Archive for category 五味康祐

Date: 2月 9th, 2009
Cate: Autograph, TANNOY, 五味康祐

タンノイ・オートグラフ

五味先生の本「五味オーディオ教室」でオーディオにどっぷりつかってしまった私にとって、
五味先生の書かれたものが、いわば「核」である。

だからタンノイのオートグラフは、JBLの4343とも、他のどんなスピーカーとも、
私の裡では、別格の存在であり、憧れである。
2000年に、タンノイがオートグラフを復刻した時は、真剣に欲しいと思った。
親になんとか借金してでも、と思いもしたが、
オートグラフを迎え入れる部屋が用意できない。
それに、いくらなんでも500万もの借金は、頼めない。

「なぜ、限定なんだろう」と憾んだものだ。

タンノイには、オートグラフと、ほぼ同じ構成のウェストミンスターがある。
いまのウェストミンスター・ロイヤル/SEは何代目だろうか。
息の長いスピーカーで、確実に改良され、堂々とした風格をもつ。

オートグラフでなくてもいいじゃないか、
ウェストミンスターのほうがずっと使いやすいだろう、という声が、裡にある。

オートグラフとウェストミンスター、どちらがいいか、そんなことを人に聞かれたら、
ためらわずウェストミンスター・ロイヤル/SEをすすめる。
だが自分のモノとするとなると、話は違う。

やはりオートグラフである。

ウェストミンスターは、何度か、ステレオサウンドの試聴室で聴いている。
聴き惚れたこともある。
試聴室で、ひとり鳴らしたブラームスのピアノ協奏曲のロマンティックな甘美さは、
いまも耳に残っている。
これがブラームスだ、そう思って聴いていた。
アバドとブレンデルの演奏だった。

そうなのだ、私にとって、ウェストミンスターはブラームスである。
オートグラフはベートーヴェンである。

この違いは、私にとって、決定的であり、どうやっても埋められない違いである。

言葉足らずで、なんのことか、わかってもらえないだろう。
それでも求めるのは、ベートーヴェンであり、オートグラフである。

Date: 2月 8th, 2009
Cate: 930st, EMT, 五味康祐, 挑発

挑発するディスク(その14)

五味先生は「ステレオ感」(「天の聲」所収)で、EMTの930stのことを、次のように書かれている。
     *
いわゆるレンジののびている意味では、シュアーV一五のニュータイプやエンパイア一〇〇〇の方がはるかに秀逸で、同じEMTのカートリッジをノイマンにつないだ方が、すぐれていた。内蔵イクォライザーの場合は、RIAA、NABともフラットだそうだが、その高音域、低音とも周波数特性は劣下したように感じられ、セパレーションもシュアーに及ばない。そのシュアーで、例えばコーラスのレコードを掛けると三十人の合唱が、EMTでは五十人にきこえるのである。私の家のスピーカー・エンクロージアやアンプのせいもあろうと思うが、とにかくおなじアンプ、同じスピーカーで鳴らして人数が増す。フラットというのは、ディスクの溝に刻まれたどんな音も斉みに再生するのを意味するだろうが、レンジはのびていないのだ。近頃オーディオ批評家の(むしろキカイ屋さんの)揚言する意味でハイ・ファイ的ではないし、ダイナミック・レンジもシュアーのニュータイプに及ばない。したがって最新録音の、オーディオ・マニア向けレコードを掛けたおもしろさはシュアーに劣る。そのかわり、どんな古い録音のレコードもそこに刻まれた音は、驚嘆すべき誠実さで鳴らす、「音楽として」「美しく」である。
     *
EMTもスチューダーも、最新の音を聴かせてくれるわけでもないし、最高性能に満ちた音でもない。
信頼の技術に裏づけられた音だ。
はったりもあざとさもない、それこそ誠実さで音楽を鳴らしてくれる。
だから信頼できる。

井上先生は、「レコードは神様だ、疑うな」と言われた。
そのために必要なのは、私にとっては、驚嘆すべき誠実さで鳴らしてくれる機器なのだ。
だからこそ、音の入口となるアナログプレーヤー、CDプレーヤーに、EMTとスチューダーを選ぶ。

