Archive for 9月, 2012

Date: 9月 7th, 2012
Cate: ロングラン(ロングライフ)

ロングランであるために(その13)

オーディオ専用部品を使っていることは、製品登場時点では謳い文句になる。
が、製造中止になり数年、もしくは10年以上が経過して故障した場合には、
オーディオ専用部品を使っていたことが、修理のネックになってしまうことも充分ある。

だからといってオーディオ専用部品を使っているオーディオ機器は購入しない方がいい、とは言いたくない。
わずかな音の差を求めて、当時、オーディオ専用部品まで手がけて、という開発姿勢は、
なにかをもたらしている、と思っているからだ。

パイオニアはガラスケース入りの電解コンデンサーを採用していたからこそ、
1980年代後半、パイオニアのアンプやCDプレーヤーに使われている電解コンデンサーには、
銅テープが貼られるようになった。
マネして、手持ちのアンプ、CDプレーヤーで試したことがある。

この銅テープを電解コンデンサーに巻くのは、部品交換とは違い、
音が悪くなった、自分が求める方向とは違うベクトルになってしまった、という場合には、
銅テープをはがせば、元の状態に戻せる。

これが部品交換となると、元の部品を外すためにハンダをとかすために熱を加える。
新しい部品をハンダつづけするためにも熱を加える。
結果、好ましくなかったときに元の部品に戻したとしても、同じ音は戻ってない。
熱を何度も加えることにより、取り外した部品だけでなく、時には周辺の部品も熱で劣化させているからだ。

銅テープを電解コンデンサーに巻くのは、こういうデメリットがない。
ハンダづけのための熱をくわえるわけではない。
ただテープの巻きつけるだけ、である。

ただ部品が密集していると巻きつけにくいことはある。

パイオニアが銅テープを巻くようになったのは、
やはりガラスケース入りの電解コンデンサーを採用した経験からのような気がしなくもない。

もちろんガラスケースに入れることと同じ効果を、銅テープを巻くことで得られるわけではない。
それでも、ここには何かひとつのつながりがある、と私は思いたい。

Date: 9月 6th, 2012
Cate: 「ネットワーク」, 言葉

オーディオと「ネットワーク」(情報量・その2)

AとBのふたつがあり、
その差がほんのわずかであれば、どちらの量が多いかの判断では、
差がわからない、はっきりとしないということもある。
わずかな差に対して敏感な人もいれば、それほどでもない人もいる。

けれどあきらかな差があれば、敏感な人もそうでない人でも、
どちらかの量が多いということはすぐに判断できるのが普通である、と思っていた。

音に関する表現でも、量を表しているものはいくつかある。
最近では、多くの人が使うようになって「聴感上のS/N比」がある。
S/N比そのものが、信号とノイズの量の比であるわけだから、
物理的なS/N比のように90dBとか81dBといった数字でこそ表示できないものの、
ふたつのオーディオ機器、ふたつの音があり、比較試聴したうえでの聴感上のS/N比は、
はっきりと差が出ることも多い。

聴感上のS/N比のほかには、音場感に関する表現がある。
左右の広がりぐあい、奥への展開のぐあい、など、
ふたつのオーディオ機器、ふたつの音を比較して、どちらが左右の広がりが広いのか、
奥行き方向の再現性が深い、といったこともはっきりと差が出ることも多い。
もちろん音場感については、それだけですべてが語れるわけでもないものの、
音場感は、量に関係する要素がある。

けれど、このふたつ──、
聴感上のS/N比と音場感に関することでも、ときどき首を傾げたくなることがある。
なぜ、このオーディオ機器、この音を聴感上のS/N比が高い、といえるのだろうか、と思うことは少なくない。

量についてのものであっても「聴感上」とつくからそこには主観的なこともはいってくる、
だから聴く人によって、聴感上のS/N比の高い低いは異る、という人がいるかもしれないが、
私はそうは思わない。

聴感上のS/N比は、私の知る限り、井上先生が最初に使われているが、
井上先生が定義した「聴感上のS/N比」とはかなり違う「聴感上のS/N比」がいくつも現れてきているようだ。

「聴感上のS/N比」は、本来、そういう曖昧な性質のものではなかった。
それがいつしか、本来の定義、意味などをシロウトもせずに、
なんとなく感覚的に、安易に使われることが増えてきている言葉のひとつである、と思う。

Date: 9月 5th, 2012
Cate: 「ネットワーク」, 言葉

オーディオと「ネットワーク」(情報量・その1)

インターネットが登場し普及し、
個人によるWebサイトの公開もまた一般的なこととなり、
さらにブログの登場・普及は個人による情報発信を、
インターネット登場以前では想像できなかったほどに容易にした。

