モーツァルトの言葉
「天才を作るのは高度な知性でも想像力でもない。知性と想像力を合わせても天才はできない。
愛、愛、愛……それこそが天才の魂である。」
モーツァルトの言葉。
いい音を生み出すのも、愛、愛、愛であろう。他に何があろう。
「天才を作るのは高度な知性でも想像力でもない。知性と想像力を合わせても天才はできない。
愛、愛、愛……それこそが天才の魂である。」
モーツァルトの言葉。
いい音を生み出すのも、愛、愛、愛であろう。他に何があろう。
家族の犠牲の上で成り立っていた──、そういうふうに五味先生のオーディオを捉えている人がいる。
そんなことはない。
亡くなられた後に読売新聞社から出た「いい音いい音楽」に収められている
五味由玞子氏の「父と音楽」を読んでほしい。
いくつか書き写しておく。
*
夢中になると、父は一晩中でも音楽を鳴らしている。母と私は、真夜中、どんなに大きな音で鳴っていようと、目を覚ますことはない。時折り今でも、父の部屋で音楽をかけるのだが、不思議と私はよく、絨毯の上にころりと横になりねむってしまう。たとえようのない安らぎがそこにはある。そこには父がいる。
母は音楽を聴いているときの父がいちばん好きだという。
父が音いじりをするとき、また、テープを編集するときは、たいがい、だぼだぼのパジャマに母お手製の毛糸で編んだ足袋。冬には、駱駝色のカーディガンを羽織り、腰紐を締め、木樵のおじさんのような恰好で、蓬髪おかまいなく、胡坐をかいて一心に、テープを切ってつないだり、コードを差し換えたりしている。短気のせいか、無器用なのか、うまくいかないとよくヒステリーをおこし、ウォーッとか、エーイといった奇声が居間に聞こえてくる。すると、私と母は、またやっている、と目を見合わせほほえむ。試行錯誤の結果、気に入った音がでたときは、それはもう大喜びで、音楽にのって、親愛なるタンノイの前で踊っている。たまらなく幸福そうな表情で、そんな顔が私はいちばん好きであった。
父は、ひとくちに言ってしまえば、純真な音キチである。いい音を求め、音楽を愛した一人の青年である。私はこの父の娘として生まれて本当に幸福であった。心からの感謝を献げたい。そして、これからも、すばらしい音楽を心をこめて聴いてゆきたい。音楽は、なにものにもかえがたい父の遺産なのだから。
*
3箇所書き写した。
これらを読んでもなお「家族の犠牲の上に成り立っていた」としか思えないのであれば、
そんな人はオーディオを通して音楽を聴くことはやめたほうが賢明である。
オーディオ機器との出会いには、幸運なときもあれば、
そうでないこともある。
たとえば瀬川先生とマーク・レビンソンのLNP2との出会い。
瀬川先生は、LNP2との出会いについて、次のように書かれている。
*
彼(註:山中敬三氏のこと)はこのLNP2を「プロまがいの作り方で、しかもプロ用に徹しているわけでもない……」と酷評していた。
ところで音はどうなんだ? という私の問いに、山中氏はまるで気のない様子で、近ごろ流行りのトランジスターの無機的な音さ、と一言のもとにしりぞけた。それを私は信用して、それ以上、この高価なプリアンプに興味を持つことをやめにした。
あとで考えると、大きなチャンスを逸したことになった。
74年夏のことである。
75年になって輸入元が変わり、一度聴いてみないかと連絡があったときも、最初私は全く気乗りしなかった。家に借りて接続を終えて音が鳴った瞬間に、びっくりした。何ていい音だ、久しぶりに味わう満足感だった。早く聴かなかったことを後悔した。それからレビンソンとのつきあいが始まった。
*
早く聴かなかったことを後悔した、と書かれているけど、
ほんとうにそうだろうか。
瀬川先生自身、気がつかれてなかったのか。
山中先生が「無機的な音さ」と言われたLNP2は、
シュリロ貿易がサンプル輸入したモノで、 岡俊雄先生が購入されたモノ。
つまりバウエン製モジュール搭載のLNP2である。