ときに押しつけがましく感じることのある、思い入れのたっぷりの機器は要らない。
ただし、これがアンプの選択となると、なぜだか、そういう機器に魅力を感じてしまうことも多い……。

Date: 1月 30th, 2009
Cate: アナログディスク再生, 五味康祐

五味康祐氏のこと(その7)

「想い出の作家たち」のなかで、五味千鶴子氏が語られている。
     *
亡くなる前にベッドに寝ていても、毛布をシュッとかけなおして、「折り目正しくなってるか」とたずねるのです。
「ええ、きちんとなってますよ」と言うと安心しました。何かお見舞いの品をいただいても「真心こもってるか」と言います。「とても真心のこもったものをいただきましたよ」と言うと、「そうか、人間は折り目正しく、真心こめていかなきゃいけないよ」と言っていたのをよく覚えております。
     *
「折り目正しく、真心こめて」が、
五味先生がオーディオ愛好家の五条件のひとつにあげられている、
「ヒゲのこわさを知ること」につながっているのは明らかだろう。

漫然とレコードをあてがうことで、センタースピンドルの先端をレコードの穴の周辺で行ったり来たりさせて、
その跡が細く残る。光にあてると、すぐにわかるスジがヒゲだ。

「折り目正しく、真心こめて」レコードを扱うのであれば、
こんなヒゲがつくことはない。
レコードの扱いは、ひいては音楽の扱いである。
それでも、ヒゲがあっても、肝心の盤面にキズがなければ音には無関係とわりきっている人もいるだろう。

あえて言うが、必ずしも無関係とは言えない。
レコードのセンター穴も、アナログプレーヤーのセンタースピンドルも、その寸法に許容範囲がある。
規格によって定められている寸法ぴったりだと、すっという感じで、レコードをターンテーブルの上に乗せられない。
ごくまれにレコードのセンター穴がぎりぎりの寸法のためなのだろう、
レーベル面をぐいっと力を込めて押す必要があったレコードに出合ったこともあるが、
ほとんど全てのレコードがすっとおさまる。

つまりセンタースピンドルとセンター穴の間には、わずかだけど、すき間が生じている。
そのためレコードがかならずしもセンターにきている保証はどこにもない。
ほぼ確実にどの方向かにオフセットしているわけだ。

以前、ナカミチから、このレコードの偏心をプレーヤー側で自動調整する製品TX1000が出ていた。
TX1000で調整前と後の音を聴き較べると、レコードの偏心による
──偏心といっても、ほんのわずかなブレなのに──音の影響の大きさに驚かれる方も少なくないだろう。

TX1000のように自動調整機構がついてないプレーヤーでも、偏心の影響はすぐにでも確かめられる。
同じレコードをセットして音を聴く。そしていったんレコードを取り外して、またセットして音を聴く。
けっこう音の違いがあるのに気づかれるはずだ。
端的にわかるのが、カートリッジを盤面に降ろした時の音である。
通常、ボリュームを絞ってカートリッジを降ろし、ボリュームをあげるが、
レコードの偏心を確かめたい時は、あえてボリュームには触れず、いつも聴く位置にしておく。

偏心が少なく、ほぼ中心にレコードがセットされている時の、カートリッジが盤面に降りた時の音は、
スパッとしていて、尾をひかず気持ちのいいものだ。
偏心が多いと、「あれっ?」と思うほど、この時の音が違う。

使い手の手に馴染んだプレーヤーで、「折り目正しく、真心込めて」レコードをセットしていると、
たいていは、いい感じの位置にレコードが収まってくれる。

これは、私の体験から断言できる。
ステレオサウンドの試聴室で、それこそ多い日は、何度も何度もレコードを取りかえ、ターンテーブルに乗せている。
その回数は、半端ではない。

だから言える。
ヒゲをつけるようなレコードのセットでは、偏心も大きかろう、音も冴えないだろう、と。

Date: 1月 30th, 2009
Cate: 五味康祐, 伊藤喜多男

五味康祐氏のこと(その6)

