「音楽性」とは(その6)
「お前にはわからないよ。まだわからないよ。まだ人生を知る時間を与えられていないんだもの。いつかはお前にも、音楽は技巧やふしだけでなくて、人生そのものの意義であり、限りない悲しみと、堪えられない美しさとを持つものだということを悟る日が来るだろう。その時にはお前にも分るよ」
(パール・バック「母の肖像」新潮文庫・村岡花子訳より)
音楽に涙する母が、「若い娘の高慢さから」なじる娘(パール・バック)に、語る言葉である。
「知る」ではなく「悟る」だということ。
「お前にはわからないよ。まだわからないよ。まだ人生を知る時間を与えられていないんだもの。いつかはお前にも、音楽は技巧やふしだけでなくて、人生そのものの意義であり、限りない悲しみと、堪えられない美しさとを持つものだということを悟る日が来るだろう。その時にはお前にも分るよ」
(パール・バック「母の肖像」新潮文庫・村岡花子訳より)
音楽に涙する母が、「若い娘の高慢さから」なじる娘(パール・バック)に、語る言葉である。
「知る」ではなく「悟る」だということ。
ヨゼフ・ホフマンが語っている。
Perfect sincerity plus perfect simplicity equals perfect achievement.
完璧な誠実さに完璧な単純さを加えることで、完璧な達成にいたる。
工業製品であるスピーカーに、完璧な誠実さ、完璧な単純さは、いまのところ求められないが、
十分な誠実さに十分な単純さを加えることで、十分な達成にいたることはできる。
欠点はあっても、十分なスピーカーシステムはつくることはできる。
誠実さはあっても十分な単純さがなければ、不十分なスピーカーとなろう。
誠実さもなく、単純さもないスピーカーがある。「欠陥」スピーカーのことだ。
「音楽性のない音」を別の言葉で言い表すとしたら、「肉体のない音」であろう。
「現代スピーカー考」を書いている。
(その1)に、なぜ、この項をはじめたのかについてふれているが、
このときははっきりと書かなかったが、現代スピーカーの代表と巷で云われているいくつかの製品を、
じつのところ、私はまったく認めていない。
それらのいくつかは、ステレオサウンドでも割と高い評価を与えているひとがいるし、
個人のサイトやブログでも、なぜか高い評価を得ている。
他人の好みに口出しするのは僭越な行為だというひともいようが、
それでも「欠陥」スピーカーを、現代スピーカーのひとつとしてあげられることには、
つよい抵抗感がたえずわいてくる。
早瀬さんとは長いつき合いで、お互いに好みは知り尽くしているところもある。
よく長電話している。本音で語れるからだ。
早瀬さんが鳴らしてきたスピーカー、鳴らしたいと思っているスピーカーと、
私が鳴らしてきたスピーカー、鳴らしたいと思っているスピーカーは、意外と重なり合うことはない。
けれど、絶対に認めることのできないスピーカーに関しては、完全に一致している。
それらは音の好みといったこととはまったく無関係で、あきからに「欠陥」スピーカーだからである。
ここに欠陥と欠点の違いがある、ともいえる。
どんなスピーカーにも「欠点」はある。
だが多くの「欠点」を抱えているスピーカーが、「欠陥」スピーカーなわけではない。
黒田先生がアクースタットからアポジーに替えられた理由について、や、「同軸型ユニットの選択」の項を、
これから書いていくにあたってはっきりしておかなくてはならないと思っていることとして、
「ひたる」と「こもる」がある。
たとえば、異常に高価なアクセサリーのはびこりは、「こもり」から生れてきたといえるのではないか……。
音楽性を歪める大きな要因のひとつとなっていくのではないか……。
「こもり」は、オーディオが本来的にもつ性質でもあるからこそ、
聴き手がそこに嵌ってしまうことは、オーディオの罠に知らぬうちに嵌ってしまうことでもあろう。
しかも、「こもり」「こもる」は、ネットワークと結びついてひろがり、
それを本人には気づかせない面ももちはじめているようでもある。
「音楽性」という言葉ほど、便利な言葉はないように思っている。
この機種は音楽性がある、とか、豊かだとか、もしくは貧弱だとか。
音そのものはよいが音楽性が感じられない、というふうに一刀両断にできたりもする。
音楽性とは、なんなんだろうか。
2006年暮、友人にさそわれて、とある高級オーディオばかりを扱う販売店の試聴会にでかけた。
スピーカーは2機種。どちらも1千万円弱(当時)する。
2つのスピーカーの厳密な比較試聴というよりも、それぞれの世界を味わってください、
という感じで、それぞれのスピーカーには、異るアンプとCDプレーヤーが組み合わされていた。
最後にかけられたのは、ラミレスのミサ・クリオージャであった。
ホセ・カレーラスのではなく、アルゼンチンの大御所、メルセデス・ソーサの歌唱によるもの。
はじめて聴くディスクだが、
それでも、あきらかにAのスピーカーから鳴ったソーサの歌い方はおかしい、と感じた。
ソーサほどの歌手が、ミサ・クリオージャをこんなふうに歪めて歌うわけがない。
こんな歌い方ではなく、敬虔に歌うはずである。
ミサ・クリオージャという音楽、メルセデス・ソーサをすこしでも知っていれば、そう思えるはず。
そんな疑問が消えぬうちに、もうひとつのスピーカーからソーサの歌声が鳴ってきた。
正しい歌い方だ。これは、もう直感だ。
なるほどAのスピーカーの世評は高い。ステレオサウンドでも、ひじょうに高く評価されている。
けれど、ミサ・クリオージャをこんなふうに歪めて鳴らしているということは、
ラミレスに関しては、音楽性を歪めている、と言い換えてもいいだろう。
このとき、音楽性という、この便利な言葉、とても曖昧な意味で使われることの多い言葉を、
すくなくとも、私自身の中で意味付けられるような感じがした。