オーディオの想像力の欠如が生むもの(その81)
オーディオの想像力の欠如した者は、溢れるおもいをもてない。
オーディオの想像力の欠如した者は、溢れるおもいをもてない。
オーディオの想像力の欠如した者は、上書きしかできないのだろう──、
とすでに二回書いた。
上書きしかできない者は、耳の記憶の集積ができない人なのだろう。
オーディオの想像力の欠如した者は、覚悟なき聴き手にしかなれない。
ずっと以前は、それこそステレオサウンドを記事だけでなく、
広告まで熱心に読んでいた。
いまは──、というと、読んでいるといえばそうなのだが、
眺めている、といったほうか近い、そんな読み方である。
そんな読み方であっても、気になるところが目につくのはどうしてだろうか。
224号でも、あった。
136ページ、特集記事である。
パラダイムのPERSONA Bのページである。
写真の下に、簡単な説明文がある。
そこに《1980年代前半に設立されたカナダのスピーカーメーカー》とある。
352ページ、傅信幸氏によるFOUNDER 70LCRの紹介記事がある。
傅信幸氏の文章の冒頭、
《パラダイム(Paradigm)はカナダ・オンタリオ州で1982年に創業した》とある。
1982年は1980年代前半だから、136ページの説明文は間違っているわけではない。
けれど、傅信幸氏が1982年と書かれているのだから、
136ページの説明文も、1982年に設立された、とすべきだ、と誰も思わなかったのか。
ステレオサウンドの編集部の全員、照らし合せることをしないのか。
編集者ではなく、編集捨になりつつある……
オーディオアクセサリーの186号の特集「“ペルソナ”を愛する評論家たち」、
この記事の担当者だったら──、そんなことをつい想像してみた。
私だったら、こんな記事は作らない、というのは無しで、想像してみたわけだ。
そのうえで、昨晩、私が書いたことを誰かに問われたとしよう。
なんと答えるか。
「ステレオサウンドとは違います」とまず言う。
「B&Wの800シリーズをあれだけ高く評価しながらも、
ステレオサウンドの評論家は誰も買わないじゃないですか。
うち(オーディオアクセサリー)の評論家は買っていますから」と。
評論家だから(業界の人たちだから)、安く買っているのだろう、と勘ぐることもできる。
実際に、多少は安く買っているはずだ。
定価で購入ということはまず考えられない。
それでも、彼ら六人は導入(購入)しているわけだ。
どんなに記事中で、素晴らしいスピーカーだ、いい音だ、と絶賛しても、
誰一人購入しないのと、六人が購入しているのとでは違ってあたりまえ。
六人のうち数人はメインスピーカーとしての導入ではないようだが、
それでも導入したという事実は、なかなかの説得力をもつことになる。
私のように勘ぐる人にはそれほどの説得力とならないだろうが、
それでも、そんな私でも、こういうことを今書いているわけだ。
私は「“ペルソナ”を愛する評論家たち」はタイアップ記事と受け止めている。
では、ステレオサウンドでのB&Wの800シリーズの記事はなんなのか。
800シリーズを誰も購入しないから、タイアップ記事ではない、ということになるのか。
こんなふうに想像してみると、
「“ペルソナ”を愛する評論家たち」の担当編集者は、
叛骨精神を少しは持っているのではないだろうか。
実際のところなんともいえないのだが、
ステレオサウンドにおけるB&Wの800シリーズと、
オーディオアクセサリーにおけるパラダイムのPERSONAシリーズは、
もしかすると、これから面白い展開になっていくのではないだろうか。
オーディオアクセサリーの186号を、いまKindle Unlimitedで読んでいるところ。
特集は「“ペルソナ”を愛する評論家たち」である。
ペルソナ(PERSONA)とは、パラダイムのスピーカーシステムの名称。
「“ペルソナ”を愛する評論家たち」には、
PERSONAを導入した六人が誌面に登場している。
PERSONA B導入が五人、PERSONA 3Fが一人である。
