「複雑な幼稚性」(その2)
解答 (=Solution)の「解」は、
MACPOWER vol.3(2008年)に掲載されている、川崎先生の「ラディカリズム 喜怒哀楽」を読んで、
解体・解剖・分解だと思ってきた。
もうひとつあることに、気がついた。
解放があった。
オーディオは、複雑な幼稚性から解放されなければならない。
解答 (=Solution)の「解」は、
MACPOWER vol.3(2008年)に掲載されている、川崎先生の「ラディカリズム 喜怒哀楽」を読んで、
解体・解剖・分解だと思ってきた。
もうひとつあることに、気がついた。
解放があった。
オーディオは、複雑な幼稚性から解放されなければならない。
「現代的な幼稚症! それはオネゲルにおいてすでに告知され、ショスタコーヴィッチにおいて全盛をきわめた。
まさにアルバン・ベルグやシェーンベルクなどの重荷を負った労苦とは正反対のものである。
幼稚症は、さらに無遠慮に、自己の心理的な状況を大衆のそれに優先させようとする。」
こう、フルトヴェングラーが「音楽ノート」で語っているのは1945年のときである。
60年以上前の言葉なのに、いまもそうじゃないか、と、
「現代的な幼稚症」という言葉が心にひっかかってくる。
いまは「複雑な幼稚性」が静かに蔓延っている時代のように思えてならない。
オーディオもそうだ。
複雑な幼稚性が、大事な本質を覆い尽くそうとしている、といったら言い過ぎだろうか。
具体的な例はあえて挙げない。
ただ「単純 (=Simple)」を、否定的、消極的な意味で捉えているようでは、
いつまでも答は見出せない。そう確信している。
そして「答には、3つある」
MACPOWER vol.3に掲載されている「ラディカリズム 喜怒哀楽」で、川崎先生は書かれている。
「応答 (=Reply)」、「回答 (=Answer)」、「解答 (=Solution)」の3つである。
バックナンバーは入手可能のようだから、ぜひお読みいただきたい。
恥じらいのないその光は、素顔の隅々まであからさまにする──
かわさきひろこ氏は書かれている。
「あからさま」と「あきらか」とでは,明らかに、言葉の持つ意味合い、与える印象がはっきりと異る。
音の情報量をすこしでも精確に、すこしでも多く再生したいとのぞむとき、
恥じらいを失っていては、あからさまにしていくだけになりはしまいか。
恥じらいのない行為──、愛のない行為でもあろう。
川崎先生は、3つの言葉を掲げられる。
「いのち、きもち、かたち」もそうだし、「機能、性能、効能」もそうだ。
川崎先生に倣い、「情報」について考えるとき、あと2つの言葉を考えてみた。
ひとつは「情景」。これはすぐに出た。
もうひとつはなにか……。
しばらく考えて思いついたのは、「情操」だった。
他の言葉が、もっとぴったりはまるかもしれない。
だとしても、情報量について、これから書いていくとき、
「情報・情景・情操」をもとに考えていくつもりだ。
芸術とは非大衆的な事柄である。しかも芸術は大衆に向かって語りかける。
不可思議なことは、最も単純なものは最も偉大な人によってのみ表現されるということ、
そして最も複雑なものは街路に転がっているということである。
偉大さとは魂のうちにある。
*
フルトヴェングラーが1929年に語っている言葉である。
「単純」を、考え方が一面的であると捉えている人が少なくないように思う。
単純(シンプル)と原始的(プリミティヴ)をごっちゃにしていないだろうか。
考え方が一面的なことは、原始的(プリミティヴ)と呼ぶべきだろう。
否定的な意味合いで、単純(シンプル)という言葉を使うのは、
いつ終わりになるのだろうか。
石井幹子氏の言葉について書いたあと、しばらくして、そういえば、照明について、
やはり女のひとが書いている記事があったなぁ、と思い出し、
5年前、インプレス社から発行された、
2号のみの刊行で終ってしまった雑誌「desktop」をひっぱり出した。
引用しておく。
*
