オーディオの想像力の欠如が生むもの(その20)
オーディオの想像力の欠如がしているところに、オーディオの規範はない。
オーディオの想像力の欠如がしているところに、オーディオの規範はない。
オーディオの想像力の欠如が、セッティング、チューニングの境界をさらに曖昧にしている。
オーディオの想像力の欠如から生れる浅陋、
浅陋のままつくられる商業誌は、誌面を彩っても賎陋でしかない。
オーディオの想像力の欠如のままで、有機的な体系化をつくり出せるだろうか。
ゆえに浅陋なのか。
オーディオの想像力の欠如の怖さは、楽な聴き方に安住してしまっていることを、
本人に気づかせないことにある。
オーディオの想像力の欠如は、正しい音の存在の否定へと傾く。
そして正しい聴き方から遠ざかっていく。
オーディオの想像力の欠如が生むのは、音だけでなく音楽をも所有できるという錯覚だ。
昨日のブログで取り上げたオタイオーディオの取り組み。
この取り組みが、オタイオーディオのブログで公開されたのが12月21日。
私は四日遅れで、facebookを通じて知った。
だから昨日(12月225日)に書いた。
今日(12月26日)、
ステレオサウンドのウェブサイトでも、オタイオーディオの,この取り組みが取り上げられている。
Stereo Sound ONLINE 編集部・佐藤めぐみ氏が記事を書かれている。
「ホームパーティーにピュアオーディオを。名古屋のオタイオーディオが、日本ホームパーティー協会とコラボ」
というタイトルがついている。
一日遅れで、ステレオサウンドのウェブサイトが記事にしている。
きっと、偶然なのだろう。
私のブログを読んで、オタイオーディオの取り組みを知ったわけでもないだろう。
オーディオの想像力の欠如がしたままでは、たがやせない。
たがやすことができなければサイクルも生れない。
オーディオの想像力の欠如がしたままでは、おもしろいオーディオ雑誌はつくれない。
それはたがやされていないからだ。
オーディオの想像力の欠如によってたがやせないのは情報だけではない。
技術もである。
オーディオの想像力の欠如が生むのものひとつに、「たがやすことのできない人」がいる。
オーディオの想像力の欠如が生むのものひとつに、「物分りのいい人」がいる。
「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」である。
オーディオの想像力の欠如が、音を所有できると錯覚させるのだろう。
オーディオの想像力の欠如が生れるのは、飽和点に達してしまうからかもしれない。
その飽和点に直ちに達してしまうほど、夢、そして理想(ロマン)をみる能力が低いのかもしれない。