オーディオの想像力の欠如が生むもの(その13)
オーディオの想像力の欠如がしたままでは、たがやせない。
たがやすことができなければサイクルも生れない。
オーディオの想像力の欠如がしたままでは、たがやせない。
たがやすことができなければサイクルも生れない。
オーディオの想像力の欠如がしたままでは、おもしろいオーディオ雑誌はつくれない。
それはたがやされていないからだ。
オーディオの想像力の欠如によってたがやせないのは情報だけではない。
技術もである。
オーディオの想像力の欠如が生むのものひとつに、「たがやすことのできない人」がいる。
オーディオの想像力の欠如が生むのものひとつに、「物分りのいい人」がいる。
「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」である。
オーディオの想像力の欠如が、音を所有できると錯覚させるのだろう。
オーディオの想像力の欠如が生れるのは、飽和点に達してしまうからかもしれない。
その飽和点に直ちに達してしまうほど、夢、そして理想(ロマン)をみる能力が低いのかもしれない。
オーディオの想像力の欠如が生むのは、「耳」の想像力の欠如であろう。
「耳の」の想像力の欠如が生むものは……。
情報がBGM化していく時代のような気がしてならない。
情報はinformationだから、background informationでBGIか。
でも情報というよりメディアがBGM化していると捉えるならば、
background mediaだから、BGMとなる。
音楽の聴き方も、ある意味BGM(background media)的になりつつあるような気もする。
こう書いておきながら、こじつけようとしているのではないか、という自問もある。
それでもウィルソン・ブライアン・キイの「メディア・レイプ」とは、
こういうことを指しているのではないか、ともやっぱり思えてしまう。
(その2)で書いているように、
ウィルソン・ブライアン・キイの「メディア・セックス」と「メディア・レイプ」は、
30年近く前に読んではいるけれど、タイトルだけが印象として残っているだけである。
ウィルソン・ブライアン・キイがどういう糸で「メディア・レイプ」と使ったのか。
不思議なくらいに思い出せない。
だから、ここでの「メディア・レイプ」は、
ウィルソン・ブライアン・キイのそれとは違う意味で使っている可能性がある。
それでもBGM(background media)とメディア・レイプはいまつながりつつある、
もしくは融合しつつある──、と考えるのは根本から間違っていることなのだろうか。
ステレオサウンド 42号についていたアンケートハガキ(ベストバイ・コンポーネントの投票)、
この記入は考え方次第で、楽にもなるし、考え込むことにもなる。
知っている範囲で、欲しいと思うコンポーネントのブランドと型番を、
各ジャンルで書いていくのであれば、楽である。
自分で買えるかどうかはこの際考えない。
とにかく「欲しい」と思うモノを記入していく。
その結果、どういう組合せになるだろうか。
ひとりの人間が「欲しい」と思うモノだから、
スピーカーにしてもアンプにしても、カートリッジにしても、
音の傾向がまるで違うモノが並ぶことは、原則としてはあり得ないはずだ。
けれど実際は違う。
編集部にとってアンケートハガキは、興味深いものである。
編集部に戻ってくるハガキの数は、読者のすべてではないことはわかっている。
送ってくる人よりも送らない人のほうが圧倒的に多い。
それでも最新号が書店に並んで数日後、
ぽつぼつとアンケートハガキが戻ってくるのに目を通すのは、楽しかった。
読者の選ぶベストバイ・コンポーネントの集計は、私が担当していた。
だからよくわかっている。
アンケートハガキには、投票機種の記入だけでなく、
現用機種の記入欄もあったから、そこから読みとれることはいくつもあるといえる。
感じたのは、意外にも組合せとしてちぐはぐに感じられるモノが並んでいるハガキがあること。
それも少なくなかった、ということ。
42号でのアンケートハガキでの記入で、
私がいちばん考えたのは、組合せとしてどういう音を聴かせてくれるのか、だった。
まず、これをお読みいただきたい。
*