読んでいて、すごいなぁ〜、と変な感心をしてしまった。
パラダイムのPERSONAシリーズは、どの機種も聴いていないので、
どのくらいの実力なのかは知らないが、
聴いたことのある友人によると、けっこういいスピーカーだよ、といっていた。
いいスピーカーシステムなのだろう。
それにしても……、と私はやはり思ってしまう。
オーディオアクセサリーの186号の表紙は、PERSONA Bである。
そして特集が「“ペルソナ”を愛する評論家たち」で、
オーディオアクセサリーの執筆者六人の導入記。
この特集記事を、素直に読む(受け止める)人の割合はどのくらいなのだろうか。
私は、すごい(あからさまな)タイアップ記事だなぁ〜、と感心した。
ここまで堂々とやられたら、すごいなぁ〜、と感心するしかない。
もちろん、六人とも、タイアップうんぬんとはまったく無関係で、
PERSONAシリーズを導入したのかもしれない。
その可能性を完全に否定はできない。
けれど、やり方というものがあるだろう。
たとえそうであったとしても、これではタイアップ記事とは思われかねない。
オーディオテクニカ独自のVM型。
この方式を開発したのは、普通に考えれば、
当時のオーディオテクニカの技術者ということになる。
私だって、オーディオに関心をもち、ステレオサウンドで働くようになるまでは、
そう思っていた。
けれど井上先生という人を知るにつれて、
もしかするとオーディオテクニカのVM型のアイディアは井上先生なのではないのか。
そんなふうに思うようになってきた。
だからといって、何らかの確証、
それがちっぽけなものであっても確証へとつながっていくことを知っているわけではない。
井上先生に訊ねたところで、うまくごまかされたであろう。
そのことを話題にしたこともない。
それでもオーディオテクニカの創業者、松下秀雄氏と井上先生のつきあい、
そのことから私が勝手に妄想しているだけにすぎないのは自覚している。
それでも私はVM型のアイディアは井上先生と確信している。
三年前、別項「評論(ちいさな結論)」で、
いい悪いではなく、
好き嫌いさえ超えての
大切にしたい気持があってこその評論のはずだ、
と書いている。
ステレオサウンドの「オーディオの殿堂」を眺めて、
大切にしたい気持があってこその評論、とはまったく思えない。
リーダーとエース。
組織(チーム)における絶対的エースが、そのチームのリーダーとは限らない。
リーダーだからエースなわけではないし、
エースだからリーダーなわけでもない。
エースでありリーダーでもある。
そういうこともあるだろうが、おそらくそうでないことのほうが多いはずだ。
エースがいて、リーダーがいて、という組織(編集部)が理想だとして、
現実にはエースはいるけど、リーダーは不在、
その反対でエース不在だけれど、リーダーはいる。
もしくはエースもリーダーも不在ということだってある。
エースとリーダー、
どちらかだけならば、優れたリーダーがいる組織のほうが、
おもしろいオーディオ雑誌をつくってくれると思っている。
リーダーが絶対にやってはいけないこと。
だんまり、黙殺、無視だと私は思っている。
リーダー(リーダーシップ)とマネージャー(マネージメント)。
オーディオ雑誌における、このことを、今日、ある人と話していた。
リーダーではない編集長がいる。
マネージャーでしかない編集長がいる。
編集長はリーダーであるべきだ。
わかりきったことだ。
けれど副編集長的にマネージャーでしかなかったりする。
マネージャーの仕事は副編集長にまかせておけばいい。
というか、マネージャーが必要なのだろうか、とも思う。
リーダーとしての資質を持たない人が、編集長になってしまう。
オーディオ雑誌の役目がある。
それぞれのオーディオ雑誌の役割がある。
役目がわかっていないオーディオ雑誌は役割を果たせない。
名ばかりのリーダーしかいないオーディオ雑誌がそうなってしまう。
「オーディオの殿堂」で、
オーディオテクニカの製品は、AT-ART1000のみがノミネートされている。
