Search Results

Date: 3月 3rd, 2019
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その12)

その11)は六年前。
そんな前のことの続きを書こうという気になったのは、
ステレオサウンド 210号の告知を見たからだ。

210号の発売日は二日後だから、内容ではなく、
記事のタイトルのつけ方を見ただけにすぎないのだが、
第二特集の「達人が明かすHi-Res再生の実践テクニック」、
このタイトルを見て、「あったもの、なくなったもの」を、いままで以上に実感した。

3月5日の発売日に210号を読んでみれば、
もしかすると、タイトル通りの内容の記事だな、と思うかもしれない(まぁ、ないと断言できるが)。

そうだとしても、このタイトルの薄っぺらさ。
薄ら寒い影のようなものを感じた。

これは、ずっと以前のステレオサウンドにはなかったものである。
なかったものが、いまはある。

それは以前のステレオサウンドにあったものがなくなったからなのだろう。

これまでは、ステレオサウンドがよくなってくれるかもしれないというわずかな期待をもっていた。
もっていたからこそ、厳しいことを書いてきた。

けれど、いよいよまったく期待できなくなってしまうような気がしている。
だから、薄ら寒い影のようなものを感じたのかもしれない。

Date: 2月 8th, 2015
Cate: 正しいもの

正しいもの(あったもの、なくなったもの)

二年ほど前、別項「あったもの、なくなったもの」で、
昔のステレオサウンドにはあって、いまのステレオサウンド(編集部)にはなくなったものがあると書いた。

何がなくなったのかについては、あえて書かなかった。

それは「理想」である。
なぜその「理想」がなくなったのかについては書かない。

Date: 3月 9th, 2013
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その11)

この項を読まれている人のなかには、
「なんだ、結局、昔はよかった」といいたいだけなのか、と受けとめられている方もいるかもしれない。

はっきりいおう、たしかに「昔はよかった」。
「昔はよかった」といえば、相対的に「いまはだめ」「いまはあまりよくない」ということになる。
そのことを強調したいわけではない。

いまがいいところもあるにはある。
それでも……、とおもう。

昔があれだけよかったのだから、いまはもっとよくなってほしい、とおもう。

数年前に、こんなことをオーディオ関係者から聞いたことがある。
いま輸入商社につとめている若い世代の人たちは、
オーディオ全盛時代をまったく知らない。だから、オーディオ業界とはこういうものだと受けとめている。
一方、オーディオ全盛を体験してきた世代の人たちは「昔はよかった」というばかり……。

この話をしてくれた人は、そういうオーディオ全盛を体験してきた世代の人たちよりも、
若い世代のほうがまだいい、ということだった。

「昔はよかった」と懐かしんでいるばかりの、オーディオ全盛を体験してきた世代の人よりは、
たしかに現状をこういうものだと受けとめている若い世代の人たちがいいというのは、頷ける。

けれど、どこかそこに消極的な、熱量の少なさみたいなものを私は感じてしまう。
どこかに、最初から「こんなものだろう……」というあきらめがはいっているような気がしないでもない。

Date: 2月 24th, 2013
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その10)

facebookはアカウントをつくる以外にも、グループやページと呼ばれる機能を使うことができる。
facebookで、私が利用しているのはもっぱら、このページとグループの機能である。

グループ機能をつかって”audio sharing“という非公開のグループをつくっている。
これに関してはfacebookのアカウントが必要となるが、
ページ機能をつかっている「オーディオ彷徨」というページをつくっている。

タイトルからわかるように岩崎先生のページである。
前にも書いているように、ここでは岩崎先生の写真も公開している。
今日もいくつか公開した。
ここでの公開はtwitterと連動するようにしているので、
「オーディオ彷徨」への書込みの一部は、twitterにツイートされる。
facebookのアカウントを持っていない方も、それを見てアクセスされる。

今日公開した岩崎先生の写真のなかに、アキュフェーズのパワーアンプM60を試聴中のものがあった。
小さな写真だ。

この写真を公開したという私のツイートをリツイートしてくれたのが、
無線と実験に「直して使う古いオーディオ」を書かれている心理学者の渡邊芳之さん。
そしてつづけて、
「オーディオ機器もオーディオ機器を眺める人も今はこんなに活き活きとした表情をしていないように見えちゃうんだ。」
とツイートされている。