一方、75年になって、RFエンタープライゼスが輸入したLNP2、
瀬川先生がはじめて聴かれたLNP2は、
ジョン・カールの設計によるマーク・レビンソン製のモジュール搭載になっている。
もしバウエン製モジュールのLNP2を聴かれていたら、
瀬川先生はどういう反応をされただろうか。
岡先生は、LNP2が製造中止になったときに、ステレオサウンド誌に、
LNP2物語を書かれている。
この記事でもそうだし、過去に何度か発言されているが、
岡氏は、マーク・レビンソン製モジュールのLNP2よりも、
バウエン製モジュールのLNP2を高く評価されている。
岡先生と瀬川先生の音の嗜好の違い、捉え方の違い、ひいては再生音楽の聴き方の違いは、
1970年代のステレオサウンド別冊に掲載されている
岡俊雄、黒田恭一、瀬川冬樹、三氏の鼎談を
読んだことのある人ならば、ご存知のはず。
勝手な推測だが、
もし瀬川先生がバウエン製LNP2を聴かれていたら、
山中先生と同じような感想を持たれたことだろう。
山中先生の言葉を信用してバウエン製LNP2に興味を持つことにやめにし、
輸入元がかわったLNP2に対しても、全く気乗りしなかった瀬川先生だけに、
もしバウエン製LNP2音を聴かれていたら、
レビンソン製LNP2を聴く機会すら拒否されたかもしれない。
聴く機会が、それこそもっと後になったかもしれない。
そう考えると、瀬川先生とLNP2との出会いは、幸運だった、
出会うべくして、出会うべきときに出会った、と私は思っている。
不思議なのは、シュリロ時代のLNP2が
バウエン製モジュールだということに、
なぜ瀬川先生は気がつかれなかったのこということ。
気がつかれなかったからこそ、LNP2との出会いについて書かれるとき、
山中先生を引き合いに出されるわけなので。
実は、バウエン製モジュールのLNP2と、
マーク・レビンソン製モジュールのLNP2を
じっくり聴き較べてみたことがある。
岡先生がLNP2の記事を書かれたとき、
写真撮影に岡先生所有のLNP2をお借りしていたときに、
ステレオサウンド試聴室常備のLNP2Lと聴き比べてみた。
ステレオサウンドのLNP2Lは、もちろんマーク・レビンソン製モジュール搭載で、
しかも瀬川先生が、こちらのほうがさらに音が良いと書かれている、
追加モジュール搭載仕様で、その意味ではよりLNP2Lらしさは強い。
そのときの印象からいえば、
瀬川先生にとってのLNP2は、
やはりマーク・レビンソン製モジュールのモノだということである。
瀬川先生の本名は大村一郎。ラジオ技術の編集者時代から、
大村とΩをひっかけて、親しい人からはオームと呼ばれていたとのこと。
ある日、ペンネームを考えながら電話帳をめくっていたら、
「瀬川冬樹」という名前が目にとまったから、とのこと。
オーディオに関心をもつきっかけは、 五味康祐氏の「五味オーディオ教室」で、
多くのマニアの方のように、どこが素晴らしい音楽(音)に触れたのがきっかけというのではなく、
一冊の本との出会いが、私のオーディオの出発点になっている。
「五味オーディオ教室」が、私にとって最初のオーディオの本であり、
この本と最初に出合ったこと、原点となったことは、 とても幸運だったと、いまでも思っている。
買ってきたその日から、毎日読んだ。
学校に持っていては休み時間に読み、 帰宅してからも、ずーっと読む。
何回も何回も頭から最後まで読み返して、 また興味深いところだけを、これまた何回も読み直して、
何度読んだかは、もうわからないくらい読み返した。
何度も読みながら、
「オーディオという趣味はなんと奥深いものなんだろう……、
音楽を聴くという行為の難しさ、素晴らしさ──、これは一生続けられる趣味だ」と思うとともに、
当時ステレオを持っていなかった私は、この本を読むことで、
オーディオの本当の音は、こういうものなんだ、 と勝手に想像(妄想)したものである。
いくつも強烈に印象にのこっている言葉がある。
