欲しい、とさえ思ったものだ。
だが結局は、アルテックの604Eが私の家に永く住みつかなかったために、マッキントッシュもまた、私の装置には無縁のままでこんにちに至っているわけだが、たとえたった一度でも忘れ難い音を聴いた印象は強い。
*
マッキントッシュのMC275もアルテックの604E(604-8Gも含めて)、どちらも幾度も聴いている。
けれど604EをMC275で鳴らした音は、これまで聴いたことがなかった。
聴いてないとはいえ、この組合せの音はなんとなく想像できなくはないが、
それでも実際の音を聴いてみないことには、
何ひとつ語れないのも音である。
どちらも、すでに現行製品ではない。製造終了からずいぶん経っている。
聴ける可能性は、年々低くなっていくばかり。
それに偶然聴けたとしても、それぞれのコンディションはどうなのか。
単に聴いた、というのでは、むしろ聴かないほうが、
想像しているだけの方がいいのかもしれない。
今日、この組合せを聴いてきた。
一年以上鳴らされていなかった604Eだったし、
少しばかり手が加えられている604Eでもあったが、
それでもMC275で鳴らした音を聴いてきた。
ポン置きでしかないセッティングであっても、
しばらく鳴らしていたら、手ごたえが感じられてきた。
いまのままでは、黄金の組合せとはいえないし、
エリカ・ケートをかけたいとは思わないが、
キチンとセッティングして、チューニングしていけば、
かなりいい感じで、エリカ・ケートのモーツァルトが聴けるようになるのでは、
そうおもわせるぐらいには鳴ってきはじめた。
うまくいけば、秋ごろにはaudio wednesdayで鳴らせるだろう。
エリカ・ケートのモーツァルトは、その時まで鳴らさない。
今年になってから、エラックの4PI PLUS.2を、
audio wednesdayでこれまで三度鳴らしている。
4月、アポジーのDuetta Signatureに、
5月、Western Electricの757Aレプリカに、
7月、メリディアンのDSP3200に足して鳴らしている。
こうやってタイプも音も、
その他のこともかなり違うスピーカーと組み合わせても、
こちらの期待を上廻る結果を聴かせてくれる。
だから鳴らすたびに感心している。
この水平方向無指向性のリボン型トゥイーターは、
どんなスピーカーにも合うような気さえしてくる。
どんなにやってもうまく鳴らない、
つまり相性の合わないスピーカーもあるだろうが、
そういうスピーカーは、いったいどういうスピーカーになるのか。
そのことを想像するのが、また、楽しくなるほど、
このエラックのトゥイーターは、よく出来ていると思うだけでなく、
高域の拡散が、ステレオフォニックの再生には不可欠な要素であることを、
聴くたびに実感するしかない。
そして聴くたびに、ベストバイ・コンポーネントだとも思っている。
ベートーヴェンの第九。
私にとっての第九の愛聴盤は、いまのところ20世紀の録音だけしかない。
21世紀になってから演奏・録音された第九も、
積極的に聴いている。
いいな、と、思った演奏(録音)もあった。
それでも、そのディスクが愛聴盤になっていったかといえば、
いまのところ、そうではない、と答えるしかない。
これから先、愛聴盤となりうる演奏(録音)が登場してくるのか、
それともすでに聴いている21世紀の第九の中の何枚かが、
愛聴盤となっていくのか。
現れてほしい、という気持は強いが、
現れそうにない、と、思ってしまうところもある。
今年の1月から、audio wednesdayで、音を鳴らしている。
オーディオシステムのセッティングはもちろん、
かける曲も私が選んでいる。
つまり自分で聴きたい曲、
言いかえれば、その場に一緒にいる人たちに聴いてもらいたい曲をかける。
リクエストにも応じているが、
リクエスト曲以外は、音楽として聴きたい曲である。
こんなあたりまえのことをいまさら書くのは、
オーディオショウのブースによっては、