私もそうおもっている。
これも「なくなったもの」といえよう。

Date: 12月 17th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その9)

「なくなったもの」がなんであるのかに気がついた、として、
それで即面白いオーディオ雑誌がつくれるようになるわけではない。

気づくことで、面白いオーディオ雑誌をつくっていくための方向に目を向けた、ということである。

「なくなったもの」に気づけば、
これから先、何を考えていかなければならないのか、何をしていかなければならないのか、
そのためには何が必要になるのか、が見えてくるようになる。

何が必要になるのか──、
これだけはあえて書いておく。
別項「オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは)」でもふれている”strange blood”である。

もうひとつ書いておくと、「なくなったもの」と書いているのだから、
ずっとずっと以前のステレオサウンドには「あったもの」である。
ずっと「ないもの」ではないということである。

「なくなったもの」がわかれば、
そのころのステレオサウンドにとっての”strange blood”とは、ということもはっきりと見えてくるはずだ。

Date: 12月 13th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その8)

30年以上前のステレオサウンドにあって、
最近(といってもここ数年ではなくて、もっと期間は長いのだが)のステレオサウンドに「なくなったもの」が、
なんなのか、もったいぶらずに書けばいいじゃないか、といわれるかもしれない。

ここでそれについて書くのは簡単であるし、時間もかからない。
なのに書かないのは、関係のない者から指摘されて、
そのことについてステレオサウンド編集部が納得したとしても、
自分たちで気がついたことでないことだから、いずれまた忘れてしまう。
大切なことから人はみな忘れてしまう──、
そのことをいくつもみてきているし、世の中にもいくつも、数えきれないほどある。

だからこそ自分たちで気がつかなければならないことである。
それができなければ、ステレオサウンドの誌面は良くすることはできても、さらにつまらなくなっていく。

ステレオサウンドのライバル誌として、一時期のスイングジャーナルがあった。
ジャズ・オーディオということに関してはステレオサウンドのライバルであったし、
ジャズ・オーディオに限れば、ステレオサウンドよりも影響力のあった雑誌だった。

そのスイングジャーナル、スイングジャーナルという会社とともに消えてしまった。
私には、このこともステレオサウンドがつまらなくなったことも同じ理由によるものだととらえている。
スイングジャーナルが熱を帯びていたときには「あったもの」が、
いつしか薄れ消えてしまっていた。
だから「つまらなくなった」という声が出はじめ、なくなった……。

Date: 12月 12th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その7)

編集者は、良くしていこう、と考えている。
記事を良くしていくことを考えている。
このことはいまのステレオサウンドの編集者も私が編集という仕事をやっていたときも同じはず。

けれど、これが時として雑誌をつまらなくさせていることに関係していることを、
編集という仕事を離れて、それもある程度の月日が経ってから気がついた。

ほんとうは編集という仕事をやっているときに気がつかなければならないことを、
私はそうではなかった。
だからこそ、いまの編集部の人たちも、
この「良くしていこう」という陥し穴にとらわれているようにみえる。

しかも「良くしていこう」とした成果は、あらわれている。
誤植が減ってきたのもそのひとつだし、発売日が守られているのももちろんそうである。

「良くしていこう」というのは決して間違いではないからこそ、
「良くしていこう」という陥し穴には、編集の現場にいるとよけいに気がつきにくいではないだろうか。

なぜなのかについて書くことも考えた。
けれど、これは編集の現場にいる人たちが自ら気がつかなければならないことである。

あったもの、なくなったもの──、
このふたつのことを考えていけば、きっと答にたどりつける。
たどりついてほしい、と思っている。

この項の(その4)に書いた「なくなったもの」ではない、違う何かがなくなっている、からである。

Date: 12月 12th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その6)

関係のない者が好き勝手なことを書いている──、
そう関係者は思うかもしれない、とそんなことは承知のうえで書いている。
それに「つまらなくなった……」と思っているのは、おまえのまわりの人間だけだろう、ともいわれることだろう。
類は友を呼ぶ、というから、私のまわりには「つまらなくなった……」という人が集まるのかもしれない。

