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Date: 11月 20th, 2020
Cate: オーディスト

「オーディスト」という言葉に対して(その28)

1977年秋、ステレオサウンドから別冊として「HIGH-TECHNIC SERIES-1」が出た。
マルチアンプを特集したムックである。

瀬川先生が、マルチアンプについて、かなり長い文章を書かれている。
     *
 EMTのプレーヤー、マーク・レビンソンとSAEのアンプ、それにパラゴンという組合せで音楽を楽しんでいる知人がある。この人はクラシックを聴かない。歌謡曲とポップスが大半を占める。
 はじめのころ、クラシックをかけてみるとこの装置はとてもひどいバランスで鳴った。むろんポップスでもかなりくせの強い音がした。しかし彼はここ二年あまりのあいだ、あの重いパラゴンを数ミリ刻みで前後に動かし、仰角を調整し、トゥイーターのレベルコントロールをまるでこわれものを扱うようなデリケートさで調整し、スピーカーコードを変え、アンプやプレーヤーをこまかく調整しこみ……ともかくありとあらゆる最新のコントロールを加えて、いまや、最新のDGG(ドイツ・グラモフォン)のクラシックさえも、絶妙の響きで鳴らしてわたくしを驚かせた。この調整のあいだじゅう、彼の使ったテストレコードは、ポップスと歌謡曲だけだ。小椋佳が、グラシェラ・スサーナが、山口百恵が松尾和子が、越路吹雪が、いかに情感をこめて唱うか、バックの伴奏との音の溶け合いや遠近差や立体感が、いかに自然に響くかを、あきれるほどの根気で聴き分け、調整し、それらのレコードから人の心を打つような音楽を抽き出すと共に、その状態のままで突然クラシックのレコードをかけても少しもおかしくないどころか、思わず聴き惚れるほどの美しいバランスで鳴るのだ。
     *
グラシェラ・スサーナという固有名詞が出ているのも嬉しかったのだが、
それ以上に、日本語の歌で調整しても、それが「人の心を打つような音楽」として鳴ってくれるのならば、
最新のクラシックの録音も美しいバランスで鳴る、瀬川先生が聴き惚れるほどの音で響いてくれるわけである。

そのスピーカーの鳴らし手が、ほんとうに愛している音楽であれば、
丹精込めて調整していけば、どんなジャンルの音楽でも《聴き惚れるほどの美しいバランスで鳴る》わけだ。

友人のAさんから、つい最近、ある人に、
マイケル・ジャクソンでオーディオを調整している、といったら笑われた、というメールが来た。

笑った人がどういう人なのかは、まったく知らないし、
その人についてAさんに訊ねることもしなかった。
そんな人は、どうでもいい存在だからだ。

とはいえ、いまだにそんな人がいるのか、と思うとともに、
瀬川先生の文章を思い出すだけでなく、
そういう人も、オーディストである、とあらためておもった次第。

オーディスト(audist)は、
ステレオサウンド 179号に掲載されている山口孝氏の文章に出てきている。
私はこの「オーディスト」という言葉を初めて目にしたが、
それ以前から無線と実験では使われていたようだ。

山口孝氏にはそんな意図はまったくなかったのであろうが、
ステレオサウンドの読者をオーディスト(スラングで聴覚障害者差別主義者)と呼んだのは、
上のような人がいまだいるということを考えると、すごい皮肉としかいいようがない。

Date: 7月 22nd, 2019
Cate: オーディスト

「オーディスト」という言葉に対して(その27)

オーディオマニアは、オーディオの力・助けを過剰に必要としているのか──、
これは自問である。

いまのところ、そうだ、とも思っているし、
いや違う、と思うところもある。
はっきりとした答は、まだ見出せていない。

過剰に必要としているところは確かにある。
けれど、たとえばフルレンジ一発のスピーカーシステムで聴いても、
充分満足できることもある。

そういう時には、過剰に必要としているわけではないはずだ。
でも、それは……、とまた考える。

ただひとついえるのは、
オーディオの力・助けを過剰に必要としているということは、
それだけオーディオの力を抽き出している、ということであるはず。

オーディオは、いうまでもなくコンポーネントであり、
さまざまな機種を組み合わせた上で、
ただそれだけでいい音が得られるものではなく、
入念なセッティング、チューニングがあってこそ、
オーディオに関心のない人からすれば、過剰にさえ思えるほどの音(力)を発揮してくれる。