真夜中、コンビニの無機質な光源むき出しの光に、私たちは虫のように集まっている。余剰すぎる明るさが、安心感すら与える。けれど、恥じらいのないその光は、素顔の隅々まであからさまにするから困ってしまう。
私たちは「明るい」、「まぶしい」には無頓着。その一方で「暗い」ことには過敏で神経質である。行為、行動を妨げる夜の暗闇は怖い、恐いとまで感じる。
(中略)
目に見えるはっきりとした明るい世界がすべてではない。
見えない、見渡せない、見通せない暗闇には、その隅っこや境界、限界をとらえることはできない奥深さや広がりがある。
*
石井氏、かわさき氏の、光というよりも「あかり」に関する文章を読んでいると、
音の情報量について、きちんと考え直す必要があると思えてならない。
情報量は、ワイドレンジとも絡んでくるし、音量との関係も深い。
そして、もっとも大事なのは、音楽の聴き方そのものに大きく関わってくることだ。
情報量については、しばらくして書くつもりでいる。
いま発売されている週刊文春11月6日号に掲載されている、
照明デザイナーの石井幹子氏のインタビュー記事は、
そのままオーディオに置き換えられる興味深い話がいくつもある。
石井氏は、フィンランドの著名な照明デザイナーのリーサ・ヨハンセン・パッペ氏の教え、
「照明で最も大事なのは光源」
「光は見るものではなく浴びるもの」
「ルックス(明るさの単位)は数字でなく感覚で理解すること」
このライティングの基礎がいまも座右の銘と語られている。
これらは、こう置き換えられるだろう。
「オーディオで最も大事なのは音源」
「音は聴くものではなく浴びるもの」
「dB、Hzは数字でなく感覚で理解すること」
さらに「人を魅きつけるあかりは陰翳のグラデーションの中にこそある」、と語られ、
「照らしすぎた照明では、人は『見える』としか感じられない」、とされている。
情報量の多すぎた音では、人は「聴こえる」としか感じられない、
そういう面が、いまのオーディオにはあるような気がしてくる。
例として、石井氏は、
「目の前の茶碗ひとつにしても、ポッと柔らかなあかりが灯ったところ──
明と暗の中間に美しい陰翳があれば、人の記憶に訴える」ことをあげられている。
情報量が多いだけの音では、記憶に訴えられない、
そんな音で聴いて、音楽が記憶に残るのだろうか、
心を揺さぶるのだろうか。
柔らかな明かりで陰翳をつくれば、ディテールはどうでもいいというわけではない。
「仕事はディテールこそが全体を左右する」と言われている。
欧米の文化が「光と闇の対比」で照明をとらえるのに対して、
日本的な「光と闇の中間領域のグラデーションの美」を表現してみたい、とのこと。
示唆に富む言葉だと思う。
わずか3ページの記事だが、ぜひ読んでもらいたい。
もうひとつだけ。
経験則として語られているのが、人の記憶を呼び覚ます照明デザインは理屈じゃなく、
「肩を寄せあって見つめるにふさわしいあかり」を実現できれば、
「人はそのあかりのもとに集まってきてくれるだろう」と。
なぜ音に関心をもつ人が少数なのか。そのことをもういちど考えなおす、良きヒントだと思う。
21歳ぐらいのときか、西日暮里にあった伊藤(喜多男)先生の仕事場に伺ったとき言われたのが、
「アンプを自作するのなら、一時間自炊をしなさい」であり、肝に銘じてきた。
その一年ほど前に、
伊藤先生がつくられたウェスターン・エレクトリックの349Aプッシュプルアンプを聴いて、
当時使っていたロジャースのPM510に組み合せるのは、「このアンプだ」と思っていた時期であり、
自分でそっくりの349Aアンプをつくろうと思っていることを話したら、上の言葉をいただいた。
つまり人間の感覚のなかで、聴覚は、味覚に比べると目覚めるのが遅い。
味の好き嫌い、おいしい、まずいを判断できるようになる時期と比べると、
聴覚のその時期は人によって異るけど、たいていはかなり遅い。
目覚めの早い味覚、言い変えれば、つきあいの長い自分の味覚を、
自分のつくったもので満足させられない男が、
つきあいの比較的短い聴覚を満足させられるアンプをつくれるわけがないだろう、ということだ。
味覚も聴覚も視覚も、完全に独立しているわけでもない、と。