それでも、あえてこんなことを書くのは、ステレオサウンド編集部にいたときには気づかなかったことが、
離れてみると、ふしぎなことによく見えてくる。
見えてくると、あったもの、なくなったものがはっきりとしてくる。
そうなると当然、なぜそうなってしまったのか、と考える、からである。

ステレオサウンドの185号が先日発売された。
新しい編集長になってまる二年、八冊のステレオサウンドが出た。

まだ読んでいない。
川崎先生の連載が載っていたころは、発売日に書店に行き購入していたけれど、
川崎先生の連載が終了してからは、購入をすっぱりとやめた。
それでも発売日には書店に行き、とりあえず手にとることはあったが、
もうそれもしなくなってしまった。
オーディオに対する情熱が失せたわけではない。

ステレオサウンドがもう必要なくなった、ということもある。
けれど、そうなったとしても、オーディオ雑誌としておもしろいものであれば、買うに決っている。
だから違うところに、
買わなくなった、すぐには手にすることもなくなってきたことに関係している何かがあるわけだ。

Date: 12月 12th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その5)

ながくステレオサウンドを読んできた人たちからよく聞くのは、
いまのステレオサウンドはつまらなくなってきた……、といったようなことだ。

ながく、といっても、それは人によって違う。
10年をながく、ととらえる人もいる。たしかに10年同じ雑誌を読んできたら、
それはながく読んできた、といえなくもない。
でも、ここで私がいっている「ながく」は20年でも足りない。
最低でも30年以上前からステレオサウンドを読んできたうえでの、「ながく」である。

私ですら、最初に買ったステレオサウンドから、もう36年になる。

だから10年をながく感じる読者、
たいていは30代前半か20代後半ぐらいの方が多いだろう。
そういう読者の人たちにとって、
ステレオサウンドは、いま出版されているオーディオ雑誌では圧倒的に面白く感じていても不思議ではない。
そういう若い読者からは、私くらいの読者、それよりながい読者の「つまらなくなった……」は、
単に昔を懐かしんでいるだけだろう、と思われている、とも思う。

いまのステレオサウンドの誌面のほうが、
昔のステレオサウンドよりもスマートだし、それに誤植も少ない、などといわれるかもしれない。
たしかに、それらの指摘を否定はしない。
誤植は、私がいたときよりも、私が読みはじめたときよりも、それ以前よりも、確実に減ってきている。
これは認める一方で、変な記述がときどき登場してくるのは、わずかとはいえ増えてきている気もする。

誌面構成はよくなっていると感じるところもあるけれど、そうでないとかんじるところもある。
それでも、ずっとずっと以前、私が読みはじめる前よりもずっと以前のステレオサウンドと比較すれば、
大きな違いである。

でも「つまらなくなった……」は、
そういう良くなったこととか、悪くなったこととは、それほど関係のないことである。

Date: 5月 31st, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その4)

なにがあったもので、なにがなくなったもの、と私が感じているのについてあえて書かないのは、
なにももったいぶって書かないのではない。

岩崎先生の文章や対談、座談会を読めばわかることだから、書かないだけのこと。
その岩崎先生の文章、発言はaudio sharingで「オーディオ彷徨」を公開しているし、
「オーディオ彷徨」の電子書籍(ePUB形式)にしたものもダウンロードできるようにしている。
まだまだすべてではないにしても、
かなりの数の個々のオーディオ機器について書かれたものはthe Review (in the past)で公開している。
それ以外の文章、座談会、対談はfacebookページの「オーディオ彷徨」を利用して公開しているのだから、
私が読んできた岩崎先生の文章、発言に関してはすべて読めるようにしている。
これから先も公開していく文章は増えていく。

だからこれらを読めば、すぐには無理かもしれないがいつの日か、はっきりとわかるはずである。
1回読んだだけでわからなければ、
それでもなにがあって、なにがなくなったのかを知りたければ、くり返し読めばいい。
集中して読むことで見えてくるものは、必ずある。
人によって、その時間は半年だったり、1年だったり、もしくはそれ以上かかるかもしれない。

それでもわからない人もいるかもしれない。
でも、それは「読んでいない」からだ。
そういう人に限って、「いまさら岩崎千明なんて」「岩崎千明なんてたいしたことない」などという。