そう考えるならば、
オーディオマニアを蛇蝎視する、ごく一部の人たちは、
実のところ、ひどい器械コンプレックスの可能性だってある。

オーディオマニアは、オーディオの力・助けを過剰に必要としている──、
そうであれば、
オーディオというシステムは、オーディオマニアの力・助けを過剰に必要としている──、
そういえないだろうか。

Date: 7月 21st, 2019
Cate: オーディスト

「オーディスト」という言葉に対して(その26)

レコード(アナログディスクだけでなく録音物すべて)を聴くには、
どんな人であってもなんらかのシステムが必要となる。

どんなに音楽に詳しい人であっても、それは同じことである。

アナログディスクの盤面の溝を眺めて、音楽が聴こえてくるという人はいない。
つまりオーディオというシステムの力を大なり小なり借りなければ、
レコードにおさめられている音楽を聴くことはできない。

オーディオの力・助けを最低限しか必要としない人と、
オーディオの力・助けを過剰に必要とする人とがいる。

後者がオーディオマニアなのかもしれない。

最低限しか必要としないと公言している人からすれば、
オーディオマニアは、過剰に必要とする人たちとうつることだろう。

クラシック音楽を聴く人で、最低限しか必要としない人たちのなかには、
楽譜が読めるから、とか、絶対音感がある、からという人もいる。

強調しておくが、そういう人がいる、ということで、
最低限しか必要としない人すべてがそうだ、ということではない。

楽譜が……、絶対音感が……、
これらの裏にはオーディオマニアへの蔑みがこめられているかのようでもある。

かわいそうに、あなた方は楽譜が読めないんですか、
絶対音感がないんですか……、
私は楽譜が読めますし、絶対音感がありますから、
あなたたちのようにオーディオの力・助けを最低限しか必要としません──。
そう思いながら、オーディオマニアをみている人は、オーディストといえよう。

Date: 6月 9th, 2019
Cate: オーディスト

「オーディスト」という言葉に対して(その25)

6月5日のaudio wednesdayの準備をしていたときのことだ。
常連のHさんが、早めに来てくれて手伝ってくれた。

あれこれいくつかの話題を話していて、
そうだ、これもオーディストなんだなぁ、と合点のいくことがあった。

オーディスト(audist)とは聴覚障害者差別主義者という意味をもつスラングである。
その23)で、
オーディスト(聴覚障害者差別主義者)とは、
神の御言葉を聴けない者は不完全な人間である、
神から与えられた言葉を聴けない、話せない者は不完全な人間である、
と主張する人たちのことだ、と聞いているとも書いた。

今回考えたのは、このことに近いことでもある。
Hさんと話していたのは、
音楽評論家の多くは、音に関心を払わない、
再生するオーディオにも関心を払わない人が多い、ということだった。

いまはそうでもなくなりつつあるのかもしれないが、
私がオーディオに関心をもちはじめたころは、
音楽評論家で音にも強い関心をもつ人はほんとうに少なかった。

別に音楽評論家に限らない。
音楽好きで、レコード(録音物)を介して音楽を聴くことに熱心な人であっても、
音、再生装置にはまったく無関心という人も少なくない、というか、多いように感じる。

そんな話をしながら、そうか、と思ったのは、
音楽好きでありながら、音に関心を払わない人、
そういう人の中には、オーディオマニアをはっきりと軽蔑する人がいる、ということ、
そして、こういう人も、すこし違う意味でのオーディストなんだ、ということである。

Date: 3月 6th, 2018
Cate: オーディスト

「オーディスト」という言葉に対して(その24)

PHILE WEBに
「ヴィーナスレコードは日本に“ジャズのパラダイス”を作った」- 評論家・山口孝氏が語る25年
という記事が公開されている。

山口孝氏は、ここではもう、自らつくられたオーディストを使われていない。
オーディオファンと呼ばれている。

インタヴューではオーディストを語られたのを、
PHILE WEB編集部がオーディオファンを置き換えた、とは考えにくい。

山口孝氏自身が、オーディオファンと表現されたのだろう。

audist(オーディスト、聴覚障害者差別主義者)は、
山口孝氏ももう使われないのだろう。

Date: 9月 13th, 2016
Cate: オーディスト

「オーディスト」という言葉に対して(その23)

audist(オーディスト、聴覚障害者差別主義者)とは、
神の御言葉を聴けない者は不完全な人間である、
神から与えられた言葉を聴けない、話せない者は不完全な人間である、
と主張する人たちのことだ、と聞いている。

