カラヤンのマタイ受難曲(その2)
昨夜寝る前に思い出したことがある。
五味先生が「メサイア」で書かれていたことだ。
*
『マタイ受難曲』を硬質で透明なクリスタル・ガラスの名器とすれば、『メサイア』は土の温もりを失わぬ陶器、それも大ぶりな壺だろうか。透明度は明晰性に、硬度は作者の倫理性に根差すのなら、『マタイ』が上位に位置するのは言う迄もないことだ。しかし土の温もりも私には捨て難いし、どちらかといえば、気軽に、身構えず聴く気になるのは『メサイア』第二部の方である。
*
マタイ受難曲を、硬質透明なクリスタル・ガラスの名器とたえとられている。
そのとおりだと思う。
ならば、なぜカラヤン/ベルリン・フィルハーモニーのドイツ・グラモフォン盤を、
これまで遠ざけてきたのだろうか、と思っていた。
理由ははっきりしている。
けれど、私にとってカラヤンのマタイ受難曲を遠ざけるもっとも大きな理由となった五味先生の文章が、
暗にカラヤンのマタイ受難曲を推しているようにも読めることに気づき、苦笑いするしかなかった。
まだカラヤンのドイツ・グラモフォン盤のマタイ受難曲は聴いていない。
それは硬質で透明なクリスタル・ガラスの名器のごとき演奏なのだろうか。