Archive for category 音の毒

Date: 8月 23rd, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その5)

五味先生は、つづけてこう書かれている。
     *
 そのくせ、バルトークの全六曲の弦楽四重奏曲を、ジュリアードの演奏盤で私は秘蔵している。不幸にして私が狂人になったとき、私を慰めてくれる音楽はもうこれしかあるまい、と思えるし、気ちがいになっても、バルトークのクヮルテットがあるなら私は音楽を失わずにすみそうだ。狂人に音楽が分るものかどうか、その時になってみなければ分らぬが、モーツァルトとバルトークのものだけは、理解できそうな気がする。
 そういう意味で、私のこれは独断だが、バルトークは現代音楽でモーツァルトに比肩し得る唯一の芸術家だ。アルバン・ベルクもビラ・ロボスもシェーンベルクも、ついに新音楽ではバルトークの亜流にすぎない、そう断言してもよいと思う。
     *
「ジュリアードの演奏盤」としか書かれていない。
ジュリアード弦楽四重奏団は、三度バルトークを録音している。
モノーラル時代、ステレオになり1963年、デジタルになり1981年。
五味先生は1980年に亡くなられているから、
五味先生が秘蔵されていたジュリアードの演奏盤は、
バルトークの弦楽四重奏曲のすごさを、多くの聴き手に思い知らせたという意味でも、
モニュメンタルな録音といえる1963年のもののはずだ。

1963年はちょうど50年前。
私はうまれたばかりだから、当時のことを自分の体験として知っているわけではないが、
本やきくところによると、1963年にはバルトークは「現代音楽」として聴かれていた、ということだ。

バルトークの弦楽四重奏曲の第一番が1908〜1909年、
第二番が1915〜1917年、第三番が1927年、第四番が1928年、第五番が1934年、最後の第六番が1939年。

ジュリアード弦楽四重奏団がステレオ録音したとき、第六番の完成から24年後。
「現代音楽」としてバルトークの音楽が聴かれていた時代がはっきりとあって、
1963年はまだまだそういう時代だったからこそ、
ジュリアード弦楽四重奏団による二組のバルトークの全集を聴きくらべたとき、
音の良さでは1981年の録音が優れている。
けれど、演奏の気魄となると、1963年の録音に圧倒される。

Date: 8月 22nd, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その4)

小学校の時の、そんな体験を彷彿させたのが、
五味先生の「西方の音」を読んでいたときだった。
長崎原爆資料館を訪れてから、約十年が過ぎていた。

「バルトーク」という一篇があった。
長くなるが引用しておく。中途半端に省略したくなかった。
     *
 もともとバルトークの音楽は私のもっとも忌避する芸術であった。彼の弦楽四重奏曲を、はじめて聞いた時の驚きを私は忘れない。かんたんに申すなら、バルトークは私を気違いにさせたいのか、と思った。そうでなくても何か一本、常人とはスジの狂った神経が自分にあるのを感じている。私は、常に正常でありたいし、こういう言い方が許されるなら目立たず平凡に一生を終えたいとどんなにつとめてきたかしれぬ。それでも最も自分らしくのびのび振舞えたと思えたとき、私の言動は常軌を逸し、人もそう言う。後で私もそう思う、だが常に、後でだ。
 そんな常軌を逸し、すじの違った何かをバルトークはことさら私の内部で拡大し、踏みはずせ踏みはずせと嗾ける。ふみはずせばどうなるか、防御本能で私は知っている。俺は破滅したくないのだ、平凡人でいたいのだ……私は心で叫んで抵抗し、脂汗で皮膚がぬめってくるような感じに、なんども汗を拭いた。そんな音楽である。バルトークは周知の通りその作品があまり急進的なため、不評を蒙り、一時は創作のペンを折らねばならなかった。しかし彼はそういう精神的孤立の中で最も自分らしい音楽を書いた、それが第二弦楽四重奏曲だ。当時彼は三十五歳だった。
 またそれからの二十年間、彼の充実した時期にその心の内奥を語りつづけたのが全六曲のクヮルテットであり、時に無調的、半音階的、不協和的作風(第四番)を経てヨーロッパを離れる六番にいたるまで、これら六つの弦楽四重奏曲には、つまり巨匠バルトークの個性のすべてが出ている。彼は晩年、貧乏のどん底でアメリカに死んでいったが、悲境のその死を一群のクヮルテットのしらべの中から予感するのは、さほど困難ではない。——などと、もっともらしい音楽解説は実はどうでもよいことだ。
 とにかく、私はバルトークの弦楽四重奏曲を——はじめに第二番、つぎに四番、六番と——ついにそのどれ一つ、終章まで聴くに耐えられなんだ。
「やめてくれ」
 私は心中に叫び、それが歇んだときホッとした。およそ音楽というものは、それが鳴っている間は、甘美な、或は宗教的荘厳感に満ちた、または優婉で快い情感にひたらせてくれる。少なくとも音楽を聞いている間は慰藉と快楽がある。快楽の性質こそ異なれ、音楽とはそういうものだろう。ところが、バルトークに限って、その音楽が歇んだとき、音のない沈黙というものがどれほど大きな慰藉をもたらすものかを教えてくれた。音楽の鳴っていない方が甘美な、そういう無音をバルトークは教えてくれたのである。他と異なって、すなわちバルトークの音楽はその楽曲の歇んだとき、初めて音楽本来の役割を開始する。人の心をなごめ、しずめ、やわらげ慰撫する。私には、バルトークは精神に拷問をかけるために聴く音楽としか思えなかった。言いかえれば、バルトークの弦楽四重奏曲を終章まで平然と聴けるのは、よほど、強靭な神経の持ち主に限るだろう。人はどうでもよい、私にはそうとしか思えないのである。
     *
「それが歇んだときホッとした」とある。
ここで、小学低学年のころの映画のこと、
小学五年での長崎原爆資料館のことを思い出すことになった。