このことを知っていたから、(その22)で、
五味先生の「マタイ受難曲」を引用したうえで書いた。

(その22)の最後に書いたことを、もう一度書いておく。

オーディスト(audist)という言葉ではなく、
オーディスト(聴覚障害者差別主義者)を生み出したのは、教会という、人が作ったシステムである。

五味先生の「マタイ受難曲」を読んでも何も感じない輩は、オーディストと名乗ればいいし、使えばいい。

Date: 6月 2nd, 2016
Cate: オーディスト

「オーディスト」という言葉に対して(ステレオサウンドの別冊)

今日はステレオサウンド 199号の発売日。
どんな内容なのか、ステレオサウンドのウェブサイトで確認しようとして気づいた別冊があった。
耳が喜ぶ補聴器選び」である。

これは面白そうだと思う。
書店に行って、どの程度の内容なのか確認したいが、
面白そうであれば、ひさしぶりに買いたい、と思うステレオサウンドの別冊である。

補聴器のフィッティングについて、どこまで取り上げているのか。
私が、この別冊に望む(期待している)のは、そこである。

「耳が喜ぶ補聴器選び」には、こういう関心の他に、
あることをどうしても思ってしまう。

これは私が
「オーディスト(audist = 聴覚障害者差別主義者)」について書いてきているのと関係したことであり、
いわば勘ぐりともいえることだと自覚はしている。

株式会社ステレオサウンドは、ステレオサウンドにおいて、オーディストという言葉を使った。
姉妹誌のHiViでも使っている。

ステレオサウンドの読者をオーディスト(聴覚障害者差別主義者)と呼んだわけであり、
ある意味自らをオーディスト(聴覚障害者差別主義者)と名乗った、ともいえる。

その後、だんまりを決め込んでいる。
その株式会社ステレオサウンドが、今回「耳が喜ぶ補聴器選び」を出している。
これはオーディスト(聴覚障害者差別主義者)ではない、という表明なのでは……、
と私は受けとっている。

Date: 3月 13th, 2016
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その22)