ステレオサウンドの姉妹誌HiViに伊藤先生が、五味先生のことを書かれたことが、一度だけある。

五味康祐大人、と、そこには書かれていた。

五味先生は大正10年、伊藤先生は明治45年の生まれ。
だから、「五味康祐大人」の言葉のもつ重み、意味合いを想うにつれ、目頭が熱くなった。

伊藤先生も五味先生も、それぞれのモノに、心酔し惚れ抜いた人である、男である。
伊藤先生はシーメンスのスピーカーに、真空管(とくにウェスターン・エレクトリックの300Bに)。
五味先生はタンノイのオートグラフに。

惚れた、でも、惚れ込んだ、でもない。惚れ抜くことができた。

実現せずに終ってしまった、残念なことがあった、ときいている。
五味先生のお宅に、
伊藤先生製作のアンプ(コントロールアンプのRA1501と300Bシングルアンプの組合せ)を持ち込み、
聴いていただこうというものであった。
実現していれば、ステレオサウンドに載っていたであろう。
どういうふうに載っていただろうか。

もしかすると、オーディオ巡礼のなかで実現していたのかもしれない。
それまでのとは逆に、伊藤先生が五味先生のリスニングルームを訪ねられる、
という形でのオーディオ巡礼だったのではないか、と思ってしまう。

五味先生がなんと語られたのか、
伊藤先生と五味先生の語らい、それを五味先生は、どう言葉にされたのか……。

実現には、時間が足りなかった。

Date: 1月 29th, 2009
Cate: 五味康祐

五味康祐氏のこと(その5)

五味先生の書かれたものを、いくつか読み進めていくうちに感じていたのは、その洞察力の凄さだった。

もちろん文章のうまさ、潔癖さは見事だし、多くのひとがそう感じておられることだろうし、
そのことで隠れがちなのだろうが、歳を重ねて、何度も読み返すごとに、
その凄さは犇々と感じられるようになってきた。

「天の聲」に収められている「三島由紀夫の死」を、ぜひお読みいただきたい。
わかっていただけると思っている。

マネなどできようもない、この洞察力の鋭さが、オーディオに関しても、
こういう書き方、こういう切り口があったのか、という驚きと同時に、
オーディオについて多少なりとも、なにがしか書いている者に、
絶望に近い気持ちすら抱かせるくらいの内容の深さに結びついている。

Date: 1月 28th, 2009
Cate: 五味康祐

五味康祐氏のこと(その4)

ステレオサウンドが以前出していたHiFi Stereo Guide、途中からAudio Guide Year Bookに変わった、
この本の編集を担当されていたのは、私がステレオサウンドにいたころはTさん、ひとりだった。

締め切り間際になると、別の部署の女の子が手伝っていたけれど、
ほとんどの作業をひとりで黙々とこなされていた。

Tさんは、五味先生の「西方の音」所収の「タンノイについて」で、
「私の友人でレーダーの製作にたずさわる技術者──かつはHi・Fi仲間である」と語られている、その人である。

以前はアンプの自作も手がけられていたときいたことがあるが、
それらはいっさいやめて、その時はQUADのシステムで
──スピーカーはESLの、それもブラック仕様の方、アンプは44と405のペアで、
アナログプレーヤーはリンのLP12(トーンアームはSMEだったか)を、
昔の電蓄を思わせる特注のラックに収められていた。

Tさんに訊いたことがある。五味先生の補聴器のことについて、確認したかったからだ。

音楽を聴かれる時は、補聴器は使われていなかった、と書かれたものを読んで、そう思っていた。
けれども一部では、補聴器をつけたままレコードを聴かれていた、という者がいた。
どう見ても、五味先生とつき合いのあった人とは思えない者が、そういうことを言う。