殿堂入りはしていない。
AT-ART1000の殿堂入りしていないことについては、何も書かない。
意欲的な製品だとは捉えているが、音を聴いていないので。
それよりも、なぜオーディオテクニカのVM型カートリッジが殿堂入りしていないのか、
ノミネートすらされていない。
VM型カートリッジは、オーディオテクニカの特許である。
オーディオテクニカの最初の製品は、MM型カートリッジのAT1、その上級機のAT3、
どちらも1962年に登場している。
その後、オーディオテクニカはトーンアーム、MC型カートリッジなどを出してきて、
1967年にVM型のAT35Xを誕生させている。
MM型に関しては、よく知られるようにエラックとシュアーが特許を取得していた。
世界各国で、両社は特許を取れたにもかかわらず、
日本では無理だったのには理由がある。
瀬川先生から、どうしてだったのかを聞いている。
ちょっとここでは書けないことがあっての、日本での特許不成立である。
このときばかりは、日本のオーディオメーカーが一致団結した、といわれていた。
なので日本では各社がMM型カートリッジを製造販売できたが、
それはあくまでも日本国内に限られる。
MM型カートリッジを海外に輸出しようとすれば、特許料を支払うことになる。
オーディオテクニカは、海外に打って出るためにもVM型を開発した、と聞いている。
VM型ならば、この方式自身が特許を取れたわけだから、
MM型の特許に関係なく海外でも販売ができる。
SMEのSeries Vも、殿堂入りしている。
当然の結果だと思っている。
1985年に登場したSeries Vは、トーンアームとして飛び抜けて高価だった。
その後、Series Vよりも高価なトーンアームがいくつも登場している。
Series Vも値上げしているが、それでもいちばん高価なトーンアームではなくなっている。
それでも私は、Series Vが最高の音を聴かせてくれるトーンアームだと、いまでも思っている。
もっともSeries Vよりも高価なトーンアームのすべてを聴いているわけではないが、
部分的にはSeries Vを上廻る良さを持っている製品もあるだろうが、
トータルとしてのパフォーマンスはいまでもSeries Vが一番のはずだ。
そのSeries Vは、黛 健司氏が担当されている。
*
この製品にいちばん興奮したのは長島達夫先生で、1985年発行の74号に記事を執筆されたが、取材に際して、日本に1本しか入荷していなかったシリーズVをバラバラに分解してしまい、編集担当のわたしを慌てさせた。
*
Series Vの試聴には私も立ち会っている。
長島先生の昂奮ぶりは、いまもはっきりとおもい出せるのだが、
この時からおもっていることがひとつある。
Series Vの前に、SMEからは管球式フォノイコライザーアンプSPA1HLが登場していた。
SPA1HLは、最初オルトフォン・ブランドでのプリプロモデルがあった。
SMEのSPA1HLは長島先生といっしょに聴いた。
SPA1HLについて長島先生の詳しいこと詳しいこと。
思わず「長島先生が設計されたのですか」と口にしそうになるくらいだった。
そうなんだということはすぐにわかった。
パーツ選びの大変さも聞いている。
それに長島先生自身、SMEのアンプは、マランツのModel 7への恩返し、といわれていた。
そういうことがあったから、Series Vも長島先生の設計なのかもしれない──、
ずっとそうおもっている。
完全な設計ではないにしても、
そうとうに長島先生のアイディアが取り入れられている──、
これはもう確信といってもいいくらいに、そうおもっている。
そうでなければ、最初に日本に入ってきた一本なのに、
あそこまで詳しいわけがない。
それに手馴れた感じで分解されてもいた。
SPA1HLのときと同じだと感じていた。
ステレオサウンド 223号「オーディオの殿堂」で、
黛 健司氏がLNP2Lのところで、こんなことを書かれている。
*