「天の聲」に収録されている「マタイ受難曲」。
五味先生は、こう結ばれている。
     *
 ずいぶん人の道に私は背いて生きた。ろくなことはしなかった。妻を幾度も裏切った。その度に、おのれの才能をも裏切ることしか私はしなかったようにおもう。仕方があるまい。女に惚れたから妻を男は裏切るものでもない。決断がにぶったから結果的にそうなることだってある。むろんこんな愚行は涜神にもなるまいし、あくまで愚行だが、そのために女が自殺したら、これはもう神との問題にならないか。自分と神との。「神は死んだ」と言われだして何年たつか知らないが、もともと、キリスト教的神観念などわれわれは持たないのだから、死にようもない。だが神はいる。「神話に見放されたおかしな神々」を本気で楽劇に登場させた音楽家だっているのだ。夏の盛りに、わざわざバイロイトまでその神を観に往く人がいるあいだは、神は存在する。シュヴァイツァー博士の弾くバッハをむかし、レコードで聴いたとき僭越ながらこいつは偽善者の演奏だと私は思い、以来、シュヴァイツァーを私は信用しないが、でも、神はいるのである。
 この正月、NHKのFMで『マタイ受難曲』の放送があった。それを機に、カール・リヒターのアルヒーヴ盤と、クレンペラーのを聴きなおし、丸二日かかった。ことしのお正月は何もせず『マタイ受難曲』と対合って過ごしたようなしだいになるが、聴いていて、今の日本のソリストたちで果して『マタイ』が演奏できるのだろうか、と考えた。出来やしない。これほどの曲を碌に演奏もできず、アップライトのピアノばかりが家庭に売りこまれてゆくとは、何と奇妙な国にぼくらはいるんだろう。指揮者だってそうだ、洟たれ小僧がアメリカで常任指揮者になったといってピアノを買う手合いは、大騒ぎしているらしいが『マタイ受難曲』は彼には振れまい。心ある人は欧米にだっているに違いないので、そういう人に受難曲やミサ曲を振れようのない指揮者は何とうつるだろう。悲しいことだ。でも背伸びしてどうなるものでもない。さいわい、われわれはレコードで世界的にもっともすぐれた福音史家の声で、聖書の言葉を今は聞くことが出来、キリストの神性を敬虔な指揮と演奏で享受することができる。その意味では、世界のあらゆる——神を異にする——民族がキリスト教に近づき、死んだどころか、神は甦りの時代に入ったともいえる。リルケをフルトヴェングラーが評した言葉に、リルケは高度に詩的な人間で、いくつかのすばらしい詩を書いた、しかし真の芸術家であれば意識せず、また意識してはならぬ数多のことを知りすぎてしまったというのがある。真意は、これだけの言葉からは窺い得ないが、どうでもいいことを現代人は知りすぎてしまった、キリスト教的神について言葉を費しすぎてしまった、そんな意味にとれないだろうか。もしそうなら、今は西欧人よりわれわれの方が神性を素直に享受しやすい時代になっている、ともいえるだろう。宣教師の言葉ではなく純度の最も高い——それこそ至高の——音楽で、ぼくらは洗礼されるのだから。私の叔父は牧師で、娘はカトリックの学校で成長した。だが讃美歌も碌に知らぬこちらの方が、マタイやヨハネの受難曲を聴こうともしないでいる叔父や娘より、断言する、神を視ている。カール・バルトは、信仰は誰もが持てるものではない、聖霊の働きかけに与った人のみが神をではなく信仰を持てるのだと教えているが、同時に、いかに多くの神学者が神を語ってその神性を喪ってきたかも、テオロギーの歴史を繙いて私は知っている。今、われわれは神をもつことができる。レコードの普及のおかげで。そうでなくて、どうして『マタイ受難曲』を人を聴いたといえるのか。
     *
ずいぶん前に読んだ。
それから何度も読み返した。
このところは何度か引用した。

ぼんやりとだが、教会と信仰は別である、と最初に感じた。
読み返し、何度か引用し、少しずつそうだと確信できるようになってきた。

オーディスト(audist)という言葉ではなく、
オーディスト(聴覚障害者差別主義者)を生み出したのは、教会という、人が作ったシステムである。

五味先生の、この文章を読んでも何も感じない輩は、オーディストと名乗ればいいし、使えばいい。

Date: 3月 2nd, 2016
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その21)

Google 翻訳で audist を日本語にすると、聴覚障害者差別主義者と出る。

私はこれまでオーディスト(audist)を、聴覚障碍者を差別する人、団体、と書いてきた。
意味は同じであるからで、あえて聴覚障害者差別主義者とは書かなかった。

「聴覚障碍者を差別する人、団体」と「聴覚障害者差別主義者」とでは、
目にしたときの印象が違うからである。

意味を知っていても、Google 翻訳で聴覚障害者差別主義者と表示されると、どきっとする。

そして考えたいのは、どうしてオーディスト(audist)という言葉が出てきて、使われるようになったかだ。

Date: 12月 28th, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その20)

facebookを通じて、あるページを知った。
一関ベイシーの菅原正二氏のインタヴュー記事である。
聞き手は一関きらり氏。

この記事にこうある。
     *
一関 いやいや。一関市のアピール不足ですよね。実は私が住んでいる東京の日野市に国宝の高幡不動尊がありまして、新選組の土方歳三の菩提寺なんですが、その土方歳三を讃える石碑の選文が大槻三賢人の一人、大槻磐渓なんですよ。こういった事も、一関市がもっとアピールしていけば、面白いと思うんですがね。
菅原 ううん、日野市・・・。
一関 誰かお知り合いでも?
菅原 日野市に山口孝というオーディオ評論家をやってた強者がいたんですよ。ここにも、しょっちゅう来てたんです。本も結構、出してますよ。ただ、介護していたおふくろさんが亡くなって、断筆したんですよ。
一関 それほど、ショックだったんですかねえ。
菅原 すごい、とんがった妥協のない男だったからねえ。なあなあという部分が一切ない男だったから、折れやすいんだよね。たぶん・・・。
一関 何か、お仕事はされてるんですよね。
菅原 ううん、一人で座禅でも組んで音楽でも聴いてるんじゃないかなあ。
一関 いやあ、すごいですね。
菅原 聞き方が半端じゃないのよ。音楽と面と向かって、座禅でも組むような感じで聴いてますからね。
     *
もとのページでは色によって発言者を区別してあったけれど、
それではわかりにくいので、発言の頭にそれぞれの名前を入れているだけで、
あとはそのまま引用した。