だからTさんに確認したかった。
ただ確認だけをしたかったのだ。

そのときTさんが、五味先生とレストランで食事をされていた時のエピソードを話してくれた。

補聴器は、こういうところでは用をなさないことが多い。
ナイフやフォークの振れ合う音、椅子を動かす音といった、周囲の雑音が取捨選択なしに耳に飛び込んでくるからだ。

だから耳元で、「五味さぁーん」とそこそこ大きな声で話す必要があったにもかかわらず、
バックグラウンドミュージックでベートーヴェンの曲が鳴っていると、
同席した誰もが気がつかないのに、五味先生だけが「ベートーヴェンの作品○○だ」と口にされたそうだ。
言われて耳をすますと、確かに鳴っているのに気がつく。
そういう音量だったのに、五味先生ひとりだけベートーヴェンに耳をすまされていた。

「不思議だったなぁ、五味さんのそういうところは」と懐かしそうに話してくださった。

Date: 1月 27th, 2009
Cate: 五味康祐

五味康祐氏のこと(その3)

やはりケンプだった。

五味先生が病室で最期に聴かれたのは、ケンプ弾くベートーヴェンの作品111。
おそらくバックハウスの作品111は通夜で、最期にかけられたのだろう。

お嬢様の五味由玞子さんが、「小説新潮スペシャル」に収められている
「父・康祐の遺したレコード」(1981年1月)に、こう書かれている。
     ※
最後に、わが家から父のもとに届けたレコードは、オイゲン・ヨッフム指揮の「マタイ受難曲」とウィルヘルム・ケンプの弾いたベートーヴェンのピアノソナタ、作品一〇六、一〇九と一一一である。父は一一一を聴きながら泣いていた。父の涙を、私はそのとき、はじめて見た。

Date: 1月 25th, 2009
Cate: 五味康祐

五味康祐氏のこと(その2)

「想い出の作家たち」という本のことを知った。
1993年に文藝春秋から出ており、今は亡き作家の素顔を、身近にいた家族が語った本とのこと。

その第1集に、五味先生の奥様、千鶴子氏の文章が収められている。

絶版だが、amazonで古本が購入できる。価格も、送料のほうが高いくらいだ。
注文したばかりなので、手もとに届くのは数日後である。

Date: 1月 22nd, 2009
Cate: 五味康祐

五味康祐氏のこと(その1)

もう10年ほど前になるか、週刊文春で剣豪小説を取りあげた企画があった。
座談会形式だった。五味先生についても語られていた。

五味先生は、「喪神」により1953年(昭和28年)2月に、第28回芥川賞を受賞されている。
松本清張氏の「或る『小倉日記』伝」との同時受賞。

この時の芥川賞の選考委員は、川端康成、丹波文雄、舟橋聖一、石川達三、瀧井孝作、佐藤春夫、宇野浩二、
坂口安吾の8氏。

週刊文春によると、坂口安吾氏が、もっとも強く推されたとある。
記憶がかなり曖昧だが、坂口氏がもし選考委員でなかったら、五味先生の芥川賞受賞はなかった、
そういう印象だった。
坂口氏は「この男は、大化けする。」、そう言って推されたそうだ。

「文藝春秋」1953年3月号に選評の概要が載っている。

坂口安吾氏は語っている。
「剣士や豪傑については日本古来の伝承的話術があり、この作品はそれに即している如くであるが、
実はそれに似ているだけで、極めて独創的な造形力によって構成された作品である。
かかる発明はとうてい凡手のなしうべからざるところで、非凡の才能というべきである。」

丹波、舟橋、宇野3氏の、そっけなく冷たい評とは、まったく異る。

Mark Levinsonというブランドの特異性(余談)

「人間の死にざま」(新潮社)に所収されている「音と悪妻」で、

このところ実は今迄のマッキントッシュMC275の他に、関西のカンノ製作所の特製になる300B-M管一本を使ったメイン・アンプを併用している。これは出力わずか8ワットという代物である。さすがに低域はマッキンの豊饒さに及ばぬが、だが、何という高音の美しさ、音像の鮮明さ、ハーモニイの味の良さ……昔の愛好家がこの真空管に随喜したのもことわり哉と、私は感懐を新たにし、マッキンよりも近頃は8ワットのカンノ・アンプで聴く機会が多い。