結果、情報量は急激に増大したかのように見える。
情報の「量」は確実に増えているのだろうか。
情報の「質」の判断は難しい面があるが、
こと量の判断、つまり多いか少ないかの判断に何が難しいところがあろう、
量の判断において、判断する人によって多い少ないが逆転することなんか起こりえない。

基本的にはそうだと思う。
けれども絶対に逆転することはない、とは言い切れないことがあることを、
オーディオにおいて知っているからだ。

Date: 9月 4th, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(続々twitter)

木製脚のハークネスはステレオサウンド 144号に載っている、
というコメントをfacebookでいただいた。

安齊吉三郎氏のAudio Components GALLERYで紹介されているハークネスは、
たしかに木製脚のモノである。

私にとってのハークネスは、
ステレオサウンド 45号の田中一光氏のリスニングルームに見事におさめられているハークネスが最初であり、
ハークネスがどういうスピーカーシステムであるのか知るほどに、
私自身の音の好みとは必ずしも一致しないスピーカーシステムでありながらも、
つねに気になり続けてきているスピーカーシステムであるだけに、
そのハークネスはやはり金属脚のハークネスであった。

だから木製脚のハークネスのことは、うまくイメージできなかった。
でも安齊氏の写真による木製脚のハークネスを見ていると、
金属脚と木製脚のハークネス、どちらをとるかと問われれば金属脚は即答はするものの、
木製脚のハークネスも、写真を眺めていると、しっくりくるものを感じられる。

となると木製脚と金属脚は時代によって切り替ったのだろうか。

Lansing HERITAGEのサイトには、古いJBLのカタログがいくつか公開されている。
1957年のカタログに”THE HARKNESS/C40″がある。
ここに載っている写真は、木製脚のハークネスである。
前年の1956年のカタログにはハークネスはないけれど、
C25/C37、C36/C38が載っていて、これらも木製脚に見える。

1962年のカタログになると、ハークネスの脚はアルミ製の金属脚に変更されているのがわかる。
C37、C36、C38も金属脚になっている。
これ以降のカタログを見ても、木製脚は登場してこない。

ごく初期のハークネスにおいて木製脚だったようだ。
ヴァリエーションではなく、1960年ごろに木製脚から金属脚へと変ったのだろう。

となると牽強付会といわれても、
ハークネスが金属脚にしたのは、ミニスカートの登場と決して無関係ではないように思えてくる。

ウィキペディアによれば、ミニスカートはイギリスのデザイナー、マリー・クヮントが、
1958年ごろから売り出した、とある。
同時期にフランスでも、アンドレ・クレージュによってミニスカートが登場している。
アメリカにではどうなのかははっきりとしないけれど、
イギリスとフランスで1958年ごろ登場しているのだから、
そう時間はかからずにアメリカでもミニスカートは登場したとみていいだろう。

JBLがハークネスの脚を木製から金属製に変えた時期と重なるのではないだろうか。
それは単なる偶然なのかもしれない。
けれど時代の風潮として、ミニスカートによる素足を露出させるようになってきたことと、
木製脚から金属脚への変更は、どこかでつながっているのかもしれない。

Date: 9月 3rd, 2012
Cate: 書く

9月3日(2008年〜2012年)

このブログ、audio identity (designing) をはじめたのは、2008年9月3日。
まる4年が経過して、今日から5年目がはじまる。

──と、昨年もほぼ同じ書出しを使っている。
1年前と変っているのは、facebookに非公開のグループとして”audio sharing“をつくり、
ブログへの感想・意見をいただくようになったことだ。

audio identity (designing) のコメント欄は残しているし、
これから先、コメント欄をなくすことはまったく考えていない。

いま非公開facebookグループの”audio sharing” に参加されている方は、私も含めて99人。
audio identity (designing) へのアクセス数よりずっと少ないけれど、
いただくコメントはfacebookでの方が多い。

今後、twitter、facebookといったSNSがどう変化・発展していくのかは、わからない。
新しいSNSが登場し、数年後はそれを利用しているかもしれない。

SNSにくらべると、ブログというものは、もう古くなってしまったような感じも受ける。
audio identity (designing) は文章だけで、写真も図版もない。
基本的なブログの機能しか使っていない。

このことは来年も同じであろう。
再来年もたぶん同じのはず。その先も、ブログはそのまま変らず使っていく、と思う。

ブログ、それもテキストだけのブログは、
スピーカーに例えると16cmか20cm口径のフルレンジユニットのようなもので、
再生帯域は低域も高域もそれほどのびていないナローだけれど、
音楽に大切といわれる中音はしっかりと伝えてくれる。