これを読んで、どう感じ、何を思い、何を考えたかは、あえて書かない。
読まれた方がそれぞれに感じ、思い、考えれば、いいことである。

Date: 12月 23rd, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その19)

まだまだ書きたいことはある。
書くほどに書いておきたいことが出てくる。

でも、いったんこのへんにしておく。
(その16)に書いているように、山口孝氏がどう思われているのか、感じられているのかを知った上で、
書きたいからだ。

なので、町田秀夫氏には再度お願いしたい。
山口孝氏がどう思われているのかを確認していただきたい。

でも、これだけは書いておく。
町田秀夫氏は、こう書かれている。
     *
宮﨑氏が編集部に連絡した時点で、すべてが終わってしまったのだ。ステレオサウンド誌からは山口氏の記事が消え、また別の出版社は山口氏の新刊本の準備を終えていたにも関わらず、この騒動を契機に出版を取り止めている。
     *
私が原田勲氏に連絡したのは、すでに書いたように2012年8月である。
私の見落しでなければ、山口孝氏は179号(2011年6月発売)に書かれた後は、
183号(2012年6月発売)まで、なにひとつ記事は書かれていなかった。

私がオーディストの件で連絡したから、山口孝氏の記事が消えてしまったわけではない可能性もある。
それとも184号から連載がはじまる予定があったのだろうか。
それが、私が連絡したために消えてしまったのだろうか。

そのへんのはっきりしたことは、私にはわからない。

Date: 12月 23rd, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その18)

ステレオサウンドは、誰のためのものか。
そう問われれば、読者のためのもの、とも答えるし、
クライアント(オーディオメーカー、輸入商社)のためのもの、とも、
筆者のためのもの、とも答える。

けれど、ステレオサウンドは誰のもの。
そう問われれば、原田勲氏の本だと即座に答える。

私は、このオーディストの件も含めて、
ステレオサウンドに対して批判的なことを書いている。
私が書いているものを読んで、
遠慮も配慮もないやつだな、と思われる人がいても不思議ではない。

それでもあえていうが、侵してはならない領域があるのはわかっている。
「オーディスト」はその領域に入りこんでくる。

私はステレオサウンド(原田勲氏の本)には、感謝している。
ステレオサウンドが、原田勲氏以外の人によって創刊されていたら、
まったく別のオーディオ雑誌になっていたし、私のオーディオ人生も違ったものになっていたかもしれない。

原田勲氏の五味先生に対するおもいがあったからこそ、ステレオサウンドはステレオサウンドたりえていた。

今日町田秀夫氏は、こう書かれている。
     *
五味氏は補聴器を用いていたが、自らを「聴覚障碍者」だとは考えていなかっただろうし、むしろ卓越した聴取能力を誇っていた。音を聴き取ることは、耳の能力だけでは語れないことは、以前から申し上げているとおりだ。
     *
これを読んで、がっかりした。
町田秀夫氏は五味先生の書かれたものを読まれていないのだ、とはっきりとわかったからだ。

こんなふうに書くと、読んでいると反論が来るだろう。
でも、ほんとうに読まれているのだろうか。
字面を追いかけただけの読むではなく、
五味先生の「西方の音」「天の聲」「オーディオ巡礼」をほんとうの意味で読まれたのか。

読んでいる人ならば、《自らを「聴覚障碍者」だとは考えていなかっただろう》とは間違っても書けない。
その後に続くことは、私も同感であるが、この部分に関しては、
町田秀夫氏にがっかりした、ひどくがっかりした。
なぜ、読まずにこんなことを書かれるのか、と。
読んでいなければ書かなければいいだけなのに……。

何度も出てくる。
オーディオマニアとして、音楽愛好家として、
そして女性を愛する男として、聴覚に障碍のあることを悩まれていた、苦しまれていたことを、
「西方の音」「天の聲」「オーディオ巡礼」を読んだ人ならば知っている。
五味先生が独白されているのを、知っている。

