石清水を入力したのに、出てきたのは濁水だった……。
そこまでひどいアンプは、当り前だが存在しない。
でも石清水の味わいが失われて、蒸留水に近くなったり、
蒸留水に、ほんのわずかだが何かが加わって出てくる。
そういう精妙な味わいの変化は、アンプの中で起こっている。
完全な理想のアンプが存在しない以上、
アンプの開発者は、なにかを優先する。
ある開発者は、できるだけアンプ内で失われるものをなくそうとするだろう、
また別の開発者は、不要な色づけをなくそうとするだろう。
もちろん、その両方がひじょうに高いレベルで両立できれば、それで済む。
現実には、特にマーク・レヴィンソンがLNP2に取り組んでいたころは、
失われるものを減らすのか、それとも色づけをなくしていくのか、
どちらを優先するかで、つねに揺れ動いていても不思議ではない。
ふたつのLNP2を聴いて、私が感じていたのは、そのことだった。
バウエン製モジュールのLNP2は、失われるものが増えても、色づけを抑えたい、
マークレビンソン製のモジュールのLNP2Lは、できるだけ失われるものを減らしていく、
そういう方向の違いがあるように感じたのだった。
LNP2Lは失われるものが10あれば、足されるものも10ある。
LNP2は足されるものは5くらいだが、失われるものは15ぐらい、
少し乱暴な例えではあるが、わかりやすく言えば、こうなる。
水の話をしてきたから、ミネラルウォーターに例えると、
LNP2Lは硬水、LNP2はやや軟水か。水の温度も、LNP2Lのほうがやや低い。
これは、どちらのLNP2が、アンプとして優れているかではなく、
オーディオ機器を通して、音楽を聴く、聴き手の姿勢の違いである。
音楽と聴き手の間に、オーディオ機器が存在(介在)する。
その存在を積極的に認めるか、できるだけ音楽の後ろに回ってほしいと願うのか、
そういう違いではないだろうか、どちらのLNP2を採るか、というのは。
そして、LNP2Lを通して足されるものに、黒田先生は、
マーク・レヴィンソンの過剰な自意識を感じとられたのではないのか。
足されるものは、聴き手によって、演出になることもあるし、邪魔なものになる。
瀬川先生は、LNP2Lによって足されるものを、積極的に評価されていたのだろう。
だからこそ、アンプをひとつ余計に通るにも関わらず、バッファーアンプを搭載することに、
積極的な美(魅力)を感じとられた、と思っている。
だからML7Lが登場したとき、
黒田先生は、積極的に認められ導入されている。
瀬川先生は、ML7Lの良さは十分認めながらも、音楽を聴いて感じるワクワクドキドキが薄れている、
そんなことを書かれていたのを思い出す。
JBLの2405とピラミッドのT1Hの試聴記も思い出してほしい。