そんな感じが気に入っているので、
このブログは中口径のフルレンジのままでとうぶん書き続けていくつもりだ。

これで2754本。
そこそこの分量になってきたし、項目も増えているせいもあってだろう、
何人かの方から電子書籍にしないのか、してほしい、といわれた。
もう少し多くの方から、そういわれるようになったら電子書籍にまとめようと思う。

facebookの”audio sharing” への参加は、非公開ですので管理人(私)の承認が必要になりますが、
とくに参加資格があるわけではありません。
facebookのアカウントをお持ちの方で、参加リクエストをいただければ、承認いたします。
つまらないと思われたら、退会はご自身で簡単に行えます。

http://www.facebook.com/groups/audiosharing/

Date: 9月 3rd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(続twitter)

スピーカーユニットを構成する金属部分を人の素肌とすれば、
それらスピーカーユニットをつつむエンクロージュア(木)はさしずめ服ということになる。

スピーカーとしての素肌(金属)を見せないように服(木)をまとっている。
そんなふうに見ようと思えば、見えてくる。

JBLのハークネスの脚はアルミで金属。
ということはハークネスの脚は素足だ。

ハークネスが現役のスピーカーシステムだった1960年代にミニスカートが登場し大流行している。
ハークネスの脚は、そんな素足のように見えてくる。

ハークネスには木製の脚がついたものもある、という。
実物も写真も見たことはない。
木製の脚のついたハークネスは、ミニスカート姿ではなくパンツルックということになる(?)。

Date: 9月 3rd, 2012
Cate: ジャーナリズム

附録について(その2)

ステレオサウンド社が出しているHiVi。
先月出た9月号にケーブルメーカー、ゾノトーンのUSGケーブルが附録になっていた。
今月発売のHiVi10月号には、dtsとの共同によるブルーレイディスクが附録になる。

ここまでは知っていた。
昨日驚いたのは、ここで附録がいったん終るのではなく、まだまだ続くということ。
11月号にはまたUSGケーブルが附録になる。
今度はSUPRA製のものだそうだ。

そして1月号、3月号もUSBケーブルが附録になる予定だ、という。
1月号と3月号のUSBケーブルがどのメーカーになるのかは未定のようだ。

附録路線に進むと思われるHiVi。
それにしても……、と思う。
なぜ、ここまでUSBケーブルを立て続けに附録にするのか、と。
これはケーブルメーカーの競争心を煽っているのではないのか。

私がケーブルメーカーの関係者だったとしたら、
HiViの附録用のUSBケーブルには採算度外視で優れたものを提供する。
多少赤字になっても、それはいい広告になるからだ。
それも、9月号よりも11月号に、11月号よりも1月号に、1月号よりも3月号に提供したい、と考える。

HiViの読者の手元には4種類のUSBケーブルが集まることになる。
当然HiViの読者はこれらを比較する。
どれが優れているのか──。

この比較で圧倒的な良さを読者に提示できれば、次の購入に繋がる可能性は高い。
だから最初に附録になったゾノトーンのケーブルよりも、次に附録になるSPURAのケーブルよりも、
負担は大きくなっても、これらよりも高い品質のものを提供する。

読者にとっては、これはありがたいことのようにも思えるだろう。
良質のUSBケーブルも、ケーブル単体を購入するよりも安く手に入れることができるから。

で、ほんとうに読者にとって、これはいいことなのだろうか。
ケーブルメーカーの負担は増える。
それにHiViが附録路線を今後も積極的に行っていくのであれば、
ケーブルメーカーは、以前のものよりももっといいものを……、ということになる。
こんなことがループのように続いていけば、いずれ疲弊していくのではないだろうか。

附録を全面的に否定はしないけれど、
出版社の良心として、たとえばUSBケーブルを附録としたら、
次に別のメーカーのUSBケーブルを附録にするのはある一定の期間をあけるとか、
先に附録としてケーブルを提供したメーカーが不利にならないように、
ケーブルは同時期に提供してもらい、順次附録としていくとか、
そういう配慮なしに附録路線を続けていくことに、編集者はなんの疑問も抱かなくなったのか。
(もしかするとUSBケーブルに関しては、同時期に提供してもらっているということも考えられる。)

編集者が、このような煽る行為をやっていいのだろうか。

Date: 9月 2nd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(twitter)

ツイートすることは昨年より少なくなってしまったけれど、
twitterのタイムラインはEchofonというソフトで、ほぼ常時表示している。

最大で140文字のツイートは、
AMラジオのような感じがしてくる。
私がフォローしている人たちは、オーディオの人たちが多いけれど、
まったくオーディオとは関係のない人も多い。
そういう人たちのツイートが流れていく。

フォローしている人たちのすべてのツイートをすべて読むことは、もう無理かもしれない。
読み逃しているツイートも少なくないはずだと思う。
ならばフォローしている人たちを減らせば、それですむことでもないと考えているし、
すべてのツイートを読むことがtwitterの楽しみ方でもないのだから、
いまのようにAMラジオをなかば聞き流すように、読み流していると、
思わぬツイートがひっかかってくる。