私は五味先生には会えなかった。
文章のうえだけで知っているだけだ。

原田勲氏は違う。
五味先生のそういう姿を、傍らで見ておられたはずだ。

だから、私はオーディストの件で、原田勲氏にメールしたのだ。
五味先生の文章に、何度もなみだをこぼした者として。
そして、ステレオサウンドの存在に感謝している者として。

Date: 12月 23rd, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その17)

オーディストに関する今回のことは、議論にはならないと私は思っているし、
町田秀夫氏は山口孝氏、私は五味先生のところから発言している。

私はニュートラルな立場から書いているわけではない。
そして私は町田秀夫氏が書かれていることも、
町田秀夫氏がニュートラルな立場から書かれているものとは思っていない。

私はこれでいいと思っている(町田秀夫氏がどう思われているのかわからないが)。

今日、町田秀夫氏は「幻聴日記」で、
私がオーディストの件で、ステレオサウンド編集部に連絡した、と書かれている。
私はステレオサウンド編集部には、連絡していない。

町田秀夫氏は、こんな簡単な事実確認をなぜされないのだろうか。
ステレオサウンド編集部に問い合せられるか、私にメールされればきちんと答える。
なにひとつ確認されずに、そう書かれている。

オーディストの件で、ステレオサウンド編集部に連絡しても、私は無意味だと考えた。
オーディストが載ったのは、ステレオサウンド 179号。
2011年3月11日のあと、最初に出たステレオサウンドであり、
特集は、それまでの特集記事とは当然違う内容のものだった。

そこにオーディストはあらわれた。
なぜ、よりもよって、この号に「オーディスト」を、何の説明もなしに載せてしまったのか、
とオーディストの意味を知って、そう思った。

そういう編集部に対して、オーディストの件でメールしても、無視されるだけだと思った。
それに私はステレオサウンド編集部の方たちのメールアドレスをまったく知らない。
だから出しようもなかった。

私が、オーディストの件でメールを出したのは、ステレオサウンドの原田勲会長である。

この違いは、町田秀夫氏にとっては些細な違いかもしれないが、
私にとっては大きな違いであり、だから原田勲氏宛にメールを出した。

メールの内容は、オーディストの意味について書いただけの、ごく短いものである。
出したのは179号の約一年後の2012年8月である。

Date: 12月 23rd, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その16)

結局、また書くことになってしまった。
(その12)に書いているようにしばらく、この件については黙っているつもりでいた。
けれど、町田秀夫氏が、ご自身の「幻聴日記」にまた書かれているので、また書くことにした。

おそらくこれから書くことを読まれて、町田秀夫氏はまだ明日、何か書かれるかもしれない。
そうなると私もまた明日書くことになるだろう。

そうなったらとことん書いていこうと思っているが、
これだけは町田秀夫氏にお願いして確認してほしいことがある。

それは山口孝氏は、こういうことになるのを望まれているのか、
それとももう書かないでほしい、と思われているのか、である。

私は山口孝氏とは面識がない。
だから町田秀夫氏にお願いするしかない。

それから、これも先に書いておくが、山口孝氏が私に直接、
この項で書いていることは私(山口孝氏)への人格攻撃だといわれれば、
直接お会いして謝罪しよう。

そして、その時に、山口孝氏から直にオーディストについての考えをききたい。
これはくり返すが、町田秀夫氏にお願いするしかない。

これもくり返しになるが、私自身は、山口孝氏を糾弾しているつもりはまったくない。
けれど、知らず知らずのうちに人を傷つけていることはある。

これは理屈ではなく、今回の件では山口孝氏がそう感じられていたら、謝罪するが、
それでも町田秀夫氏が書かれていることに納得したわけではない。
これだけははっきりしておく。

Date: 12月 22nd, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その15)

オーディストという言葉に対して、(宮﨑は)過剰反応している──、
そう思う人がいる一方で、私がここで書いていることに全面的ではなくとも同意される人もいるし、
そんなことどうでもいいじゃないか、という人もいる。

それでいいと、私は思っている。
今回のことで改めて思ったのは、オーディストという言葉に対する、それぞれの反応が顕にするものである。