そのなかのひとつが、
「いま、空気が無形のピアノを、ヴァイオリンを、フルートを鳴らす。
これこそは真にレコード音楽というものであろう」のフレーズ。
空気が無形のピアノを目の前に形作って、そのピアノから音(音楽)が響いてくる──、
中学二年の私は、それがオーディオの在りかただと思い込む。
しかし、五味先生は、
「実際に、空気全体が(キャビネットや、 ましてスピーカーが、ではない)楽器を鳴らすのを
私はいまだかつて聴いたことがない」とも書かれている。
2005年5月19日、菅野先生のリスニングルーム。
菅野先生が「第三世代」と呼ばれている
ジャーマン・フィジックスのDDDユニットを中心としたシステムで、
プレトニョフのピアノ(シューマンの交響的練習曲)で、
「五味オーディオ教室」を初めて読んだときから29年、
「空気が無形のピアノを鳴らす」のを、 はじめて耳にした。
夜更かししながら、岩崎千明氏の「オーディオ彷徨」を読むと、
ジャズの熱心な聴き手でない私だけど、
無性にジャズを大音量で聴きたくなる、そんな衝動にわき上がってくる。
深夜まで開いているレコード店があれば、
いま読んでいた岩崎先生の文章に出てきたディスクを買いに走りたくなる。
近所迷惑なので、そんなことはできないけど、
そのためだけにJBLのハークネスC40が欲しくなる。
ステレオサウンドのリスニングルームの特集に載っていたデザイナー、
田中一光氏のリスニングルームの写真で、はじめて見たハークネス。
角度をつけずに真っ正面に向けて置かれたふたつのハークネスの間には、
すてきなテーブルと椅子(どちらも北欧製のモノ)が、誂えたかのようにぴったりと収まっていた。
なんて素敵な部屋だろう、なんて素敵なスピーカーだろう、と、
いつか、こういう部屋に住むと思ったものの……。
瀬川先生のカートリッジのクリーニング方法。
アナログ全盛時代を体験された方ならば、おそらくひとつ以上はお持ちであろう
FR社のカートリッジ・キーパー・ケース。
5つのカートリッジをヘッドシェルにとりつけたまま収めることができて、
カートリッジの持ち運びにも便利なこのケースの内部は、硬めのスポンジ。
瀬川先生は、このスポンジ部分で、 カートリッジの針先の汚れを落とされていた。
カートリッジを指で持って、針先で、 このスポンジを、まっすぐにひっかく。
だから、瀬川先生のケース内のスポンジは、 ひっかきキズだらけ。
もちろん、慣れていないと針先がとれてしまったり、
カンチレバーをいためたり曲げたりするため、 だれにでも勧められる方法ではないけど、
これがいちばんだ、と話されていた。
液体のスタイラスクリーナーは、よほどしつこいゴミが付着したとき以外は、
まったく使わない、とも話された。
アルコールが主成分だが、すぐにすべてが蒸発するわけでなく、
カンチレバーの表面を、蒸発せずに残ったクリーナー液が毛細管現象でダンパーに届き、
変質もしくは傷めてしまうから、ときいた。
レコード(アナログディスク)のクリーニングも液体はいっさい使わず、
もっぱらビロードを円筒状にしたセシルワッツのクリーナーを愛用している、とのこと。
そして、大事なのは、聴き終ってレコードを内袋に収める前にクリーニングすること、と言われた。
スクラッチノイズは、ディスクに付着したゴミよりもキズが原因であり、
意外にキズがつきやすいのが、ゴミを付着したディスクをそのまま保管しているときだからだ。
ステレオサウンド38号からもうひとつ。
黒田恭一氏の文章から。
「したがってぼくは、目的地変動説をとる。
さらにいえば、目的地は、あるのではなく、つくられるもの。
刻一刻とかわるその変化の中でつくられつづけられるものと思う。
昨日の憧れを今日の憧れと思いこむのは、
一種の横着のあらわれといえるだろうし、
そう思いこめるのは、仕合せというべきだが、
今日の音楽、ないし今日の音と、
正面切ってむかいあっていないからではないか。」