そういうツイートが、あまり関係のないことと結びつくことがある。

今日の私のtwitterのタイムラインにひっかかってきたのは、
「好き! すき!! 魔女先生」という、1971年から1972年にかけて放送されたドラマのカラーイラストだった。
このドラマは見たことはない。
私がそのころ住んでいたいなかでは、この番組は放送されていなかったのではないか。

「好き! すき!! 魔女先生」は石ノ森章太郎氏の「千の目先生」が原作であり、
今日、そのカラーイラストをtwitterで見かけた。
スラッとした綺麗な脚の女性のイラストを見ていて、
私が連想していたのはJBLのハークネスの、アルミ製の脚だった。

ハークネスの脚が、石ノ森章太郎氏のカラーイラストの女性の脚と重なってみえてきた。
ハークネスの脚は、女性の脚だったんだ、と勝手に、いまは思っている。

「千の目先生」は1968年に連載されたマンガ。
ハークネスの登場はもう少し前のことだが、1968年、ハークネスはまだ現役のスピーカーシステムだった。
ハークネスだけではない、このころのJBLのスピーカーには脚がついているものがあった。

脚の形状、材質は違うけれど、あのパラゴンにも脚がある。
メトロゴンにもある。

ハークネスの同じシリーズといえるバロンなどにも、やはり脚がついている。
そういえばQUADのESLにも、木製の脚がついている。

どの脚も下にいくにしたがって細くなる脚である。

脚のあるスピーカーシステムは、ないスピーカーシステムよりも、どこかセクシーに映える。

そういえば──、と思う。
アンプにはゴム脚は以前からついていた。
最近では金属製に変ってきているけれど、スラッとした脚ではない。
ハークネスの脚のようなモノではない。

構造的に、その手の脚を必要としない、といえばそうなだろうが、
かならずしも必要としていないわけでもない、と思う。
ただ脚をつければいいわけではないにしても、
脚の存在によって解決できることがあるような気がしてならない。

Date: 9月 1st, 2012
Cate: 四季

夏の終りに(その3)

ランス・アームストロングは、ロードレーサーとしてはミゲール・インドュラインよりも上なのかもしれない。
速い選手というより、強い選手である。
癌から生還しツール・ド・フランスで7連覇できたのだろう。

たとえアームストロングがドーピングをしていたとしても、
(ドーピングは絶対に許せない、という人もいるけれど)その強さは、私は素直に認める。

アームストロングは強い。
けれど、強いからといって、インドュラインに感じていた「王者」といったものを、
アームストロングからは感じにくい。
ドーピング疑惑があるから、そう感じないわけではない。

1995年のアームストロングのウィニングポーズは、
1997年のマルコ・パンターニのラルプ・デュエズでのステージ優勝のときのウィニングポーズとともに、
私がこれまでみてきたツール・ド・フランスのレースのなかで、
最も強く印象に残っているものだ。

パンターニのウィニングポーズが動だとすれば、
アームストロングの1995年のウィニングポーズは静(せい、ゆえに生なのかもしれない)である。

1999年のツール・ド・フランスをテレビでみていて、
アームストロングの強さには熱いものを感じていた。

にもかかわらず、アームストロングが王者かと問われても、
そうは思えない、と答えざるをえない何かが、心のどこかにひっかかっている。

それはなんだろうか、と思っている。
まだ、はっりきとつかめていない。
ぼんやりとしたままだ。

インドュラインは1964年、アームストロングは1971年生れ。
インドュラインと私はほぼ同世代。
そういうことでもない、と思う。

それでも明らかにインドュラインとアームストロングは、違う。
人はひとりひとり違うから、このふたりが違って当り前──、そんな違いではない。

ツール・ド・フランス総合優勝5回のアンクティル、メルクス、イノー、そしてインドュライン。
私がリアルタイムでみてきた選手は、この中ではインドュラインだけ。
あとの3人についてのエピソードは本で知っているだけである。

この4人も、みな違う。
それでもインドュラインまでは、共通した王者としての「何か」があるようにも感じている。
その「何か」がなんなのかはまだ漠然としたままだけど、
インドュラインとアームストロングの違いにも似た「何か」を、
いまのオーディオ機器(特にスピーカーシステム)に対して感じることがある。

その「何か」がはっきりつかめていないのに、
なぜそんなことがいえる? といわれるだろう。
たしかにそうである。
でも、直感的としてそう感じて、その「何か」がはっきりしないもやもやもまた感じている。

私はインドュラインを王者と思っている。
でも人によってはアームストロングこそ真の王者と思うだろう。

そのことがスピーカー選びに関係している、と結ぶのは、
強引なこじつけでしかないのか……。