Archive for 8月, 2019

Date: 8月 4th, 2019
Cate: 再生音

ゴジラとオーディオ(その5)

コンピューターグラフィックス(CG)というものを知ったのは、
映画「トロン」だった。1982年のことである。

それ以前の映画にも使われていたのかもしれないが、
意識したことはなかった。
とにかく「トロン」で、CGという技術の存在に気づいた。

その次は「アビス」(1989年)だ。
ここで、水が人の顔になったりするシーンで、驚いた。
「ターミネーター2」(1991年)を観て、
「アビス」と同じ監督、ジェームズ・キャメロンだということに気づく。

さらに「ジュラシック・パーク」(1993年)で、
CGの進歩を強く感じた。

数年ごとにはっきりと進歩していくCGの成果を映画を観て実感できるとともに、
いつのころからか「不気味の谷」という表現が、登場したはじめるようになってきた。

不気味の谷について説明する必要はないだろう。
上に挙げた映画では、CGがつくり出したどれも現実に目にすることのないものばかりである。

恐竜は確かにはるか古代に存在していたけれど、
われわれが目にできるのは化石でしかない。
生きている恐竜は、誰も見ていない。

「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」に登場する怪獣も、
想像上の生物であり、そこに不気味の谷は感じない、
もしくは感じとりにくいのだろう。

違和感はなかった。

ただそれでも、人はなぜ不気味の谷を感じとるのかは考えてしまう。
はっきりとした結論ではない、
なんとなくの結論でしかないが、
不気味の谷をこえてしまうということは、
なにかの秩序が毀れてしまうからではないのか。

そんなことが考えとして浮ぶ。

Date: 8月 4th, 2019
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その10)

瀬川先生の時代、
ステレオサウンドは、「コンポーネントステレオの世界」という別冊を出していた。

この「コンポーネントステレオの世界」で、
瀬川先生によるKEFのModel 303の組合せはない。

1979年末の「コンポーネントステレオの世界 ’80」に間に合えば間違いなく登場していたであろう。
瀬川先生は予算50万円から100万円、200万円へとステップアップする組合せで、
まずJBLの4301を鳴らす50万円の組合せをつくられている。

この50万円の組合せのスピーカーシステムの候補は、
4301の他に、ロジャースまたはオーディオマスターのLS3/5A、KEFのModel 303があった。

けれど103は製造中止になって、Model 303が発表されたばかりで、
そのニュースが、組合せの試聴に入ってから届いたそうである。

なので、この組合せに303は登場しないが、写真は載っている。
どのくらい303の登場が遅かったのかは正確にはわからないが、
おそらく一〜二週間なのだろう。

「コンポーネントステレオの世界 ’80」の巻頭、
「80年代のスピーカー界展望」のなかで、
《イギリスKEFは、リファレンスシリーズの最高機種♯105をシリーズIIに改良し、また、小型の101を新たに加えた。103は製造中止になるとのこと。そしてコンシュマー用としては、ローコストの303と304が登場したが、これはなかなかの出来ばえだ》
と瀬川先生が書かれている。

さらに巻末の「’80特選コンポーネント・ショーウインドー」では、
井上先生が303について、
《柔かく伸びやかな低音と透明な高音だ》と書かれている。

巻末には、さらに行方洋一氏と安原顕氏による
「ローコスト・ベストコンポ徹底研究」があり、
そこに303は登場している。

メインの組合せの試聴には間に合わなかったが、1979年中にモノは到着しており、
試聴も行われていたことがわかる。

Date: 8月 3rd, 2019
Cate: 再生音

ゴジラとオーディオ(その4)

(その3)で、ほぼ理想的なゴジラ映画だった、と
「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」について書いた。

実をいうと、そう書きながらも、
ゴジラはどうやってギドラを倒したのかを思い出そうとしていたけれど、
肝心の決着のシーンを思い出せなかった。

自分でも、驚いていた。
なぜ、そこのところだけ記憶にないのか。
そこまでのシーンは、けっこう憶えていたし、
思い出そうとすれば、断続的だったシーンが時系列通りにつながっていくのに、
肝心のシーン、むしろそこだけ憶えていれば──、と思うシーンがすっぽり抜けている。

その後のシーンも憶えている。
7月のaudio wednesdayで、常連のHさんと「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」について話していた。
Hさんも、この手の映画に関しては、私と趣味がそうとうに近い。
Hさんも、「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」を観ていた。