八百長、提灯持ち的記事 レコード、電蓄などに関する記事で時々八百長的、提灯持ち的印象を与えるのがある。原稿料は雑誌社が出すのか、メーカー側が受け持つのかと疑いたくなるものさえある。優秀品をよしとするのは一向に差し支えないが、度を過すと逆効果だ。質問欄なども公平で的確なのがある一方、雑誌によつて紐付き的解答もなしとしない。筆者と会社のコネを知つている者にはすく察しがつくが、一般読者はだまされる。商品のカタログ・データをそのまま持ち出しての推薦は無価値同然、これは店員のすることだ。読者もこれはホンモノか、これはヒモツキかと見抜く力が必要である。
*
藝術新潮に載っていた。
1964年1月号であるから、52年前の文章だ。
誰が書いたのかはわからない。
載っているのは「日本版LP 1月新譜抄」の隣に、コラムとして、である。
「日本版LP 1月新譜抄」のところにも筆者の名前はない。
ただこれは西条卓夫氏が書かれたものであることはわかっているし、
そのことを知らなくとも読んでいれば、すぐに察しがつく。
コラムには「メーカー、レコード界への注文」とつけられている。
上に引用したのは、その一部でしかない。
電蓄をオーディオと、
よつて、知つている、を、よって、知っているに書き換えれば、
ほとんどの人が52年前に書かれたものだとは思わないはずだ。
ステレオサウンドがオーディオの雑誌なのか、オーディオの本だったのかは、
別項で書いている「オーディスト」のことにも深く関係している、と私は感じている。
ステレオサウンドは2011年6月発売の号の特集で、オーディストという言葉を使っている。
大見出しにも使っている。
その後、姉妹誌のHiViでも、何度か使っている。
「オーディスト(audist = 聴覚障害者差別主義者)」。
その意味を調べなかった(知らなかった)まま使ったことを、
おそらく現ステレオサウンド編集長は、何ら問題とは思っていないようだ。
当の編集長が問題と思っていないことを、
こうやって書き続けることを不快と思っている人もいるけれど、
この人たちは、ステレオサウンドをオーディオの雑誌と捉えている人としか、
私には映らない。
オーディオ評論の本としてのステレオサウンド。
そう受けとめ、そう読んできた人たちを「オーディスト(audist = 聴覚障害者差別主義者)」と呼んで、
そのことを特に問題だとは感じていないのは、
もうそういうことだとしか私には思えない。
いまステレオサウンドに執筆している人たちも、誰一人として、
「オーディスト(audist = 聴覚障害者差別主義者)」が使われたことを問題にしようとはしない。
つまりは、問題にしていない執筆者も、
ステレオサウンドをオーディオの雑誌と捉えているわけで、
オーディオ評論の本とは思っていない──、そういえよう。
これは断言しておくが、
いまのステレオサウンド編集部は、ステレオサウンドをオーディオの雑誌と捉えている。
というよりも、オーディオ評論の本とは捉えていないはずだ。
でも、それは致し方ない、とも一応の理解を示しておく。
私もステレオサウンド編集部にいたころは、そのことに気づかなかった。
なぜ気づかなかったのか。
理由はいくつかあると思っているが、
もっとも大きな理由は、オーディオマニアにとってステレオサウンド編集部は、
とても楽しい職場であることが挙げられる。
もちろん大変なことも少なくないけれど、
オーディオマニアにとって、あれだけ楽しい職場というのは、
他のオーディオ関係の雑誌編集部を含めても、ないといえよう。
このことが、ステレオサウンドは、以前オーディオ評論の本であったこと、
いまはオーディオの雑誌であるということに気づかせないのではないか。
そうはいってもステレオサウンドが、真にオーディオ評論の本であった時代はそう長くはない。
おそらくいまの編集部の人たちはみな、
ステレオサウンドがオーディオ評論の本であった時代を同時代に体験していないはずだ。
そういう人たちに向って、いまのステレオサウンドは……、ということは、
酷なことである、というよりも、理解できないことなのかもしれない。
ステレオサウンド編集部が私のブログを読んでいたとしても、
私がステレオサウンドに対して書いていることは、
「何をいっているだ、こいつは」ぐらいにしか受けとめられていないであろう。
編集部だけではない、