いま読んでも、するどくふかいと感じる。
この文章と、アバド、ポリーニによるバルトークのピアノ協奏曲は同時代である。
瀬川先生が、ステレオサウンド38号で語られている言葉。
「ぼくがときどき、ある意味で絶望的な気持ちになるのは、たとえばオーディオ・メーカーのショールームなどで、ぼくの考えている装置を持ちこんで、その場で可能なかぎりの条件を整えて、いつも自分が聴いている音にできるだけ近づけて鳴らしたときに、それを聴きにくださった方のなかに必ず何人か、瀬川さんがいつも書かれていることがこの音を聴いてやっと理解できました、とおっしゃる方がいることです。一生懸命ことばを考えて書きつらねても、ほんの小一時間鳴らした音には及ばないのか、そう思うと、いささか絶望的な気分になってしまう。いったいどうしたらいいんだろうと、ときどき考えこんでしまいます。」
晩年、瀬川先生は「辻説法をしたい」とまで思いつめられていた、ときいている。
そして、瀬川先生は、オーディオ評論をはじめるにあたって、
小林秀雄氏の「モオツァルト」を書き写された、ともきいたことがある。
瀬川先生の追悼記事がステレオサウンドに載ったのは、61号。
62号と63号の二号にわたって、第二特集として、 瀬川先生の記事が掲載されている。
私がステレオサウンド編集部にバイトで入ったのが、 1982年1月下旬。
19歳の誕生日の約1週間前のこと(ぎりぎり18歳だったので、ずっと「少年」と呼ばれていました)。
初めて試聴室に入ったときに、ハッとして、目が奪われたが、試聴室隣にある器材倉庫の一角。
そこにはKEFのLS5/1Aとマーク・レビンソンのLNP2L、 スチューダーのA68が、
なんとも表現しがたい雰囲気をただよわせて置かれていた。
編集部の方に訊ねるまでもなく、瀬川先生の遺品であることは、すぐにわかった。
まったく予想していなかったこと、だからうれしくもあり、かなしくもあり、綯交ぜの気持ちにとまどう。
だから「瀬川先生のモノですよね……」という言葉しか言えなかった。
数ヶ月間、LS5/1AもLNP2LもA68も、そこに置かれていた。
「お金があれば……」と思った。すべてを自分のモノにしたかった。
どれかひとつだけ、と思っていても、学生バイトにそんなお金はなく、
「欲しい」と言葉にすることすら憚られた。
トーレンスのリファレンスがステレオサウンドに登場したのは、
記事としては56号だが、前号(55号)の輸入元ノアの広告にモノクロ写真が載っている。
それほど大きくない写真で、価格は3580000円と書いてあった。
とうぜん、このプレーヤーはいったい何なんだろう……、次のステレオサウンドで紹介されるんだろうな、
きっと、と思いながら発売の待っていた56号の表紙は、リファレンスだった。
安齊吉三郎氏によるリファレンスの写真は、前号のモノクロ写真とは違い、「おおっ」と思わせるとともに、
記事をすこしでも早く見つけたい、読みたいという気持ちにさせてくれた。
いそいでページをめくって、瀬川先生の新製品の記事を見つけて、 読む。
しばらくして、また読む、何度も読んでは、どんな音なのか妄想をふくらまして、
聴きたい、とにかく聴いてみたい、でもここ(熊本)では、おそらく聴く機会は訪れないだろう……。
(その1)で書いた瀬川先生の「オーディオ・ティーチイン」は、
土日の二日間行われ、毎回テーマが異なってて、 カートリッジの聴き比べのときもあったし、
セパレートアンプのときも、スピーカーの時もあり、
とにかく行けば、いろんなオーディオ機器の音が聴けるだけでなく、
瀬川先生が、どのレコードのどの部分を、試聴に使われるのかがわかるだけでも、 すごくためになったし、
レコードの扱い方、 カートリッジの取り扱い方などなど、 ほんとうにティーチイン(Teach in)の内容だった。
1980年秋の「オーディオ・ティーチイン」。
土曜日は、カセットデッキとカセットテープの試聴。