そういう人は、もともと大切なものがなかった人だ、いまもない人だ。

Date: 5月 30th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その3)

昨年後半から、岩崎先生の文章の入力を中心にあれこれ作業している。
facebookの「オーディオ彷徨」でそれらは公開しているし、試聴風景の写真もスキャンしては公開している。

写真に関しては紙質のあまりよくないページからスキャンだし、
写真自体も小さな扱いのことが多いから、画質はよくないものが多い。
それでもある程度数がまとまってきたのを、岩崎先生の文章とあわせて眺めていると、
オーディオ雑誌にあの時代にあったもの、いまの時代になくなったもののひとつが、私の中でははっきりしてきた。
(なくなった、は少し言葉が過ぎる気もするが、もうほぼなくなりつつある……)

はっきりしてきた「目」で、いまのオーディオ雑誌はそっちの方向へつき進むように見えてしまう。
この方向性は、これからも変ることなく、ますますそっちの方向へと行くのであろう。

Date: 3月 14th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その2)

いろいろなことがらで、あったもの、なくなったものについて考えることが少しずつ増えてきたように感じている。
オーディオは13歳のときからだから、この秋で36年になるわけで、
この36年のあいだに、あったもの、なくなったものがある。

なにがなくなったものなのか、を見つめ直すだけでなく、なかったものはなんだったのかを手探りしている。

Date: 11月 29th, 2009
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(補足)

リーダーとヒーローについて考える。

ヒーローとは、「希望」をあたえてくれる人のことだ。

Date: 1月 11th, 2009
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その1)

最初に手にしたステレオサウンドは、1976年の12月に出た、
JBLの4343が表紙の41号で、中学2年の時だった。

この号の特集は、「コンポーネントステレオ──世界の一流品」というタイトルで、
いくつものオーディオ機器が紹介されている。
JBLの4343、4350、マークレビンソンのLNP2とJC2、SAEのMark 2500、ヴァイタヴォックスのCN191、
EMTの930stなどなど、このまま思いつくまま挙げていけば、それだけでかなりの分量になるくらい、
何が紹介されていたか、どんなことが書かれていたかは、かなりはっきりと憶えている。

41号と同時に発売されていた別冊の「コンポーネントの世界」との2冊で、
一気にオーディオにのめり込んでいく。

とはいえ中学2年、まだ13歳。アルバイトはまだ禁止されていたし、
中学校の英語教師の息子がもらえるこづかいは、まぁ、そのぐらいだった。

それなのに、4343がいつか買えると思っていたというよりも信じていたし、
LNP2にしても930stだって、そうだ。そう遠くないうちに手に入れられる──、
そんな夢みたいなことを、何の根拠も計画もなしに思っていたのが、いま思い返してみても不思議である。

なぜなんだろう、といまでも思う。

あのころのステレオサウンドに載っていた文章、つまりオーディオ評論には、
いまのオーディオ評論には、ほとんどなくなってしまったものかあったのか。
そうだとしたら、それは何だったのだろうか。

それとも私が歳をとって感じとれなくなりつつあるとしたら、それはいったい何なのか。

はっきりとは感じとれなくても、すべての文章にはなくても、
あのころのステレオサウンドで読んだオーディオ評論には、あきらかに「希望」があった。

この希望の存在が、単なる憧れだけでは終らせなかった。いまは、はっきりとそう思う。

Date: 1月 24th, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その4)

あったもの、なくなったもの」を読んでくれた友人のYさんが、メールをくれた。

Yさんのメールには、
「希望」というキーワードは、広告コミュニケーションの世界では、
一昨年あたりからますます重要視されている、と書いてあった。

Yさんは、「あったもの、なくなったもの」を読んで、時代というものを感じた、と書いてくれた。
私も、Yさんのメールを読んで時代を感じるとともに、
「広告コミュニケーション」という言葉に、目が留まる。

広告の世界ではなく、「コミュニケーション」がそこにはついている。

オーディオの出版の世界も同じだろう。
コミュニケーションがつくかどうかの違いは大きいはず。

2000年に、audio sharingの独自ドメインをとったときに、.netでも.orgでもなく
.comを選んだのは、コミュニケーション (communication) のcomであってほしいという想いからだ。

もちろん.comは company だということはわかっている。