Date: 8月 21st, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その3)

死の床で、もう一度食べたいものがあるとしたら、
私は長崎原爆資料館を見た後に食べた、あのアイスかもしれない。

そのくらい、あの時のアイスの味は忘れ難いものになった。

あの時のまったく同じアイスが、いま目の前にあって食べたとしてもおいしいと感じても、
あくまでも、数ある食べ物の中のひとつとしておいしいと感じるだけだと思う。

それでも、こんなことを思い、書いているのは、あの時のアイスの味だけが、
直前まで見ていた長崎原爆資料館にいて、
それまでの十年間でいちども味わったことのない、いいようのない気持をどうにかしてくれたからだ。

小学低学年のときに観た映画、
このときは暗い映画館の中から(昔の映画館はほんとうに暗かった)、
明るい外に出た時に、ほっとした(できた)。

長崎原爆資料館のときには、外に出たくらいではそうはならなかった。
このときたしか十歳だった。
そんな子供は、なんとか、すこしでもはやくほっとしたかった。
そのとき目の前で売っていたのがアイスだった。

アイスはおいしかった。
ひとつ食べて、もうひとつ買った。それも食べ終るとまたひとつ買った。

なにか対比を求めていたのかもしれない。
映画館の暗さと外の明るさ──、
映画のときはこの対比でなんとかほっとできた。

けれど長崎原爆資料館のときは、外の明るさだけではどうにもならなかった。
子供心に、あのときのアイスは対比として存在であることがわかっていたのだろうか。

Date: 8月 20th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その2)

私が長崎原爆資料館に行ったのは、もう40年ほど前のこと。
そのときの建物は新しくはなかった。
どちらかといえば暗い感じのする建物だった記憶がある。
少なくとも近代的な明るい印象の建物ではなかった。

そんな資料館の中に展示されているものをひとつずつ見てまわった。
できれば見たくない、と思っていたような気もする。
でも、すべてをきちんと見なければ、と小学生ながらに思ってもいた。

いくつかはひどく記憶に残って、
しばらくはそのイメージが頭から消し去ることができなかった。

修学旅行は小学五年のときだった。
ぺちゃくちゃしゃべりながら行動をしがちの年ごろだったけれど、皆無口だった。
妙に静かだった。

心の中では、どういう言葉を発していたのかはわからない。
でも皆黙っていた。
湿気がまとわりつくような感じも記憶に残っている。

長崎原爆資料館の外に出たら、
自転車で小さな屋台をひいて、アイスを売っている人がいた。
長崎名物の氷のつぶがはいったアイスだ。

このアイスを食べて、ほっとした、というか、やっとほっとできた。

Date: 8月 20th, 2013
Cate: 音の毒
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「はだしのゲン」(その1)

私が生れ育った田舎町にも昔は映画館があった。
中学生になったころにはもうなくなっていた。

古い、ボロい映画館だった。
いわゆる名画座で、二本立て、三本立てで上映されていた。
話題の映画はバスに一時間ちょっと揺られたところにある映画館に行く。

地元の、そんな映画館で観ていたのは、学校推薦の映画であったりした。
何本か観ているのだが、ほとんど記憶には残っていない。
でも、一本だけ強烈に記憶に残っている映画がある。

タイトルはもう憶えていない。
ストーリーもうろ覚えだ。
なのにいまも憶えているのは、観ていて気持悪くなった映画だったからだ。

第二次大戦の、どこかの島での話だった。
終戦近いころの話だったはず。
極限状態に追い込まれた日本兵が描かれていた。

そんな映画を、小学校低学年の時に観ている。
吐きそうになる寸前の、気持悪くなるシーンもあった。
いま思うと、よくこういう映画が学校推薦になったな、と思わなくもない。

映画が終り、外に出た時にほっとしたことも、強烈に憶えている。
昼間の太陽の光が、こんなにも人の気持を一瞬にして変えてくれるものだと感じたのは、
その数年後、小学校の修学旅行で行った長崎原爆資料館を見終り、館の外に出た時も同じだった。