正直「今日はカセットかぁ……」とがっかりしたものの、実際にイベントが始まると、やはりおもしろい。
瀬川先生の話が面白い。でも、どうしても目は、 すでに設置してあるリファレンスばかりを見ている。
イベントの終わりに、 瀬川先生が、
「明日は、このリファレンスの音をじっくり聴いていただきます」 と言われた。
「明日なのかぁ……」とがっくり。
この時期(高校3年の秋)、 オーディオに熱を入れすぎて、学校の成績ががくっと落ちて、
しかもテストの結果が出たばかりで、母に、 「今回は行ってはだめ」と言われたのを、
なんとか説得して、一日だけ許可をもらっていたので、
「明日はどうやっても無理だな……」とあきらめながら会場を後にする。
当日の朝も「行きたい」とは口にしなかったというかできなかった。
でも、なぜか、時間ギリギリになって、「行っていいよ」と母の口から、
まったく予測できなかった、それだけに待っていた言葉が出てきた。
イベントがはじまったころは、 いつもと変らない感じの瀬川先生が、
最後に「火の鳥」を鳴らされた後は、 すごくぐったりされていた。
そして、車内での、さらにぐったりされている瀬川先生の姿。
リファレンスの音を聴けたことで、 そしてその凄さに、 「火の鳥」での音楽体験に満足していた私は、
「次回のイベントはいつだろうか、テーマは何かな」と、
あれこれ思いながら、そして今日行くことを許してくれた母に感謝しながら帰宅。
このときは、1年後に、もっと母に感謝することになるとは、まったく思っていなかった。
「オーディオ・ティーチイン」の次回はなく、この回で終ってしまう。
そして約一年後の、1981年12月19日。
当時、ステレオサウンドはなかなか発売日に書店に並んでいなくて、
このときも、いつもどおりというか、それ以上に遅れていた。
それで、書店よりも二日ほど早く並ぶ 秋葉原の石丸電気レコード館の書籍コーナーに行っても、並んでいない。
かわりに手にとったのは、レコード芸術。
夏に一回だけ掲載され、その後休載の瀬川先生の新連載、
再開されたかな、と思いながら、ページをめくっていた。 目に飛び込んできたのは、連載記事ではなく、
瀬川先生の追悼記事。
元気になられるもの、回復されるもの、と思い込んでいただけに、
ほんとうに頭の中が真っ白になった。
後にも先にも、頭の中が真っ白になったことは、このときだけである。
その記事を読み終わって、嘘だろう……、と思って、書棚に戻して、
こんなことをしたって、亡くなられた事実が変わるわけではないとわかっていても、
信じられなくて、もう一度手にとって、読む。
冬休みに入っていたので、数日後に帰省して、 熊本でステレオサウンドを購入。
追悼記事が載っていた。
母に感謝した。
もし、あの日、観た瀬川先生の姿が最後になるとは……。
いくつかオーディオ雑誌の追悼記事を読んでいてわかったのは、 あの日の「オーディオ・ティーチイン」の直後、
熊本で手術を受けられたということ。
なぜだったんだろう、といまでもときどき考える。
オーディオに関心も理解もあまりない母が、
当日の朝、ぎりぎりになって行くことを許してくれたのは、
女性特有の直感だったのだろうか、それとも単なる気まぐれだったのか……。
あの日のリファレンスの音、
瀬川先生が聴かせてくれたリファレンスの音は、
私にとって、どういう意味を持つのか、それから何を得たのか、ということも、いまでもときどき考える。
ひとつ確実に言えるのは、大きな感動があったということ。
感動という言葉、よく使うけれども、 感動とはどういうことだろうか。
辞書には、美しいものやすばらしいことに接して強い印象を受け、心を奪われること、とある。
でもこれだけではない。
なぜ「動く」という字が使われているのか。
やはりなにかが動くんだろうな、と 、あの日のリファレンスの音を聴いていたときのことを思い出し考える。
感動とは、心の中になにかが生れたり、 沸きあがってくることであり、