ステレオサウンドがオーディオ評論の本であったことを感じてなかった読者もまた、
「何をいっているだ、こいつは」と感じていることだろう。
ならば書くだけ無駄なのか、といえば、決してそうではない。
私と同じように、
ステレオサウンドが以前はオーディオ評論の本であったことを感じていた人はいるからだ。
ステレオサウンド 26号からある連載が始まった。
わずか四回で、それも毎号載っていたわけではない、
しかも地味な、といえる企画ともいえた。
タイトルは「オーディオ評論のあり方を考える」である。
26号の一回目は岡先生、28号の二回目は菅野先生、30号三回目は上杉先生、
31号が最後の四回目で岩崎先生が書かれている。
瀬川先生、長島先生、山中先生が書かれていないのが残念だが、
この記事(企画)は、どこかで常に読めるようにしてほしいと、ステレオサウンドに希望したい。
そしてできるならば、200号で、
ステレオサウンドに執筆されている方全員の「オーディオ評論のあり方を考える」を載せてほしい。
難しいテーマである。
書けそうで書けないテーマでもあるからこそ、
その書き手のバックグラウンド・バックボーンの厚さ(薄さ)が顕在化してくるはずだ。
華々しい企画で200号の誌面を埋め尽くそうと考えているのならば、
こういう企画は無視させるであろう。
だから問いたいことがある。
ステレオサウンドは何の雑誌なのか、である。
オーディオの雑誌、と即答されるはずだが、
ほんとうにステレオサウンドはオーディオの雑誌なのか、と思う。
私も10代のころ、まだ読者だった頃はそう思っていた。
けれどステレオサウンドで働くようになり、
それも瀬川先生不在の時代になって働くようになってわかってきたのは、
それもステレオサウンドを離れてからはっきりとわかってきたのは、
ステレオサウンドはオーディオ評論の本であった、ということだった。
こういう捉えかたをする人がどれだけおられるのかはわからない。
でも、同じようにステレオサウンドをオーディオ評論の本として捉えていた人、
ステレオサウンドにははっきりとオーディオ評論の本と呼べる時代があった、と感じている人は、
絶対にいるはずだ。
長島先生が、サプリームNo.144(瀬川先生の追悼号)に書かれたことを憶い出す。
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オーディオ評論という仕事は、彼が始めたといっても過言ではない。彼は、それまでおこなわれていた単なる装置の解説や単なる印象記から離れ、オーディオを、「音楽」を再生する手段として捉え、文化として捉えることによってオーディオ評論を成立させていったのである。
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私はそういう瀬川先生が始められた「オーディオ評論」を読んできた。
菅野先生もステレオサウンド 61号に書かれている。
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この彼の純粋な発言とひたむきな姿勢が、どれほどオーディオの本質を多くの人に知らしめたことか。彼は常にオーディオを文化として捉え、音を人間性との結びつきで考え続けてきた。鋭い感受性と、説得力の強い流麗な文体で綴られる彼のオーディオ評論は、この分野では飛び抜けた光り輝く存在であった。
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少なくとも、ある時期のステレオサウンドに載っていたオーディオ評論は、
「オーディオは文化」という共通認識の上に成り立っていた。
けれど、どうもいまは違ってきているようだ。
「オーディオは文化」と捉えていない人が、オーディオ評論家と呼ばれ、
オーディオ評論と呼ばれるものを書いている。
それがステレオサウンドに載っている……、そう見ることもできる。
それはそれでもいいだろう。
長島先生がいわれるところの、瀬川先生が始められたオーディオ評論とは違うものだからだ。
別のところから始まったオーディオ評論があってもいいとは思う。
だが、「オーディオは文化」と捉えていない人が、
瀬川先生について書いているのを読むのと、一言いいたくなる衝動が涌いてくる。