と書かれ、組み合わされているコントロールアンプについて、「ベートーヴェンと雷」のなかで、
マークレビンソンのJC2だとされている。

念のため、関西の、と書かれているが、正しくは、小倉の、である。

カンノ・アンプをお使いだったことは、以前から知っていた。
コントロールアンプはマッキントッシュのC22かマランツの#7のどちらかで、
おそらく#7かな、と思っていただけに、
JC2の文字を見た時は、驚きよりもうれしさのほうが大きかった。

実は、私もJC2を使っていたからだ。

1987年だったか、とある輸入商社の方にお願いして、アメリカから取り寄せてもらった。
しかもジョン・カールによってアップグレードされたJC2だった。
しかもJC1が搭載されているものだった(「人間の死にざま」を手に入れたのは2000年ごろ)。

ツマミは、初期の、細くて長いタイプ。
見た目のバランスは、途中から変更になった、径が太くなり、短くなったツマミの方がいいのはわかっているけど、
JC2の、あの時代のアンプの中で、ひときわとんがっていた音にぴったりなのは、やっぱり細いツマミだからだ。

五味先生のJC2がどちらなのかは、写真で見たわけではないのでわからない。
けれど、きっと初期のモノだと、確信している。

Date: 1月 16th, 2009
Cate: Wilhelm Backhaus, 五味康祐

ケンプだったのかバックハウスだったのか

文藝春秋 2月号を読んだ。
五味先生が最期に聴かれたレコードは、バックハウスのベートーヴェンの作品111、とある。

五味先生の追悼記事が載ったステレオサウンド 55号の編集後記に、原田氏は、
「最後にお聴きになったレコードは、ケンプの弾くベートーヴェンの111番だった」と書かれている。

新潮社から出た「音楽巡礼」に、五味先生と親しくお付き合いされていた南口氏も、
ケンプのベートーヴェンがお好きだった、と書かれていたので、
今日までずっとケンプのベートーヴェンを最期に聴かれたものだと思ってきた。

ケンプは病室で最期に聴かれたのかもしれない、バックハウスは通夜でかけられたものかもしれない。

まぁ、でも、どちらでもいいような気持ちも、正直にいえば、ある。
ケンプのベートーヴェンも、バックハウスのベートーヴェンも、代わりなんて思い浮かばない。
音楽とは、本来そういうものだということを想い起こさせてくれる。

どちらにも、自恃がはっきりとある。

Date: 1月 15th, 2009
Cate: 五味康祐

文藝春秋

いま書店に並んでいる「文藝春秋」2月号に、
ステレオサウンドの原田 勲会長が、
「五味康祐先生のオーディオ」というタイトルで、コラムを書かれている。

実は、いましがた、傅さんからいただいメールで知ったばかりなので、未読。
こんな時間に開いている書店が近所にあれば、すぐに買いに走るところなのに……。

「オーディオ巡礼」復刻版の巻末には、原田氏の「五味先生を偲んで」が所収されている。

Date: 1月 15th, 2009
Cate: 五味康祐

「オーディオ巡礼」

五味先生の「オーディオ巡礼」が復刻される。
1月24日、ステレオサウンドから発売になる。

実は「オーディオ巡礼」が復刻されることは、1年前に、ステレオサウンドの原田会長から聞いていた。

2月2日、瀬川先生の墓参に行く車の中で、五味先生の話になったとき、
「五味さんの命日の4月1日に、オーディオ巡礼を復刻したいんだ」と話された。

五味先生の文章に心打たれ、ときに涙して、音楽とオーディオにのめり込んでいった者は、
どんなに時が経とうと、忘れることは絶対にない。

字面だけを読んできた者には、理解できないことだろう。

Date: 12月 13th, 2008
Cate: 五味康祐, 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その23)