数年前、ひょんなことから、井上卓也先生がLNP2をお持ちだったことを知った(井上先生のことだから、ひと声聴いただけで「コレクション」になっていたのかもしれない。マランツ・モデル7がお好きで何台も所有されていたが、LNP2も手に入れられていたとは意外だった。
*
井上先生はLNP2も数台お持ちだった。
LNP2だけでなくJC2も所有されていた。
記憶違いでなければ、LNP2はマークレビンソン製モジュールだけでなく、
バウエン製モジュールのLNP2も、である。
試聴のあいまで雑談で、ぽろっと話されることがけっこうあった。
井上先生はジェンセンのG610Bに関しても、
別項「ワイドレンジ考(その38)」で書いているとおりである。
その他にも、いくつか知っているけれど、
とにかく、意外なモノも持っておられた。
井上先生が所有されていたオーディオ機器の全貌を知っている人は、おそらくいないだろう。
私が知っているのも、全体の何割かなのかすらわからない。
けれど、この項を書いていると、
223号で殿堂入りしているモノよりも、
井上先生が所有されていたオーディオ機器のほうが、
私にとっては「殿堂入り」にふさわしいモノのように感じられる。
別項「サイズ考(その6)」でも書いていることなのだが、
LS3/5Aの型番表記がいいかげんである。
最近の復刻モデルはLS3/5aと、型番末尾が小文字になっているモデルもある。
だからそれらのモデルはLS3/5aという表記でいいのだが、
ロジャースのLS3/5Aは、大文字である。
ロジャースのLS3/5Aだけではなく、同時期に各社から出たLS3/5Aも、
大文字表記である。
リアバッフルの銘板を見ればわかることだ。
十四年前に書いたことをまた持ち出しているのは、
ステレオサウンド 223号の特集「オーディオの殿堂」を読んでいたら、
ロジャースのLS3/5A(136ページ)が、LS3/5aとなっていたからだ。
LS3/5Aは三浦孝仁氏が担当されている。
三浦孝仁氏の本文は、ちゃんとLS3/5Aとなっている。
なのに編集部は、LS3/5aとしてしまっている。
どうしてこんなことがやらかしてしまうのだろうか。
いまのステレオサウンド編集部には、
LS3/5Aに思い入れをもつ人はいないのだろう、おそらく……。
一昨日のスピーカー、昨日のアンプ、
今日のプレーヤー関係の殿堂入りの機種の発表を見て、
改めて、この「オーディオの殿堂」という企画の無理な面を感じざるをえなかった。
「オーディオの殿堂」は、
いわば50号の旧製品のステート・オブ・ジ・アート賞の焼き直しともいえる。
50号は1979年夏に出ている。
いまから四十年以上前である。
この企画に登場しているオーディオ機器は、まさしく「オーディオの殿堂」といえた。
オーディオの歴史を一端を窺い知れる面もあった。
勉強にもなった、といえる。
過去には、こんなスピーカーやアンプがあったのか。
もちろん知っている機種もあったけれど、初めて知る機種も少なくなかった。
ジェンセンのG610Bは、50号で初めて、その存在を知ることができた。
50号の特集は、何度も読み返した。
似た企画、同じような企画である「オーディオの殿堂」には感じられなかったことが、
いくつもあった。
50号をひっぱり出してくるまでもない。
それほどわくわくしながら読んだ50号なのだから、しっかりと憶えている。
ならば、今回も旧製品のステート・オブ・ジ・アート賞をやればよかったのか──、
そうとは思わない。
旧製品のステート・オブ・ジ・アートは、1979年ごろだったから可能だった企画である。
それに50号の一年ほど前まで、「クラフツマンシップの粋」という連載が続いていた。
この連載があったからこその旧製品のステート・オブ・ジ・アートでもあった。
今回の「オーディオの殿堂」には、それもない。
たとえあったとしても、これまで市場に登場してきたモデル数をふり返れば、
いかに難しい企画というか、無理な企画というのが誰の目にも明らかだったはずだ。
結果、中半端な印象を拭えないし、偏ってもいる。
なぜ、いまになっての「オーディオの殿堂」なのか。