Archive for category ジャーナリズム

Date: 2月 3rd, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その6)

「思いやり」とはなんだろうと考える。

「考える」には、まず「考えつく」がある。
でも、これでは、まだまだ十分ではない。

「考え込む」だけでは、足が止まり、前に進めなくなる。

「考え抜く」ことで、目の前にある、高く厚い壁も越えられるだろう。

「思いやり」とは、「思いつく」から「思い込む」、そして「思い抜く」ことなのだろう。

オーディオ誌の記事がすべてが考え抜かれたものであるのが、もちろん理想だし、
実現できたら、ほんとうに素晴らしいことだ。
とは言っても現実は違う。
けれど、掲載されている記事の1本でいい、考え抜かれたものが読めれば、人は本を手にする。< 「おまえはどうなんだ」という声が聞こえてくる。 毎日、なにがしかを書くことは、考え抜くために必要な行為なのかもしれない。

Date: 1月 26th, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その5)

1988年5月に、黒田先生のお宅に打ち合わせで伺ったときのこと。雑談中にある話を黒田先生がされた。

「最近の雑誌の編集者のなかには、一度も顔を合わせたことがない人が何人かいる。
最初の原稿依頼が電話で、その次からは電話かファクシミリ。
書いた原稿もファクシミリで送信してほしいと言ってくるか、もしくはバイトの子に取りによこさせる。」

黒田先生は、当時から音楽誌、オーディオ誌意外に一般誌にも原稿を書かれていた。
上の話は、その一般誌のことだった。

20年以上前から、筆者と編集者のつき合いは、大きな出版社から、すでに希薄になりはじめていたのだろう。
いま思えば、われわれはなんだかんだいって、よく筆者のお宅に伺っていたのかもしれない。
それが当り前のことだと思ってもいた。

いまはファクシミリよりも便利なメールがある。
もう、原稿の、直接の受け渡しもなくなっているのだろうか。

筆者と編集者の間には、いまや必要最低限のコミュニケーションだけしか残っていないのだろうか。
だとしたら哀しいことである。

Date: 1月 24th, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その4)

あったもの、なくなったもの」を読んでくれた友人のYさんが、メールをくれた。

Yさんのメールには、
「希望」というキーワードは、広告コミュニケーションの世界では、
一昨年あたりからますます重要視されている、と書いてあった。

Yさんは、「あったもの、なくなったもの」を読んで、時代というものを感じた、と書いてくれた。
私も、Yさんのメールを読んで時代を感じるとともに、
「広告コミュニケーション」という言葉に、目が留まる。

広告の世界ではなく、「コミュニケーション」がそこにはついている。

オーディオの出版の世界も同じだろう。
コミュニケーションがつくかどうかの違いは大きいはず。

2000年に、audio sharingの独自ドメインをとったときに、.netでも.orgでもなく
.comを選んだのは、コミュニケーション (communication) のcomであってほしいという想いからだ。

もちろん.comは company だということはわかっている。

Date: 1月 24th, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その3)

人にはそれぞれ大切にしていることがある。

しかし、それは、赤の他人からすれば、どうでもよい、ちっぽけなことだったりすることもある。
それでも、当の本人には、大切なことに変わりはない。

けれど、ちっぽけなことと受けとめた、まわりの人は知らぬうちに踏みにじることもあるだろう。
その時は気がつかない、時間が経ってから、その人にとってそれが大切なことであったことを知る。
今にして思えば……と後悔するが、遅い。
私だって、そんなことをしてきたし、いまでも気がつかずにしているかもしれない。

「思いやり」とは、踏みにじる、その前に気がつく心でもあると思っている。

Date: 1月 21st, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その2)

1989年の1月20日付けで、ステレオサウンドを辞めた。

実際には有給休暇が1ヵ月近く残っていたので、12月下旬の時点で仕事からは離れているが、
今年で20年経つ。節目といってもいいだろう。

その節目のときに、私にとってももうひとつの大事な節目である、瀬川先生と同じ46歳になるというのは、
これもなにかの縁かもしれない、と勝手に思っている。

いまはまったくオーディオとは無関係の仕事に就いている。
これから先、仕事としてオーディオと関わっていくのかどうかは、まったくわからない。
それでも、編集の仕事とは何か、という問いを、自分に投げかける。

四六時中考えているわけではない。でも、当り前のように考える。
無意味なことを考えるなんて、と思われる人がいてもいい。
考えるしかないから、考える。

編集とは、橋を架けることだと思う。

人と人、人とモノ(オーディオ)、人と音楽、人と社会、人と時代の間に橋を架けることだ。
その橋は一方通行では、意味をなさない。

そして編集に必要なものは何か、とも考える。

「思いやり」である。
この気持ちを失えば、もうジャーナリズムではなく羽織ゴロでしかない。

オーディオにおけるジャーナリズム(その1)