五味先生は、オーディオ愛好家の五条件として、次のことをあげられている。

①メーカー・ブランドを信用しないこと。
②ヒゲのこわさを知ること。
③ヒアリング・テストは、それ以上に測定器が羅列する数字は、
 いっさい信じるに足らぬことを肝に銘じて知っていること。
④真空管を愛すること。
⑤金のない口惜しさを痛感していること。

それぞれについては、ステレオサウンドから刊行されていた「オーディオ巡礼」を読んでいただくとして、
ここでは、④の「真空管を愛すること」から、もう一度引用する。
     *
分解能や、音の細部の鮮明度ではあきらかに520がまさるにしても、音が無機物のようにきこえ、こう言っていいなら倍音が人工的である。したがって、倍音の美しさや余韻というものがSG520──というよりトランジスター・アンプそのものに、ない。倍音の美しさを抜きにしてオーディオで音の美を論じようとは私は思わぬ男だから、石のアンプは結局は、使いものにならないのを痛感したわけだ。これにはむろん、拙宅のスピーカー・エンクロージァが石には不向きなことも原因していよう(私は私の佳とするスピーカーを、つねにより良く鳴らすことしか念頭にない人間だ)。ブックシェルフ・タイプは、きわめて能率のわるいものだから、しばしばアンプに大出力を要し、大きな出力Wを得るにはトランジスターが適しているのも否定はしない。しかしブックシェルフ・タイプのスピーカーで”アルテックA7”や”ヴァイタボックス”にまさる音の鳴ったためしを私は知らない。どんな大出力のアンプを使った場合でもである。
     *
五味先生は、倍音の美しさを真空管アンプに認めておられる。

ステレオサウンドの筆者の中で、真空管アンプのよさを積極的に認めておられた長島先生は、
「真空管アンプの方が、トランジスターアンプよりも音の色数が多い」とよく言われていた。

五味先生も長島先生も、表現は違うが、同じことを言われている。

カウンターポイントの主宰者、マイケル・エリオットも、同じ趣旨のことを言っていた。
真空管を使いつづける理由は?、という問いに、
「ローレベルのリニアリティが優れていること、
それと真空管でなくては得られない音色があるから」と答えていた。

真空管だからこそ得られる音色とは、五味先生、長島先生が感じられていたことと同じだろう。

カウンターポイントの初期の製品、SA5、SA4を聴くと、納得できる。
けれど、少なくともSA5を聴いて、私はローレベルのリニアリティが優れているとは感じられなかった。

マイケル・エリオットの言葉どおりのアンプは、SA5000になって、はじめて実現できたと思っている。

Date: 11月 30th, 2008
Cate: 五味康祐

長生きする才能

五味先生の遺稿集「人間の死にざま」(新潮社刊・絶版)を読んでいると、
いくつもの、印象ぶかい言葉にぶつかる。

「私の好きな演奏家たち」に出てくる言葉がある。
     *
 近頃私は、自分の死期を想うことが多いためか、長生きする才能というものは断乎としてあると考えるようになった。早世はごく稀な天才を除いて、たったそれだけの才能だ。勿論いたずらに馬齢のみ重ね、才能の涸渇しているのもわきまえず勿体ぶる連中はどこの社会にもいるだろう。ほっとけばいい。長生きしなければ成し遂げられぬ仕事が此の世にはあることを、この歳になって私は覚っている。それは又、愚者の多すぎる世間へのもっとも痛快な勝利でありアイロニーでもあることを。生きねばならない。私のように才能乏しいものは猶更、生きのびねばならない。そう思う。
     *
「長生きしたくないなぁ、50くらいでぽっくり死にたいな。病気で苦しみたくないし」という者が、
私のまわりに何人かいる。おそらく、そう思っている人は少なくないのかもしれない。
先の見えないこういう時代だと猶更なのか。

私も、20代前半のころは、そんなふうに思っていたことがある。
30過ぎたころから「長生きもいいかも」と思いはじめ、
そして5年くらい前から「しぶとく長生きしよう」と決めた。

長生きする才能が備わっているかどうかはわからないので、思うだけ、なのだが、
長生きしなければ出しえない音がある以上は、思うことからはじめる。
そう決めた。