だからこそ、「動」がつくんだろう、と。
いまは残っていないけど、 リファレンスの音を聴いた感想を、その時、文章にしたことがある。
誰かに読んでもらうわけではないけれども、 どうしても書きたくなって、拙い文章で、かなりの量を書いた。
そういう感動を与えてくれたリファレンス、 瀬川先生の想い出とも繋がっていて、
あらゆるオーディオ機器の中で、 私の中で、いちばん印象深い存在になっている。
トーレンスのアナログ・プレーヤー 〝リファレンス〟の実物をはじめて見て、
その音を聴いたのは、もうずいぶん前のこと。
まだ熊本にいたころ、高校3年生の時だから、27年前になる。
熊本市内のオーディオ店(寿屋本庄店)で、
(たしか)三カ月に1度、土日の二日連続で開催されていた
瀬川先生の「オーディオ・ティーチイン」というイベントにおいて、である。
そのときのラインナップは、
トーレンスのリファレンス、
マークレビンソンのLNP2L とSUMOのTHE GOLDの組合せで、
スピーカーは、もちろんJBLの4343。
この時、正直にいえば、パワーアンプはTHE GOLDではなく、
LNP2LとペアになるML2L で聴きたいのに……と思っていた。
いろんなレコードの後、
最後に、当時、優秀録音と言われていて、
瀬川先生もステレオサウンドの試聴テストでよく使われていた
コリン・デイヴィス指揮の ストラヴィンスキーの「火の鳥」をかけられた。
もうイベントの終了時間はとっくに過ぎていたにもかかわらず、
なぜか、レコードの片面を、最後まで鳴らされた。
そのときの音は、いま聴くと、
いわゆる「整った」音ではなかっただろう。
けれど、その凄まじさは、いまでもはっきりと憶えているほど、つよく刻まれている。
レコードによる音楽鑑賞、ではなくて、音楽体験、
それも強烈な体験として、残っている。
聴き終わって、瀬川先生の方を見ると、
ものすごくぐったりされていて、顔色もひどく悪い。
いつもなら、イベント終了後、しばらく会場におられて、
質問やリクエストを受けつけられるのに、その日は、すぐに引っ込まれた。
「体の調子が悪いんだ。 なのに『火の鳥』、なぜ最後まで鳴らされたのかなぁ
途中で針をあげられればよかったのに……」と、
そんなことを考えながら、店の外に出ると、
駐車場から出てきた車のうしろで、さらにぐったりされている瀬川先生の姿が見えた。
インターネットでは匿名がある程度ある。
だから五味康祐先生、瀬川冬樹先生について書かれているものの中に、
そういうとき必ず現われてくるのが、上っ面だけで、否定的なことを書く人だ。
書いている内容が古い、と書く。
でも、そういう人たちが言っているのは、
おふたりの文章に登場するオーディオ機器が古いということにしかすぎない。
私にいわせれば、内容が古いわけではない。
それで役に立たない、と書く。なぜ、こうも表面的なのか。
そして、功罪がある、とも書く。
その人たちに言いたい。毒にも薬にもならない文章を読んで、どこが楽しいのか、と。
功罪があるのは、なにかを残してきたからである。だから、功も罪もある。
功も罪もない人に対して、関心をもてる人たちがうらやましい。
読む人によっては、おふたりの文章は、薬になり、毒になろう。
同じ人にとっても、同じ文章が、時には薬なり、毒になろう。
それでいいと思う。
だからこそ、繰り返し読むのである。
これも言っておきたい。
「けっこう間違いが書いてあるだろう」という声も聞く。
たしかに、とくに五味先生の文章には、すこしばかり間違いが書いてある。
しかし、あくまでも間違いであり、嘘でない。
間違いは書かないけれど、嘘を書く人の文章と、どちらを信じるのか。
そして、五味康祐がいなければ、これは断言する、
ステレオサウンドは存在していない。
芸術新潮に連載されていた「西方の音」に共感し、感動し、勇気づけられた男が、
上京し創刊したのがステレオサウンドなのだから。