オーディオ評論について考える時、思い出すのが、井上先生が言われたことだ。

──タンノイの社名は、当時、主力製品だったタンタロム (tantalum) と
鉛合金 (alloy of lead) のふたつを組み合わせた造語である──

たとえば、この一文だけを編集者から渡されて、資料は何もなし、そういう時でも、
きちんと面白いものを書けたのが、岩崎さんだ。
もちろん途中から、タンノイとはまったく関係ない話になっていくだろうけど、
それでも読みごたえのあるものを書くからなぁ、岩崎さんは。

井上先生の、この言葉はよく憶えている。
試聴が終った後の雑談の時に、井上先生の口から出た言葉だった。

井上先生は、つけ加えられた。
「それがオーディオ評論なんだよなぁ」と、ぼそっと言われた。

それから、ずっと心にひっかかっている。

岩崎先生は、「オーディオ評論とはなにか」を、以前ステレオサウンドに書かれている。
そのなかで、柳宗悦氏の言葉を引用されている。

「心は物の裏付けがあってますます確かな心となり、物も心の裏付けがあってますます物たるのであって、
これを厳しく二個に分けて考えるのは、自然だといえぬ。
物の中に心を見ぬのは物を見る眼の衰えを物語るに過ぎない」

ふたつの言葉が浮かぶ。

釈迦の「心はかたちを求め、かたちは心をすすめる」と
川崎先生の言葉の「いのち、きもち、かたち」である。

Date: 1月 11th, 2009
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その1)

最初に手にしたステレオサウンドは、1976年の12月に出た、
JBLの4343が表紙の41号で、中学2年の時だった。

この号の特集は、「コンポーネントステレオ──世界の一流品」というタイトルで、
いくつものオーディオ機器が紹介されている。
JBLの4343、4350、マークレビンソンのLNP2とJC2、SAEのMark 2500、ヴァイタヴォックスのCN191、
EMTの930stなどなど、このまま思いつくまま挙げていけば、それだけでかなりの分量になるくらい、
何が紹介されていたか、どんなことが書かれていたかは、かなりはっきりと憶えている。

41号と同時に発売されていた別冊の「コンポーネントの世界」との2冊で、
一気にオーディオにのめり込んでいく。

とはいえ中学2年、まだ13歳。アルバイトはまだ禁止されていたし、
中学校の英語教師の息子がもらえるこづかいは、まぁ、そのぐらいだった。

それなのに、4343がいつか買えると思っていたというよりも信じていたし、
LNP2にしても930stだって、そうだ。そう遠くないうちに手に入れられる──、
そんな夢みたいなことを、何の根拠も計画もなしに思っていたのが、いま思い返してみても不思議である。

なぜなんだろう、といまでも思う。

あのころのステレオサウンドに載っていた文章、つまりオーディオ評論には、
いまのオーディオ評論には、ほとんどなくなってしまったものかあったのか。
そうだとしたら、それは何だったのだろうか。

それとも私が歳をとって感じとれなくなりつつあるとしたら、それはいったい何なのか。

はっきりとは感じとれなくても、すべての文章にはなくても、
あのころのステレオサウンドで読んだオーディオ評論には、あきらかに「希望」があった。

この希望の存在が、単なる憧れだけでは終らせなかった。いまは、はっきりとそう思う。

Date: 10月 2nd, 2008
Cate: カタログ, ジャーナリズム

カタログ誌(その1)

1970年代は、年に2回発行されていたハイファイ・ステレオガイド。
年1回になり、名称もオーディオガイド・イヤーブックにかわり、
1999年末の号で休刊になった、いわゆるカタログ誌。

オーディオがブームのころは、販売店もカタログ誌を発行していたし、
サウンドステージを発行していた音楽出版社も一時期発行していたのに、
いまオーディオのカタログ誌はない。

カタログ誌なんて、まったく役に立たないから不要だ、と思われている方もいるだろう。
それほど鮮明ではない、モノクロの写真1枚とある程度のスペックと簡単なコメントだけでは、
なんにもわからないから、というのも理解できなくはない。

でも、意外にカタログ誌は楽しめる。

趣味にしている自転車の世界では、カタログ誌がけっこう発行されている。
フレーム本体、完成車のカタログに、周辺パーツのカタログといったぐあいに、
複数の出版社から出ていて、写真がカラーで大きく掲載されていることもあって、
手にとって見ているだけで、すなおに楽しい。

カタログ誌は、年月とともに資料的価値が高くなってくる。

カタログ誌が一冊あれば、瀬川先生のように電卓片手に、あれこれ組合せを空想しては楽しめる。
カタログ誌は、手元に一冊あると重宝する。

カラー写真で、しかも1枚ではなく数枚の写真を大きく、
スペックも発表されている項目はすべて書き写し、
どういう製品なのかについて、コメントも掲載するとなると、
ネットで公開するのが最善なのかもしれない。

ネットの最大の特長と私が考えているのは、即時性ではなく、アーカイヴ性である。

ネットでのカタログ誌はページ数の制限を受けない。
現行製品ばかりでなく、製造中止になった製品も資料として残していける。