それにどんなに忙しくても一時間くらいはつくれるはずだし、
一時間の手間をかければ、そこそこの料理はつくれるものだ。
同時に、料理をつくる時間を捻出できない男に、
アンプを作る時間はつくれないだろう、と。
設計をする時間、パーツを買いに行く時間、選ぶ時間、アンプのレイアウトを考える時間、
そしてシャーシの加工をする時間、ハンダ付けの時間……、
それらの時間は料理に必要な時間よりも多くかかる。
納得できる。
一時間自炊はアンプの自作だけに限らない。
アンプやスピーカーを選択し、セッティングし、調整して、いい音を出すことにも、ぴたりあてはまる。
井上先生がよく言われていたのは
「レコードは神様だ、だから疑ってはいけない」。
なかには録音を疑いたくなるようなひどいディスクもあるけれど、
少なくとも愛聴盤、自分が大事にしているディスクに関して、
疑うようなことはしてはいけない、と私も思う。
「このレコードにこんなに音が入っていたのか」ではなく、
「このレコードって、こんなにいい録音だったのか」と思ったことが何度かあるだろう。
己の未熟さを、少なくともレコードのせいにはしたくない。
あいかわらず言われつづけている、シンプル・イズ・ベスト。
肯定する人、そんなのは単純思考だと否定する人がいる。
単純なものが最善ではなく、
フルトヴェングラーの言葉にあるように「偉大なるものはすべて単純である」こそ、
真理であり、不変と言えよう。
偉大なるという言葉が少々大仰ならば、
最善なるものは単純である、ベスト・イズ・シンプルでもいい。
そして大事なのは、ほんとうにシンプル(単純)であるということは、
どういうものかを、見極めることであり、これが難しい。
小林秀雄賞を受賞された多田富雄氏の、「女は存在で、男は現象」論は、
そのまま音についても当てはまると言えるのではないか。
「生の音(原音)は存在、再生音は現象」と考えていきたい。
「人は大事なことから忘れていく」
川崎和男氏の言葉。
だから、私はいまでも五味先生の文章を読み返す。
EMIのクラシック部門のプロデュサーだったスミ・ラジ・グラップは、
「人は孤独なものである。一人で生まれ、一人で死んでいく。
その孤独な人間にむかって、僕がここにいる、というもの。それが音楽である。」
と語っている。
心に刻んでおきたい言葉のひとつである。
「比較ではなく没頭を」──フルトヴェングラーの言葉である。
「音楽現代」7月号から連載がはじまった「フルトヴェングラーの遺言」(野口剛夫)で、
最初に取りあげられたのが、この言葉である。
1954年11月にフルトヴェングラーは亡くなっているから、残されている彼の録音はモノーラルであり、
夥しいライヴ録音には、けしていい録音とは言えないものも多い。
にも関わらず、スタジオ録音、ライヴ録音に関係なく、
CD時代になり、リマスター盤が多く出ている。SACDまで出ている。
マスターテープからの復刻、テープの劣化を嫌って、オリジナルLPからの復刻、
その方法も20ビットハイサンプリングでデジタル化などもある。
それらすべてを聴いたわけでは、勿論ない。聴くつもりもない。
それでも、いくつかを聴くと、たしかに音は異なる。
もっともアナログディスクもなんども復刻されている。
グールドも、リマスターの種類は多い。
オリジナルLPを含めて、どれがいいのか、どう違うのか、比較するのは楽しいといえば楽しい。
情報もモノもあふれているいまは、比較をしようと思えばいくらでもできる。
そして、自分なりに感じたその違いを、簡単に公表できる。
これが、比較することをあおっているような気もする。
レコードに限らない、よりよいモノを求めるために比較する、そんな声がきこえてくる。
けれど、それは比較することに没頭してしまう罠に嵌ってしまうかもしれない。
いうまでもなく没頭したいのは、
フルトヴェングラーの演奏であり、グールドの演奏であるのはいうまでもない。
そして、よりよいモノ、最上のモノを選んだとしたも、
結局、あたえられたものを聴いているのだということに気づいてほしい。