三週間ほど前に、ひさしぶりにすやの栗きんとんを食べた。
(その3)で触れているすやの栗きんとんである。
すやの栗きんとんを最初に食べたのはハタチのころだった。
20代のころは、よく買っていた。
日本橋の高島屋、銀座の松屋の全国銘菓コーナーで行けば、すんなり買えていた。
夕方遅くだと売り切れていることもあったけれど、買うのに苦労したことはまずなかった。
それがいつのころからか、よく似た栗きんとんが出回るようになった。
すやの栗きんとんよりも安かったり、高かったりしていた。
そのいくつかを試しに買ってみたけれど、すやのがいちばんだった。
いま、それらはどうなったのだろうか。
すやの栗きんとんは残っている。
けれど、人気なために、いまでは予約しない買えないようになってしまっている。
そのためずいぶんながいこと食べていなかった。
先日食べたのは、二十年ぶりぐらいである。
変らぬ美味しさだった。
食べ終って、すやの栗きんとんには装飾がいっさいないことに気づいた。
装飾がない、というよりも、装飾を求めていない。
拒否している、ともいってだろう。
伊藤先生の真贋物語、
ステレオサウンド 43号掲載の真贋物語に、プリンのことが出てくる。
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カスタード・プッディングはキャラメル・ソースがかかっているだけのが本来なのに、当節何処の喫茶店へ行っても、真面(まとも)なものがない。アラモードなどという形容詞がついて生クリームが被せてあって、その上に罐詰のみかんやチェリーが載っていたりして、いや賑やかなことである。何のことはないプッディングは土台につかっての基礎工事なのである。味は混然一体となって何の味であるかわからないように作ってある。幼児はそれを目にして喜ぶかも知れないが成人がこれを得得として食べている。
カスタード・プッディングは繊細な味を尊ぶ菓子であるだけに悪い材料といい加減な調理では、それが簡単なだけにごまかしが効かない。一見生クリーム風の脂くさい白い泡とまぜて、ブリキの臭いのする果物のかけらと食えば折角のキャラメル・ソースの香りは消え失せて何を食っているのか理解に苦しむ。しかしこうした使い方をされるプッディングは概ね単体でもまずいものであろう。
価格は単体でなく擬装をして手間をかけてまずくしてあるから単体よりも倍も高い。長く席を占領されて一品一回のサーヴ料金を上げなければならないから止むを得ぬ商策であろうが、困った現象である。
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カスタード・プッディングは装飾されがちである。
装飾されていないカスタード・プッディングも、もちろんある。
すやの栗きんとんは、おそらくこれから先、何十年経っても、
装飾されることはないはずだ。