本当に、この人は、この音楽が好きなのか、
聴きたいと思ってかけているのか……、
そんなふうに感じることが、けっこうある。
私がそう感じているだけで、かけている人はそうじやない、というだろう。
それでもこんなことを書いているのは、
その人の好きという感情(のようなもの)が、
まったく伝わってこないからだ。
その人自身から伝わってこないだけでなく、
鳴っている音(音楽)からも伝わってこない。
そうでない出展社のブースもある。
でも、そんな出展社のブースも、毎年変わらずある。
8月9日に、映画「ボレロ」が公開される。
予告編を見ていると、けっこういい出来の映画のように思える。
実際の出来がどうなのかは、
劇場で本編を観ないことには何もいえないけれど、
この予告編を見ていたから、
7月3日のaudio wednesdayでかけたくなっていた。
誰の指揮でかけるのか。
クリュイタンスかミュンシュか。
ミュンシュ/パリ管弦楽団の録音を、19時の開始前にかけた。
ボレロを最後までとおして聴いたのは、いつ以来なのか、
思い出せないほど聴いていなかった。
断片的には、どこかで耳にすることはあっても、聴きたくてなって最後までというのは、久しくなかった。
メリディアンのDSP3200とエラックの4PI PLUS.2の組合せ。
そこから鳴ってきたボレロは、
この程度のボレロの聴き手でしかない私の耳を魅了した。
今年のインターナショナルオーディオショウは、
会場側の都合で7月開催なわけで、
暑い時期に……、と思ったりもするが、
学生はちょうど夏休みに入っている。
今年のインターナショナルオーディオショウは、
若い人たちの来場が増えるのだろうか。
増えてほしいし、
はっきりと誰の目にも明らかなほどに増えるのであれば、
これから先、夏休みの時期に開催もあるようになるのか。
一年ほど前から狛江に行く機会が増えた。
毎月第一水曜日は、audio wednesdayで行くし、
それ以外でもたまに行くとこがある。
狛江には、これまで行くことはなかった。
狛江駅も一年ほど前が、初めての利用だった。
改札を出ると高架下に啓文堂という書店があった。
狛江駅付近で、ただ一軒の書店であったけれど、再開発とかで、
さほど経たずに閉店になっていた。
その啓文堂が、先月末に開店している。
場所は以前のところより、少し離れているが、
代わりに広くなっている。
それだけでなく、以前の店舗では、オーディオ雑誌は、なぜか鉄道コーナーにあった。
取り扱っている雑誌も、わずかだった。
それが新店舗では、鉄道コーナーではなく、音楽コーナーになっているし、
雑誌の数も増えている。
それだけのこと、といってしまえることだろうが、
それでもオーディオ雑誌の扱いが減ったりなくなったりしているのが、
当たり前のことになっているだけに、
今回の啓文堂の再オープンは、利用することはないけれど、
嬉しいことのひとつだ。
audio wednesday (next decade) – 第七夜は、8月7日である。
時間、場所はこれまでと同じ。
5月の第四夜と同じスピーカー、757Aのレプリカを鳴らしてみようと考えている。
タイプはまるで違うが、パワーアンプを二台用意できる。
アキュフェーズのA20VとマッキントッシュのMC275である。
それにアキュフェーズのデヴァイダー、DF35も持ち込み済み。
マルチアンプで757Aレプリカを鳴らせる。
DF35はデジタル信号処理で、ユニットの前後位置の補正が可能。
757AレプリカのホーンはJBLの2397で、ドライバーは2420なので、
スロートアダプターを、2328と2327を使うことになり、
ウーファーのボイスコイル位置とドライバーのボイスコイル位置は、
さらに広くことになる。
これをデジタル信号処理することで、どんなふうに音が変化するのか、
そのことによって音楽の表情がどう変っていくのか。
これまでとは趣向をかえてみようと考えている。