ゴジラとギドラの決着のつくシーン、憶えてますか、と訊いた。
Hさんも、思い出せない、といっていた。
Hさんも前後のシーンは憶えているのに、肝心のところが記憶から抜けている。

私の周りでは他に観ている人はいないから、これ以上確かめられない。
それにしてもなぜなのか。

ゴジラ、ギドラ、その他の怪獣は、実にリアルである。
着ぐるみでは三本首のギドラは、動きにどうしても制約がかかる。
けれどCGIギドラには、それがない。

これまでにゴジラの映画はほとんど映画館で観てきた。
キングギドラの造形には、子供だったこともあり驚いた。

少し成長すると、着ぐるみなのに、
キングギドラをよく思いついたな、と思うようにもなった。
撮影は大変だっただろうなぁ、と思うからだ。

その意味で、当時の技術では不可能だった映像を、
「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」はつくりだしているし、
日本の映画の予算では無理なところも、
アメリカ映画の予算だと制約もほぼなくなっている。

そうやってつくられた「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」は、
それまでのゴジラ映画を観て、
こんなところがもう少し……、と思ったり感じてたりしていたところが、
すべてこちらの理想通り、というか想像以上に映像化されている。

にも関らず、ゴジラが最強の敵であるギドラをどうやって倒したのか、
その数分程度のシーンを、思い出せないでいる。

Date: 8月 3rd, 2019
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その36)

スピーカーにもプリエコーの発生はある。
デジタルフィルターにもプリエコーの発生がある。

それぞれ逆相か同相かという違いはあるにしても、どちらにもあるわけだ。

にもかかわらずプリエコーが音に影響を与えていることを確認するには、
スピーカーからの音をまたねばならない。
スピーカーからの音を聴いて判断するしかない。

スピーカーは遅れている──、
以前からずっといわれ続けてきている。

瀬川先生の「オーディオABC」には、こんなことが書かれてあった。
     *
 スピーカーの研究では、かつて世界的に最高権威のひとり、といわれた H. F. Olson 博士(「音響工学」をはじめとして音響学に貢献する研究書をたくさん書いています)が日本を訪れたとき、日本のオーディオ関係者のひとりが、冗談めかしてこうたずねました。
「オルソン先生、ここ数年の間に、レコードやテープの録音・再生やアンプに関しては飛躍的な発展をしているのに、スピーカーばかりは、数十年来、目立った進歩をしていませんが、何か画期的なアイデアはないもんでしょうか」
 するとオルソン博士、澄ましてこう言ったのです。
「しかし、あなたの言われる〝たいしたことない〟スピーカーを使って、アンプやレコードの良し悪しが、はっきり聴き分けられるじゃありませんか?」
 これには、質問した人も大笑いでカブトを脱いだ、という話です。
 むろん、この返事はアメリカ人一流のジョークで包まれています。けれど、なるほど、オルソン博士の言うように、私たちは、現在の不完全なスピーカーを使ってさえ、ごく高級な二台のアンプの微妙な音色の差を確実に聴き分けています。スピーカーがどんなに安ものでも、アンプをグレードアップすれば、すれだけ良い音質で鳴ります。
 けれど右の話はあくまで半分はジョークなのです。スピーカーはやっぱり遅れているのです。
     *
スピーカーの歪率は、アンプのそれよりも大きい。
桁が違うほどに大きいけれど、アンプの微妙な差を、そのスピーカーで聴き分けている。
というより、聴き分けるしかない。

聴き分けられるということは、アンプの歪とスピーカーの歪は、
歪率という数字で表わしきれない違いがあるからに違いない。

プリエコーに関してもそうなのかもしれない。
電気系が発するプリエコーと機械系・振動系が発するプリエコーが、
現象としては近いものであっても、同じとは考えにくい。

そして、確かな裏づけをなにか持っているわけではないが、
スピーカーの中でも、ホーン型は、プリエコーに関して敏感に反応してしまうのではないか。

Date: 8月 2nd, 2019
Cate: 五味康祐

「音による自画像」(その10)

自画像といえる歌について考えていくうえで、
どうしても外せない歌手がいる。

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウであり、
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウによる「冬の旅」について、である。

スタジオ録音だけでなく、ライヴ録音を含めると、
十種以上のCDが発売になっている。
そのすべてを聴いているわけではないし、
スタジオ録音に関しても、すべてを聴いているわけではない。

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは、
1955年にジェラルド・ムーアのピアノで、EMIに「冬の旅」を録音している。
これが一回目である。

