Archive for 4月, 2012

Date: 4月 3rd, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(使いこなしについて話してきたこと)

もう20年も経っているのか……、と今日書こうと思っていたことについて、
その年代をふりかえってみたらちょうど20年だった。

1992年に「シャカリキ!」というマンガの連載が始まった。
自転車のマンガである。いまでこそ東京の街中をロードレースで走っていく人は多い。
いまは自転車関係の雑誌も数も増えているし、
書店に置かれる冊数もはっきりと増えている。それに自転車店も増えた。

でも20年前、自転車はいまとは違い、ブームとは呼べる状況ではなかった。
そんななかで連載が始まった「シャカリキ!」を、夢中になって読んでいた。

主人公は野々村輝という少年。
彼が関西のある町に引越してきたところから始まる。
その町は坂が多いため、ほとんど自転車に乗る人がいない。
そこで自転車好きの主人公を待ちうけていたのは、二番坂と一番坂。

どちらも長い坂道で、一番坂は二番坂よりも2倍ほど長く高い坂という設定。
主人公の野々村輝は二番坂を登り切る。
同級生(小学生)は誰も自転車で登り切ることのできなかった二番坂を、である。

そして一番坂に挑戦する。
坂の中ほど、つまり二番坂と同じくらいのところで力尽き、ペダルから足が離れ、地に足をついてしまう。
このあとに主人公がとった行動は、まったく予測できないものだった。
野々村輝は何も言わずに坂を下ってしまう。
そして、もう一度スタート地点にもどり、一番坂を登りはじめる。

足をついたことぐらいなんでもない、そこで休んだわけでもないし、
そのまままた坂の頂上を目指して登り続けたとしても、誰もなにも言わない。
にもかかわらず、野々村輝は坂のはじまりまで戻っていく。

坂をのぼるのはしんどいけれど、時間をかけて登ってきた坂を下ってしまうのはあっという間である。
その短い時間で体力が回復することはない。
常識的に考えれば、足をついたところからまた登り続けた方が、一番坂を登り切る可能性はまだ高い。
それでもまた最初から挑む。

こんなオーディオと関係のないことを書くのは、2日前(4月1日)に、音を聴きに出かけていたからだ。

Date: 4月 2nd, 2012
Cate: audio wednesday

第15回 audio sharing 例会のお知らせ

今月のaudio sharing例会は、4日(水曜日)です。

テーマを何にしようかと考えていましたが、
今日帰宅してパッと目に飛び込んできたのが、サンスイ(山水電気)倒産のニュースでした。
私自身は、熱心なサンスイ製品のユーザーというわけではなかったものの、
高校生の時、サンスイのAU-D907 Limitedをかなり無理して購入して使っていましたし、
サンスイに勤めておられたNさんとは、いまでもときどきお会いして話をきくことがあり、
それになんといってもJBLの4343の輸入元はサンスイだったわけですから、
今週水曜日のaudio sharing例会のテーマは「サンスイについて語る」にするつもりでいます。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 4月 2nd, 2012
Cate: 言葉

引用する行為について

昨夜のブログで引用した岩崎先生の文章。
この文章だけでなく、ほかにもいくつか、これまで引用してきた文章には、
一回だけでなく岩崎先生の文章のようにくり返して引用している。

同じ文章の引用だから、コピー&ペーストすれば楽だし、
もっと楽な方法としてはドラッグしてくるだけでもできる。
でも、昨夜もそうだけど、毎回キーボードのキーを叩いて入力している。

昨夜も引用した岩崎先生の文章は、2行ほどだから入力にそれほど時間を必要とするわけでもないというものの、
それでもドラッグしてくるだけのほうが圧倒的に速いし、手間もかからない。
にもかかわらず毎回毎回入力していくのは、
書き写すという行為が、どこかしら心地よいところがあるから、
引用のたびに毎回入力していっている。

そして、人は大事なことから忘れていく。
私だって、そうだ。オーディオの大事なこと、音楽の大事なことを忘れないためにも、
つまりは自分のために引用しているというところがあるからこそ、キーを叩いていく。

Date: 4月 1st, 2012
Cate: ワイドレンジ
1 msg

ワイドレンジ考(ジャズにとって、クラシックにとって・その7)

すこし話は前にもどるが、この項を書いていて思い出したことがひとつある。
1988年(だったと記憶している)、
サントリーホールでアルゲリッチとクレーメルのコンサートに行ったときのことだ。
バルトークがプログラムにあった。

サントリーホールには、アルゲリッチ、クレーメルのコンサートの前にも何度も行っていた。
そのあとにも何度も行っているけれど、
アルゲリッチとクレーメルでコンサートでの味わった経験(驚き)は、このときだけである。

アルゲリッチとクレーメルだから、サントリーホールのステージ上にあるのは、ピアノとヴァイオリンだけである。
なのにそれまでオーケストラを何度も聴いてきたけれど、ホール全体が一瞬揺れたと感じたことはなかった。
オーケストラがトゥッティでどれほど大きな音をだそうとも、
サントリーホールという丈夫な建物が揺れるということは起こり得ない。
ホール内の空気が動くということはあってもホールが揺れるということを感じたことはなかった。

だからアルゲリッチひとりが弾くピアノの音によって、
ホールが揺れた(それは物理的に本当に揺れたのではないのであろうが、なぜかそう断言できない)。
その瞬間、思わず視線はステージからはなれてまわりを見廻してしまうほど、現実感のある揺れだった。

このバルトークでのアルゲリッチの放った一瞬のフォルテッシモが、
いま思い返すと、岩崎先生の、これまでに何度も引用している文章につながっていく。
だから、しつこく、また引用しておく。
     *
アドリブを重視するジャズにおいては、一瞬一瞬の情報量という点で、ジャズほど情報量の多いものはない。一瞬の波形そのものが音楽性を意味し、その一瞬をくまなく再現することこそが、ジャズの再生の決め手となってくる。
     *
サントリーホールが揺れたときアルゲリッチが演奏していたのはバルトークであり、
バルトークは、クラシックに分類される音楽であり、ジャズに分類される音楽ではない。
それでも、アルゲリッチの、あの一瞬のエネルギーの凄まじさは、
引用した文章で、岩崎先生が言われていることそのものであったのかもしれない、と20年以上経ったいま、
そうつよく感じている。