1962年、同じくムーアの伴奏で、ステレオ録音、
1965年に、今度はイェルク・デムスのピアノで、レコード会社もドイツ・グラモフォンになっている。

1971年に、三度、ムーアと、ドイツ・グラモフォンに録音している。

1979年、ダニエル・バレンボイムと五度目の録音、
1985年、アルフレッド・ブレンデルとの六度目、
1990年、マレイ・ペライアとの七度目(最後)の「冬の旅」である。

バレンボイムとの録音から、ピアニストが、伴奏ピアニストの域を超えたところでなされている。
このバレンボイムとの「冬の旅」の評価は高い。

バレンボイムがあまり好きでない私でも、この「冬の旅」は素晴らしいと思っている。

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは、1925年5月28日生れである。
一度目の「冬の旅」は、ぎりぎり29歳、
二度目は37歳、三度目は39歳(40歳になる二週間ほど前)、
四度目は46歳、五度目は53歳、六度目は60歳、七度目は65歳である。

黒田先生は、「冬の旅」は青春の歌だ、とどこかに書かれていた。
「青春」を実感できるということで、
ヘルマン・プライ/ヴォルフガング・サヴァリッシュの「冬の旅」も高く評価されていた。

もちろんディートリヒ・フィッシャー=ディースカウとバレンボイムとの「冬の旅」も、
高く評価されていたけれど、
この録音でのディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは60歳である。

Date: 8月 1st, 2019
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その9)

カートリッジについては、
《カートリッジは(一例として)デンオンDL103D》となっている。

DL103D以外のカートリッジ、
たとえば、同時代のオルトフォンのMC20MKIIもいいカートリッジだし、
瀬川先生は、ステレオサウンド 55号の特集ベストバイでは、
My Best3として、デンオン DL303(45,000円)、
オルトフォン MC20MKII(53,000円)とMC30(99,000円)を挙げられている。

どのカートリッジにしてもDL103Dよりも高価になる。
それにAU-D607内蔵のヘッドアンプに関して、別冊FM fanの25号で、次のように評価されている。
     *
MCヘッドアンプだが、やはりMC20MKIIまではちょっとこなせない。ゲインは音量をいっぱいにすればかなりの音量は出せるが、その部分では、ハム、その他のノイズがあるので、オルトフォンのような出力の低いカートリッジにはきつい。ただし、MC20MKIIの持っている音の良さというのを意外に出してくれた。ヘッドアンプの音質としてはなかなかいい。もちろんデンオン103Dの場合は問題なく、MCの魅力を十分引き出してくれた。
     *
オルトフォンのような低インピーダンスで、低出力電圧のMC型カートリッジは、
ヘッドアンプには少々荷が重いところがある。
かなり優秀なヘッドアンプでなければ、満足のいく再生音は得にくかったのが、
この時代である。

ならばカートリッジはMM型の選択も考えられる。
それでもMC型のDL103Dである。

DL103シリーズには、DL103、DL103S、DL103Dの三つがあった。
瀬川先生の、熊本のオーディオ店での試聴会で、この三つを聴くことができた。

DL103Dを瀬川先生は高く評価されていた。
聴けば、そのことが納得できた。

56号の組合せにおいて、DL103でなくDL103Sでもないのは、
やっぱりと納得できた。
DL103Dが、この三つのカートリッジのなかでは、音楽を活き活きと聴かせてくれる。
47号で《単なる優等生の枠から脱して音質に十分の魅力も兼ね備えた注目作》とある。

そのとおりである。

にしても、である。
MM型カートリッジも、この時代は多くの選択肢があった。
それでもDL103Dを選択されたのは、
一種の遊び心(型番遊び)ではないのだろうか。

岩崎先生が書かれていたことをおもいだす。
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名前が良くて得をするのはなにも人間だけではない。オーディオファンがJBLにあこがれ、プロフェッショナル・シリーズに目をつけ、そのあげく2345という型番、名前のホーンに魅せられるのは少しも変なところはあるまい。マランツ7と並べるべくして、マッキントッシュのMR77というチューナーを買ってみたり、さらにその横にルボックスのA77を置くのを夢みるマニアだっているのだ(実はこれは僕自身なのだが)。理由はその呼び名の快さだけだが、道楽というのは、そうした遊びが入りやすい。
(「ベスト・サウンドを求めて」より)
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瀬川先生にも、こういうところがあったのだろう。